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第2部 空白の五年間
5-6【男の悪夢と重ねる篇 下】※
しおりを挟むくちゅくちゅといやらしい粘液がかき混ざる音が部屋に響こうと、陽菜は淫らに腰をくねらせて男の深みを受け入れるのをやめなかった。
挿入という行為は即ち、粘膜同士の干渉であり、口内とはまた異なってひどく軟い場所に触れることだ。
ゆっくりと泥濘を抉り、その温床を味わってから男は腰を進めて行く。曝け出した真っ白な裸体とは打って変わって、男は無駄な脂肪は見当たらない。
くびれのラインが艶かしいくらい美しくて、その肩甲骨が骨張ってしがみ付きやすいことは体が記憶している。
それにて、陽菜の動きを封じる手に力が入ると浮き出る前腕から肘裏に伸びる血管が男性的で、うっとりと見惚れてしまう。
男に組み敷かれているという、現実とはかけ離れた中の夢ですら、幸せの絶頂を感じるのは俗物的にも思えたが。
そんな、低俗とも他人が嫌悪する夢は、陽菜にとっては救いでもある。
「陽菜が必死に短い舌で俺のと絡めようとするの、なんか……ひどくしてやりたくなってしまって」
「──例えば?」
「ええ……俺だって男だ。アンタがひんひん泣いたって止めたりはしないし、何なら俺しか受け付けないくらい強くて抗えないものを与えたいんだよ」
荒々しい手解きを、一応は悔いているらしい。
はしたないとは分かっていても、とろりと蜜液を垂らして誘うのは陽菜だって、不本意である。
いや、本当は男をずっと直接感じたかった。
「束縛……したかった、と言うことですか?」
「そりゃあ、アンタ可愛いし軽いから風吹いたらどっか飛んでってしまうだろう?」
人間が吹き飛ばされる風速は樹木が激しく揺れる以上の強さだ。また、時速で表す場合は風速二十メートルは時速七十キロ相当なので、比喩するには大分無理がある。
陽菜は男にぴったりとくっついた状態で、真顔に変わる。顔を見合わせると、男は瞬きを数回して訝しげに陽菜のまん丸い瞳に覗き込む。
「人間15-20m/s~70km/無いと厳しいかと……」
「比喩! 間に受けるなって……」
陽菜は挿入されたままなのに、男の必死な弁明に何だか面白くなってしまって、笑みを溢した。
「忠さんに縛られる人生なんて、私って前世でどんな徳を積んだのでしょうか……?」
「アンタは今世俺に愛される為に生まれてきたんだよ。だからめいいっぱい、俺の愛に沈めば良い」
「私達が出会ったのは、必然だって、決め付けて良いですか……?」
「必然も何も、俺は……運命だって思ったのですが」
男は自信が微量でも失われると、途端にお伺いを立てる時は特に敬語を使う。
陽菜はそんな癖すら可愛くて、髪を撫で回したい衝動に襲われて、耐えられず男の髪をワシャワシャと撫で上げた。意外にも固い髪質が指を通って行く度に、男の存在を確認する。
私の好きな男は、この手にあると。
陽菜は白髪が薄らと伸びた男の生え際に触れて、顔を綻ばせる。
「自信ない時、敬語使っちゃうの、やっぱり可愛い」
「可愛い?! 俺が?! いつもスンッてして、味も素っ気もない食材だって言われたことあるのに?!」
「その方は素材の味を御存じないんでしょう」
「……素材の、味」
可愛いの定義が分からん、と男はぐるぐると目を回らせて陽菜の首筋に顔を埋めて暫く動かなくなった。
男との逢瀬は、その後の二回は息を張り詰める快楽の愉悦の檻に閉じ込められるくらい猛烈であった。
獰猛な獣になった男は、陽菜の首筋や頸、内腿等ありとあらゆる弾力のあり柔らかい肌に印を付ける。噛み痕はくっきりと肌を色付き、じくじくと熟れた傷にすら思えた。
痛みと淫楽に耽るのは、とても猥らでだらしないとすら羞恥心を抱いていたのに。
逸脱する喜々や、掌握される不思議な安堵感、そして男の圧倒的な支配力に陥れられる。甘い毒を罠だと頭では分かっていても、冷静に判断出来るのとはまた別の話なのだ。
「ぁあ、ッす、ごぃ……ッ大きい、からっ」
「啼かせたいくらい、唆る姿曝け出しちゃって」
隠す必要が無くなって、陽菜は朦朧とした頭で男の独り言が鼓膜にやけに響いた。
ぬぷぬぷと湿潤する胎内を行ったり来たりすると、陽菜は目の前がチカッと眩い光に当てられる。
火花が散って弾ける視界の中で爆ぜると、薄い腹が脈打って波を引き立つ。腰を突き出して、高く儚げな甘ったるい声が室内に響いて、男の芯熱を締め上げる。
びく、びくっと灘らかな波に変わるまで、陽菜は腹奥で熱い精を受け止めながら、ぼーっと微温湯に浸る感覚に身を寄せた。
男は自発的に誘った陽菜の胎内で最後の一滴まで搾り取られて、初めて深く官能的な吐息を漏らしたのである。
「は、あ…………」
「あった、かい……、ここ、お腹いっぱいに」
ずくりと腹奥が満たされたはずなのに、また空かしている。欲しがって、空腹を補おうと陽菜はまだ抜かれていない芯熱を無意識に締めてしまう。
「まだ腹空かせてるのに?」
ゆるゆる腰を動かして、段々と吐精したばかりの男根は固さを取り戻して行く。刺激されてから、まだ時間は経過していないが、屹立した物は陽菜を容赦無く粘りたいらしい。
「満足するまで、おねだり……したらダメ?」
最後の二回は、陽菜こそ順応してからか大胆に男を強請った。辱めを受けようとも、男に感情をぶつけられようとも、陽菜は与えられるものにひどく従順に、そして落とし込めるようになったからだ。
陽菜の心に芽生えた寛大な海原と確固たる決意、そして醒す条件に感化されたのか、ある日を境に最後となる。
息が詰まりそうなくらいに、燃え上がる恋だった。
それは、他人を巻き込んで燃料にしていたなんて、口が裂けても言えないからだ。
一から二十九回目の夢は男性ならば、夢精とも言える身体的反応がある夢にもなり得ただろう。
三十回目の節目が、陽菜にとっては最後の逢瀬となった。
母が急逝した夜のことである。不謹慎かもしれない夢は突如現れた。
「──陽菜、もし俺が……迎えに行ったら迷惑、か?」
男は相変わらず一人、佇んでいた。眉を下げて陽菜の意識が覚醒すると、そう呟く。白髪が多く、体のラインも若干細くなり、疲労の色が著明である。眉間の皺は深く刻まれており、心労も堪えているのだろう。
辺りは草原が一面に広がっており、天を仰げば真っ青な海が彩っている。
びゅう、と風が陽菜の髪を靡いて一瞬を瞑る。再び恐る恐る瞼を開けるが、景色は相変わらず美しく、そしてこれが最後なのだと陽菜は何故かそう思った。
真っ白なシャツを着た男は陽菜の冴え冴えとした純白のワンピースが風に煽られると、裾を押さえてくれる。
ひらりと舞う裾から覗いた膝頭の近くには、痛々しい傷痕も健在だった。
夢は、こうも悪いところも映し出して、良い部分だけを切り取ったり都合良く見せてはくれない。
男はくぐもった声で、肩を丸めた。
「──いや、五年は長いよな。散々人を待たせておいて、不躾なお願い事をアンタにばかり押し付けてしまって」
五年を日にち換算すれば千八百二十五日であり、決して短い道のりでは無い。
それだけ、二人の間には空白の時間を各自別々の茨道を歩いて来たのである。
迎えに行く、とはどんな状況下であろうと他人を不幸にしてまで連れ去ると言うことを意味している。陽菜だって、もう何も分からない年頃でもない。
それは誰かの幸せを踏み躙ってでも、掴み取る覚悟があるかの意味合いも、もしかしたらあるかもしれない。
だが、陽菜は怖気付いたりはしない。決して、男を前に貪欲にでも手を伸ばすだろう。
「──もし、貴方が会いに来たとしたら、私……何が何でも離しません。もう、絶対」
「ふ、そうだよなあ。無一文でど田舎の村に移住して、ひっそり居ても?」
「当たり前です。私、クラークの資格取ったのは先生ともし数十年後再会した時、ただ手を引かれるだけの女じゃない、自立した人になりたかったからですもの」
クラークの資格を取得するのは、特段困難なことではなかった。
と、言うのも陽菜は勉強は嫌いじゃあなかっただけで、勤勉さは恐らく学校一だったと思う。吸収力以前に、自分が出来る最低限のことと言えば、勉強だけだったから。
自分自身を守る為には無知であっては、立ち向かう術すら持ち合わせていないと言うことである。家柄や両親等人々が生まれ持った味方や後ろ盾には恵まれていないのは承知の上で、だった。
仮に男と何年越しの再開を果たしたとしても、無力のままでは完全にお荷物である。
それは、共に歩くには互いに理にはならない。
「はは、俺よりしっかり者じゃないか」
嘆きにも近い、乾いた声で男は肩を竦める。
流され易い女では駄目なのだ。
男に言われるがままに、物事を決められずただ後ろを三歩行く女で居れば本当は幸せなのかもしれない。
けれども、陽菜は一般的な幸せを作り上げて、環境すら構築出来る田嶋の縁談を断った。
男を忘れる努力をすれば、もしかしたら別の塗装された緩やかな道が待っていたのかも。そんな淡い幻想すら打ち砕いたのは、陽菜にとって男は愛すべき男でもあったが、身を挺してでも守りたい男でもあったからだ。
それくらいの情熱的で、己が燃え尽きた後も愛している。
「──忠さん。私……大丈夫ですから、ね?」
ぽん、と肩を叩く。御呪いだ。
陽菜や男にとって、勇気付けたい場面や約束をする時に良く双方共にやっていたこと。
「もしも、貴方が全部捨て去っても……私は傍に居ます。今世も来世もそう誓いましたから」
「……俺がじーさんになっても?」
「友人がナースなので、食事介助のやり方教わります」
「おお……本気なのが伝わるな」
意外と食事介助はコツがいるらしい。桃原からは介護が必要になったら頼ってと胸を張って声援を送ってもらったのは、功を成したようだ。
漸く笑顔が見れて、陽菜は安堵した。目尻に皺が寄って、クスクスと笑う男に質問をし返す。
「じゃあ、最賀先生は私がおばあちゃんになっても、一緒にいてくれますか?」
「もちろん。俺はアンタを看取るくらい長生きするさ、意地でも」
十六歳と言う、歳が離れた恋仲関係だった。
看取るとしたら陽菜の方だろう。見送る立場だと勝手に思い込んでいたのに、意図も簡単に男は陽菜の予想を超越する。それがひどく嬉しくて、嗚咽が漏れる。喉が震えて、血液が煮えたぎる。目元が熱くて仕方がない。
「──陽菜?」
陽菜はぽろぽろと涙を零していた。止まらなくて、やっと、摩耶かしでもその言葉が欲しかったから。
男は陽菜が肩を小刻みに揺らして、滴を落としているのに気が付いたからか、優しく腕の中に閉じ込めた。
「先生……先生、私……ッ」
「ああ、陽菜……泣くんじゃない。これは夢なんだ。だから本当の俺じゃあないんだ」
ぎゅうっと力強く抱き締める。
腕に力が入って、夢はいつか醒める筈なのに永遠とかの温もりの中に居たかった。陽菜は嗅ぎ慣れた男の香りが懐かしくなる度に不安な気持ちに駆られる。
もう二度と、会えないのかもしれないと独りの時間が長くなるにつれ、思い出も色褪せることが怖かったのだ。
新人芸人グランプリ決定戦は欠かさず録画するところ。
鉄火丼の山葵は多目が好きで、大葉や茗荷の薬味は必需品なのか冷蔵庫に完備されていたり。
夜更かしは睡眠の質が悪くなるからと、寝る三十分前は携帯を触るのをやめて、ラジオに切り替えたり。
意外と寝起きが良くて、毎朝の血圧測定の数値をアプリで管理しているところ。
全部、陽菜は男の癖も、日常のルーティンを覚えている。
それなのに、男の生まれ故郷や血液型の情報すら知らなかったのが五年もの間に気が付いたのだ。
男のことは表面上しか触れて来なかったことに、陽菜はずっと悔やんでいる。
もっと、話をすれば良かった、と。
これからの道を陽菜が無理矢理こじ付けて、決めてしまったのが敗因なのに。
「慰めたいのに、本当に罪深い男だ俺は。アンタが必要としている時に限っていないなんて……」
陽菜はぐずぐずと子供の様にぐずり泣いて、男を困らせてしまっている。昔から何でも我慢を強いられてきたが、唯一欲しいものは目と鼻の先にいるのだ。
最賀忠だけが、陽菜の凍った心を突き動かす。
男を愛していると地元の波打ち際で叫び走りたいし、男以外と情交するなどもっての外だ。男になら酷いことだって、乱暴にされて監禁されても本望である。
未来が繋がる糸を切ったとしても、繋ぎ止めるだけの愛しているが大きいのだ。
「アンタを沢山悲しませて、泣かせて……失格だな」
困惑した表情かと思えば、陽菜の眉下の傷痕に水滴が落ちた。綺麗な雫が陽菜の頰を代わりに濡らしてくれる。
「──忠さんだって、泣いてる」
「はは、泣く権利なんて、無いのになあ」
男は陽菜の唇と重ねて、それからゆっくりと離れた。とくとくと心地良い心音を感じる。
「迎えに行くから、この会話はきっと……目が覚めたら忘れてしまう。でも、絶対、夢は繋がってるから。俺達の間にはか細くてもまだ糸は繋がっている」
大人になることを放棄したいと泣き叫んだ日々もあった。
その負の感情や、己の不甲斐無さすら糧にして背負って来たのは、自立した自分を作り上げる為の工程だったのだ。
運命の赤い糸がもし存在するならば、あの手を離したことも神様は許してくれるのだろうか。
いや、切れてしまおうとももう一度結び直して仕舞えば良い。キャリアの優遇や、世間体を他人から押し付けて、無闇矢鱈に他人の人生を操作しようとした人間の思惑なんて、関係無かった。
昇進も待遇も何もかも掌握され、否定も肯定も出来ない雁字搦めの中。幼稚だった当時の陽菜には、そんな外枠の人間の陰謀や目算なんて想像もつかなかったのだ。
縦社会は根深いものだが、そんなちっぽけな社会に囚われて欲しくないとも思ってしまう。
略奪なんて柄でもないが、陽菜は正々堂々と真正面から男を苦しめるものに立ち向かうだろう。
男を共有し分かち合うなんて真っ平だ。
後ろ指を指される関係性ならば、陽菜は堂々と胸を張って毅然とした面持ちで男の側にどんな形だろうと居たい。
それが陽菜に出来ることの唯一の方法なのだから。
貴方だけを愛しているからこそ、なのだ。
「俺が全部捨てたとしても、陽菜は俺の手を取ってくれるか?」
目が覚めようと、何年経とうとこの気持ちは色褪せたりはしない。
二輪の花を男が、陽菜の柔らかい髪に添えられる。栗色の髪に映える、美しい花は上品な形状の桃色のカスミソウと勿忘草である。
カスミソウと勿忘草の花言葉は、「清らかな心」に、ドイツ語では「vergissmeinnicht(私を忘れないで)」だ。
桃色だと「切なる願い」「希望」と、二人が交わす言葉を意味する。
花を贈るのは初めてなんだと肩を竦めて見せる。確かに華やかな花と言うよりは、華奢で種が小さい為人の手で品種改良を施し育つ花だ。
色が淡い藍色色と桃色で、チグハグにも見えたが陽菜にとっては花を貰うなんて初めてだった。あまりにも嬉し過ぎて、その場で飛び跳ねて喜んだ。
薔薇は棘が刺さるし……と眉を下げて言うものだから、陽菜は柔らかい笑みを浮かべて、答える。
「忠さん、愛してる、絶対……私はその手を取るから、だから……」
約束をして、不安がらせてしまったのは二人だけの微かな秘密だった。唇から溢れた奇蹟へ冒涜する瞬間を頒つのは、運命だって信じたい。
その痛みや苦しみや、例え憎しみすらが混ざりヘドロと化しても。
そこにあったのは確かな"燃える戀"だった、と。
夢が覚めたら、きっと何も覚えていないだろうが、男の温もりだけは残っている。
この戀だけが、二人を永遠に結び止める。
【第三章へ続く】
五年ぶりの再会を経て、波乱の幕開けだろうとも。
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