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第1部 まるで初めての恋
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しおりを挟む「……失礼、山藤さんでしょうか。田嶋と申します、一度御挨拶に伺いたくて」
────田嶋、さんって…あの人が…言っていた、ひと?
十七時半を過ぎた頃、救急外来の窓口にひっそりと佇む人物がいた。首の上までしっかりとボタンが留められ、清潔感の塊の様な男性だ。
皺一つ無いシャツに、アイロンが行き届くスラックスに磨かれた革靴。歳は三十代半ばと言ったところだろうか、落ち着きのある風貌の男性は陽菜へ小さく会釈した。
「御母様から、その……職場を教えて頂いたもので」
田嶋、とは母が縁談を持ち掛けた相手だ。地元の調剤薬局で勤務する男性、とはふんわり情報は聴いていたが。
まさか、職場に来るなど想定外だった。
「あ……そ、の……すみません。驚いて、しまって。山藤です、あの、遠い所から態々御足労……」
「良いんです僕は。御存じの通り、田舎ですし時間は融通効くので……ただ、居ても立っても居られなくて」
地元から陽菜の職場まで電車で優に二時間はかかる。そんな遠方から遥々やって来た田嶋は、陽菜をじっと見据えている。
「……あの?」
「写真を拝見して、その……綺麗な方、だなと」
「しゃ、しん……」
陽菜の成人式の頃の写真を釣鐘として提出したのだろう。成人式は嫌な思い出しか無かった。振袖はレンタルで、自分で借りた物だった。晴れ姿を皆が喜ぶ会場で一人浮いていたようなもので。
だが、成人さえしてしまえばこの柵や両親から逃げ出せると考えた。ターニングポイントに決めていたのが、陽菜にとっては一筋の光すら思えたからだ。
「山藤、カンファ始まるぞ、さっさと来い!」
背後から、低い言葉が投げ掛けられる。最賀の声だ。これから始まる夜勤の前には必ずカンファレンスと言って、当直を行うメンバーと顔合わせ兼申し送りが行われる短縮会議なものだ。
「────すみません、実は当直でして」
「若いのに?地元帰ったら、九時十七時とか時短にすれば良いよ」
「……その、私……」
自分の人生が既に決められていることを、陽菜は肌で感じ取った。
陽菜は自分の手を握って、その強い恐怖と不安感を悟られたく無いと思った。言葉に詰まって、ぎゅっと手に力が入ると。
「失礼、当院のスタッフで無い方は規則で。山藤、知り合いか?」
大きな背中が陽菜を隠した。見覚えのある白衣は最賀の物であることを示唆する。
田嶋の顔は最賀の背中で隠されたが、陽菜が動揺していたのは悟られずに済んだ様子で。
「いえ、私はもうこの辺で。じゃあ山藤さん、今度また」
あっさりと踵を返して立ち去ったので、陽菜は安堵して最賀の白衣を代わりに握り締めた。男性が怖いものだと改めて、思い知ったのかもしれない。無意識の暴力を受けた気分で、吐き気がする。
「おい、誰だよあいつ、知り合い────」
「……先生、私……不安です」
本音が最賀の言葉に被さって出てしまって、陽菜は我に返って口を押さえた。最賀の質問に、どう答えれば良いかもわからない。
────見合い相手なんて、言えない。
「ごめんなさい、カンファ呼びに来て下さってありがとうございます」
「不安?俺もだよ」
最賀は陽菜の手首を掴んで当直室へ向かう。当直室の鍵をがちゃんと乱暴に閉めて、簡易ベッドに押し倒された。
陽菜を強く抱き締めて、最賀は息を吸う。その強引さに救われるのは罪深いのだろうか?
「……俺は甘い言葉を言うのは、不慣れなもんで、な」
最賀に口を塞がれて、陽菜に覆い被さるその男性の重さに何処か安心する。優しく陽菜の舌を舐って、時折最賀の眼鏡が角度を変えると肌に当たる。
ひやりと金具部分が冷たさを帯びており、陽菜はそれすら愛おしいだなんて感じる。
ちゅ、とリップ音が小さく鳴って、漸く唇が離れる。名残惜しさが陽菜の背中を燻らせたが、カンファレンスの時間は差し迫っている。
「先生、カンファ、行かない、と」
「そんな顔して行かせられるかよ……」
眉毛を下げて、不安げな表情は捨てられた子犬のように見えたのだろうか。最賀の腕はきつく、陽菜を抱き留める。
「最賀先生……呼びに来てくれて、嬉しかった、です」
だらし無くネクタイが途中まで結ばれた、空いた首筋に陽菜はキスをした。
仄かに落ち着きのあるウッディ・ハーバルは陽が沈むと共にゆっくりと朝着けても香りが微弱になる。
その、微かな香りは密着しなければ、知らないだろう。陽菜は憤りと不安、そして重圧を感じたストレスを緩和しようとした。
「……山藤?」
陽菜が暫く最賀の首筋で呼吸をしていたのを、咎めることは無かった。ただ、気恥ずかしいのか首の線がやんわりと赤らんでいる。
「そんなに、匂う、か?」
「────え?」
「そんな吟味されると、これからの仕事に差し支える、ので」
「あ………っ、わた、しっ」
ぱっと離れたが、陽菜は自分の手が最賀の首元のシャツを広げて動かなかったのを、間接的に指摘されて初めて無意識の行動に気が付いた。
色艶のある息遣いをして、陽菜は最賀が纏う香りで揺れた感情のブレを落ち着かせたくて数十秒微動だにしなかったのだ。
「あ、あ……う、ごめんなさい…っ」
陽菜は熟れた林檎と同じ頬に染まった。誤魔化したくて、てきぱきと最賀のシャツの乱れを整えてネクタイをきっちりと締め上げた。
「またそうしたかったら、どうぞいつでも」
慌てふためく姿に、小さく口角を上げて微笑した最賀は陽菜の唇に触れるだけの口付けをした。陽菜は離れ難いような、そんな気分になる。
だから、余計に陽菜を苛ます。考えなければならないことが山積みで、もういつ崩れてもおかしくない状況だった。陽菜は後戻り出来ない場所に立たされて、人間は初めて向き合うのかもしれない。
見合い話はどんどんと陽菜が知らない間に進行している。最賀以外の男と、将来を歩む未来が正確に兆しを告げる。
田嶋と言う男性は物腰が柔らかそうで、けれども地元の人間だ。角が無く、そして型にはまった、典型的な亭主を立てる女性が好きな男だと。
きっと田嶋と結婚すれば、仕事は扶養内で行い子供は男女合わせて二人か三人、義実家の敷地内に新居を構えてと全てがレールに敷かれる。陽菜はその中で生きることになる。
怖かった。電話一本で陽菜をどん底に突き飛ばすことが出来る母と未だに縁を切れないことを。
矛盾しているのだ。両親や息苦しい地元から逃げて来たのに、もう背中にでも磁石がくっついているかの様に引き戻されそうになっている。
自分のことしか考えられない自分が、汚く感じてしまう。
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