13 / 41
華夏の巻
天下の小孩子
しおりを挟む
張政は、姫氏王名義の上表を読み上げ続ける。
「我が先祖は呉の太伯の一族で、その国が滅びた時、百姓を率いて海に入り、舟を泛かべて東へ流れ、倭人に雑居し、今に至るまで六百有余年を経ております。……」
ここの所を書く時、張政には躊躇が有った。かつて周の古公亶父の子、太伯が建てた呉国の地に、今は孫権が呉王朝を称して割拠し、魏による天下統一を拒んでいる。姫氏王の先祖が呉の太伯であるという事は、倭人が呉に親いという印象を与えるかもしれなかった。だが外夷の王権の由来は、中国の士人が関心を寄せる所でもあるし、それが不都合であるかどうかは、張政などが判断すべき問題ではなかった。だから張政は結局、已前に倭人の故老から聞かされたそのままに書いておく事にした。それが真実であるかどうかは知らない。
「……かつて漢の光武帝の時、倭人は奴王氏を立てて君公とし、朝見して王爵を与えられました。しかし霊帝の頃、奴王氏の徳は衰え、諸国は互いに攻め、何年も主たる者が無いままでした。そこで我が父は先祖の徳を懐い、姫氏を称して立ち、人々を導いて奴王氏を討ちました。人々は父に諸国の主君たる事を望みましたが、父は辞びて郷へ還り、そこで吾を立てて王としました。
時に魏が漢の禄を継いだ事を聞きましたが、公孫氏が路を塞いでいたため中国に通う能わず、故に自ら窃かに王を称し、倭人の諸国を綏撫するに努めておりました。今、司馬将軍が公孫氏を伐ち、遼東の罪人が逃げるのを、我が手の者が捕らえましたので、大夫の難斗米と都市牛利を遣わし、御許へ送り届けさせます。どうか納め受け垂さい」
読み終えて張政は、背筋から何か重苦しい物が少しだけ抜けるのを覚えた。文書は封筒に収め、机の上に置く。するとそれを取り次ぎの官吏が取って、階段を昇って行く。丁謐が受け取り、皇帝に差し上げる。実際には事前に提出されているのだが、これも儀礼の形式である。前に並べられていた十人の囚人は、兵士に引き立てられて退場した。替わって司馬子上を先頭に、大きい匣を兵士たちが運び込み、一列に並べて置く。匣には紫色の絹が掛けられている。皇帝は侍従から封書を渡され、それをまた司馬仲達が受け取る。
「陛下より、倭人たちに御言葉を賜わる」
仲達は、その太い骨と高い背に相応しく、重々しい声で詔書を読み上げる。
「親魏倭王卑弥呼に制詔する。
帯方太守の劉夏は、使者を遣して汝が大夫難斗米・副使都市牛利を送らせ、汝が献ずる所の俘囚男四人・女六人を奉じ、以て到らしめた。汝が所在は逾か遠く、乃く遣使し貢献した。是れ汝が忠孝、我れ甚だ汝を哀しむ。今、汝を以って親魏倭王と為し、金印紫綬を仮えるが、装封して帯方太守に付け、汝に授けさせるであろう。それ種族を綏撫し、勉めて孝順を為せ。汝が来使の斗米・牛利は、遠きを渉って道路をば勤労した。今、斗米を以って率善中郎将と為し、牛利をば率善校尉と為し、銀印青綬を仮え、引見し労賜して、還し遣わす。
今、絳綈交龍錦五匹・絳綈縐粟罽十張・蒨絳五十匹・紺青五十匹を以って、汝が献ずる所の直に答える。又特に汝に紺地句文錦三匹・細班華罽五張・白絹五十匹・金十両・五尺刀二口・銅鏡百枚・真珠・鉛丹各五十斤を賜い、皆装封して斗米・牛利に付け、還り到れば録受させる。悉く汝が国中の人々に示して、朕が汝を哀しむを知らしめよ。故に汝に好き物を賜うのである」
仲達が読み上げるのに合わせて、子上の指示で、兵士たちが匣に掛けられた絹を払い、蓋を外す。匣の中から、天子より姫氏王に賜わる品々が披露される。特に人々の目を驚かせたのは、百枚の銅鏡であった。今この魏の領土では、銅材が極度に不足している。それは主な銅山を孫権に押さえられてしまったからであった。しかも帝室が所有する銅器は、明帝が宮殿を飾る為にほとんど溶かしてしまった後なのである。この百枚の銅鏡は、司馬氏の私財から出た物に違いないと思われた。心なしか玉座の左に控える曹爽の表情が固く見える。
これまた取り次ぎの手を経て、難斗米と都市牛利に詔書や銀印が授けられる。
「陛下より手ずから御酒を賜わる」
仲達が宣ると、皇帝も近習に促されて、
「近う」
とまだ眠そうな声を出す。張政と梯儁は、難斗米と都市牛利を促して、階段を登らせる。しかし一気に登ってはいけないので、三分の一の所で引き止める。
「もそっと」
と皇帝が曰まう。また三分の一を登って控えさせる。
「もそっと、近う」
という繰り返しをして、やっと最上段に進む。これも礼儀である。女官が難斗米と都市牛利に盃を持たせる。張政と梯儁は二人の背を押して、玉座の前に跪かせる。幼い皇帝は、袞衣を纏い、頭には重そうに冕冠を載せている。袞衣と冕冠は、天子だけが着ける事を許される。従ってそれは張政には滅多に見られない。張政はそれをよく看ておきたかった。袞衣は成長を見込んで大きめに作られているらしく、ぶかぶかとしている。皇帝は銚子を執って二人に酒を賜わる。他の者には女官から盃が運ばれる。皇帝も一杯の甘い匂いのする飲み物を取る。
所が何とした事か、乾杯の音頭も待たずに、皇帝がごくごくと一気飲みを始めてしまった。仲達も慌てて盃を捧げるしぐさだけをし、一献を飲み干す。他の者もそれに倣う。
(ただの小孩子じゃないか)
と張政は秘かに思った。それが天子にして皇帝と呼ばれる人の正体であった。
「我が先祖は呉の太伯の一族で、その国が滅びた時、百姓を率いて海に入り、舟を泛かべて東へ流れ、倭人に雑居し、今に至るまで六百有余年を経ております。……」
ここの所を書く時、張政には躊躇が有った。かつて周の古公亶父の子、太伯が建てた呉国の地に、今は孫権が呉王朝を称して割拠し、魏による天下統一を拒んでいる。姫氏王の先祖が呉の太伯であるという事は、倭人が呉に親いという印象を与えるかもしれなかった。だが外夷の王権の由来は、中国の士人が関心を寄せる所でもあるし、それが不都合であるかどうかは、張政などが判断すべき問題ではなかった。だから張政は結局、已前に倭人の故老から聞かされたそのままに書いておく事にした。それが真実であるかどうかは知らない。
「……かつて漢の光武帝の時、倭人は奴王氏を立てて君公とし、朝見して王爵を与えられました。しかし霊帝の頃、奴王氏の徳は衰え、諸国は互いに攻め、何年も主たる者が無いままでした。そこで我が父は先祖の徳を懐い、姫氏を称して立ち、人々を導いて奴王氏を討ちました。人々は父に諸国の主君たる事を望みましたが、父は辞びて郷へ還り、そこで吾を立てて王としました。
時に魏が漢の禄を継いだ事を聞きましたが、公孫氏が路を塞いでいたため中国に通う能わず、故に自ら窃かに王を称し、倭人の諸国を綏撫するに努めておりました。今、司馬将軍が公孫氏を伐ち、遼東の罪人が逃げるのを、我が手の者が捕らえましたので、大夫の難斗米と都市牛利を遣わし、御許へ送り届けさせます。どうか納め受け垂さい」
読み終えて張政は、背筋から何か重苦しい物が少しだけ抜けるのを覚えた。文書は封筒に収め、机の上に置く。するとそれを取り次ぎの官吏が取って、階段を昇って行く。丁謐が受け取り、皇帝に差し上げる。実際には事前に提出されているのだが、これも儀礼の形式である。前に並べられていた十人の囚人は、兵士に引き立てられて退場した。替わって司馬子上を先頭に、大きい匣を兵士たちが運び込み、一列に並べて置く。匣には紫色の絹が掛けられている。皇帝は侍従から封書を渡され、それをまた司馬仲達が受け取る。
「陛下より、倭人たちに御言葉を賜わる」
仲達は、その太い骨と高い背に相応しく、重々しい声で詔書を読み上げる。
「親魏倭王卑弥呼に制詔する。
帯方太守の劉夏は、使者を遣して汝が大夫難斗米・副使都市牛利を送らせ、汝が献ずる所の俘囚男四人・女六人を奉じ、以て到らしめた。汝が所在は逾か遠く、乃く遣使し貢献した。是れ汝が忠孝、我れ甚だ汝を哀しむ。今、汝を以って親魏倭王と為し、金印紫綬を仮えるが、装封して帯方太守に付け、汝に授けさせるであろう。それ種族を綏撫し、勉めて孝順を為せ。汝が来使の斗米・牛利は、遠きを渉って道路をば勤労した。今、斗米を以って率善中郎将と為し、牛利をば率善校尉と為し、銀印青綬を仮え、引見し労賜して、還し遣わす。
今、絳綈交龍錦五匹・絳綈縐粟罽十張・蒨絳五十匹・紺青五十匹を以って、汝が献ずる所の直に答える。又特に汝に紺地句文錦三匹・細班華罽五張・白絹五十匹・金十両・五尺刀二口・銅鏡百枚・真珠・鉛丹各五十斤を賜い、皆装封して斗米・牛利に付け、還り到れば録受させる。悉く汝が国中の人々に示して、朕が汝を哀しむを知らしめよ。故に汝に好き物を賜うのである」
仲達が読み上げるのに合わせて、子上の指示で、兵士たちが匣に掛けられた絹を払い、蓋を外す。匣の中から、天子より姫氏王に賜わる品々が披露される。特に人々の目を驚かせたのは、百枚の銅鏡であった。今この魏の領土では、銅材が極度に不足している。それは主な銅山を孫権に押さえられてしまったからであった。しかも帝室が所有する銅器は、明帝が宮殿を飾る為にほとんど溶かしてしまった後なのである。この百枚の銅鏡は、司馬氏の私財から出た物に違いないと思われた。心なしか玉座の左に控える曹爽の表情が固く見える。
これまた取り次ぎの手を経て、難斗米と都市牛利に詔書や銀印が授けられる。
「陛下より手ずから御酒を賜わる」
仲達が宣ると、皇帝も近習に促されて、
「近う」
とまだ眠そうな声を出す。張政と梯儁は、難斗米と都市牛利を促して、階段を登らせる。しかし一気に登ってはいけないので、三分の一の所で引き止める。
「もそっと」
と皇帝が曰まう。また三分の一を登って控えさせる。
「もそっと、近う」
という繰り返しをして、やっと最上段に進む。これも礼儀である。女官が難斗米と都市牛利に盃を持たせる。張政と梯儁は二人の背を押して、玉座の前に跪かせる。幼い皇帝は、袞衣を纏い、頭には重そうに冕冠を載せている。袞衣と冕冠は、天子だけが着ける事を許される。従ってそれは張政には滅多に見られない。張政はそれをよく看ておきたかった。袞衣は成長を見込んで大きめに作られているらしく、ぶかぶかとしている。皇帝は銚子を執って二人に酒を賜わる。他の者には女官から盃が運ばれる。皇帝も一杯の甘い匂いのする飲み物を取る。
所が何とした事か、乾杯の音頭も待たずに、皇帝がごくごくと一気飲みを始めてしまった。仲達も慌てて盃を捧げるしぐさだけをし、一献を飲み干す。他の者もそれに倣う。
(ただの小孩子じゃないか)
と張政は秘かに思った。それが天子にして皇帝と呼ばれる人の正体であった。
0
お気に入りに追加
0
あなたにおすすめの小説
西涼女侠伝
水城洋臣
歴史・時代
無敵の剣術を会得した男装の女剣士。立ち塞がるは三国志に名を刻む猛将馬超
舞台は三國志のハイライトとも言える時代、建安年間。曹操に敗れ関中を追われた馬超率いる反乱軍が涼州を襲う。正史に残る涼州動乱を、官位無き在野の侠客たちの視点で描く武侠譚。
役人の娘でありながら剣の道を選んだ男装の麗人・趙英。
家族の仇を追っている騎馬民族の少年・呼狐澹。
ふらりと現れた目的の分からぬ胡散臭い道士・緑風子。
荒野で出会った在野の流れ者たちの視点から描く、錦馬超の実態とは……。
主に正史を参考としていますが、随所で意図的に演義要素も残しており、また武侠小説としてのテイストも強く、一見重そうに見えて雰囲気は割とライトです。
三國志好きな人ならニヤニヤ出来る要素は散らしてますが、世界観説明のノリで注釈も多めなので、知らなくても楽しめるかと思います(多分)
涼州動乱と言えば馬超と王異ですが、ゲームやサブカル系でこの2人が好きな人はご注意。何せ基本正史ベースだもんで、2人とも現代人の感覚としちゃアレでして……。
君は妾の子だから、次男がちょうどいい
月山 歩
恋愛
侯爵家のマリアは婚約中だが、彼は王都に住み、彼女は片田舎で遠いため会ったことはなかった。でもある時、マリアは妾の子であると知られる。そんな娘は大事な子息とは結婚させられないと、病気療養中の次男との婚約に一方的に変えさせられる。そして次の日には、迎えの馬車がやって来た。
大陰史記〜出雲国譲りの真相〜
桜小径
歴史・時代
古事記、日本書紀、各国風土記などに遺された神話と魏志倭人伝などの中国史書の記述をもとに邪馬台国、古代出雲、古代倭(ヤマト)の国譲りを描く。予定。序章からお読みくださいませ
鎌倉最後の日
もず りょう
歴史・時代
かつて源頼朝や北条政子・義時らが多くの血を流して築き上げた武家政権・鎌倉幕府。承久の乱や元寇など幾多の困難を乗り越えてきた幕府も、悪名高き執権北条高時の治政下で頽廃を極めていた。京では後醍醐天皇による倒幕計画が持ち上がり、世に動乱の兆しが見え始める中にあって、北条一門の武将金澤貞将は危機感を募らせていく。ふとしたきっかけで交流を深めることとなった御家人新田義貞らは、貞将にならば鎌倉の未来を託すことができると彼に「決断」を迫るが――。鎌倉幕府の最後を華々しく彩った若き名将の清冽な生きざまを活写する歴史小説、ここに開幕!
鬼を討つ〜徳川十六将・渡辺守綱記〜
八ケ代大輔
歴史・時代
徳川家康を天下に導いた十六人の家臣「徳川十六将」。そのうちの1人「槍の半蔵」と称され、服部半蔵と共に「両半蔵」と呼ばれた渡辺半蔵守綱の一代記。彼の祖先は酒天童子を倒した源頼光四天王の筆頭で鬼を斬ったとされる渡辺綱。徳川家康と同い歳の彼の人生は徳川家康と共に歩んだものでした。渡辺半蔵守綱の生涯を通して徳川家康が天下を取るまでの道のりを描く。表紙画像・すずき孔先生。
雨よ降れ 備中高松城の戦い
Tempp
歴史・時代
ー浮世をば今こそ渡れ武士の 名を高松の苔に残して
1581年、秀吉軍は備中七城のうちの六城を平定し、残すは清水宗治が守る備中高松城だけとなっていた。
備中高松城は雨によって守られ、雨によって滅びた。
全5話。『恒久の月』書籍化記念、発売日まで1日1作短編公開キャンペーン中。5/29の更新。
WEAK SELF.
若松だんご
歴史・時代
かつて、一人の年若い皇子がいた。
時の帝の第三子。
容姿に優れ、文武に秀でた才ある人物。
自由闊達で、何事にも縛られない性格。
誰からも慕われ、将来を嘱望されていた。
皇子の母方の祖父は天智天皇。皇子の父は天武天皇。
皇子の名を、「大津」という。
かつて祖父が造った都、淡海大津宮。祖父は孫皇子の資質に期待し、宮号を名として授けた。
壬申の乱後、帝位に就いた父親からは、その能力故に政の扶けとなることを命じられた。
父の皇后で、実の叔母からは、その人望を異母兄の皇位継承を阻む障害として疎んじられた。
皇子は願う。自分と周りの者の平穏を。
争いたくない。普通に暮らしたいだけなんだ。幸せになりたいだけなんだ。
幼い頃に母を亡くし、父と疎遠なまま育った皇子。長じてからは、姉とも引き離され、冷たい父の元で暮らした。
愛してほしかった。愛されたかった。愛したかった。
愛を求めて、周囲から期待される「皇子」を演じた青年。
だが、彼に流れる血は、彼を望まぬ未来へと押しやっていく。
ーー父についていくとはどういうことか、覚えておけ。
壬申の乱で散った叔父、大友皇子の残した言葉。その言葉が二十歳になった大津に重く、深く突き刺さる。
遠い昔、強く弱く生きた一人の青年の物語。
―――――――
weak self=弱い自分。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる