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第1部 まるで初めての恋
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しおりを挟むだから、陽菜は余計にそんな精神状態で噂を耳にしたく無かったが、代わりに傍観者として立ち会うことになる。現実はいつだって無情だ。
その女性は、綺麗な人だった。ショートボブの黒い髪は艶めいて、陶器の様に白く美しい腕が男に絡み付いている。遠くからでも分かる程に目を奪われた。
大きな瞳は親愛以上の物を映し、真っ直ぐ男の双眸を捉えている。
真っ白い柔らかな生地のワンピース、控え目なピンクベージュのネイル、高過ぎないシルバーのポインテッドトゥ。手には有名ブランドのマイクロバッグと完璧な御嬢様が別次元を作り上げていた。
「理事長の娘さん、また来てるね」
「なんかホームドクターが見逃した病変を最賀先生が見付けたのがきっかけで、かかりつけ医になったらしいよ?」
「仕事は出来るもんなあ、無愛想だけど」
「理事長が娘と結婚させたいの、分かるわ。親の気持ちになれば、ねえ?」
通り過ぎて行くスタッフの小さな噂話が耳に入る。
あの噂は本物なのだ、と陽菜の心臓は嫌な脈を打つ。どく、どくと脈拍だけが院内の忙しない音の中で鮮明に聴こえる。切り取られたのは陽菜の方なのだろうか。
二番手だとレッテルを背中に貼られたまま、浮かれてしまったのに、正しくあの人を傷付けられない脆さが憎い。
────先生を嫌いに、なれたら良いのに!!
「朝、駅前の本屋で待ち合わせしよう」
好きな人からのメールの通知を無視したくても、結局開いてしまうのは恋をする生き物の習性なのだろうか?
陽菜は人生において泣くことを抑制して、生きてきた。涙は決して武器にはならない。嫌だ、御免なさい、許してと乞うても解決には至らないからだ。
それなのに、想い人への気持ちで心がぐちゃぐちゃにミキシングされて、大粒の水分を落とすなんて数年前の陽菜には考えもつかなかっただろう。
人々は、自由自在に操れない戀に振り回され、熱くなったり冷めたりすることを。
鏡に映った自分の姿は、はっきりと失恋目前の女の姿であった。マスカラが上手く濡れなくて、ダマになった睫毛が伏せてしまう。はっきりと言葉にして、決別しないと陽菜は現実すら歩めなくなるからだ。
出勤最後の日に限って、陽菜は現実の刃を突き付けられる。まるで、真意をその目で確かめろと言わんばかりだった。
最賀へ言い出せずに最終日を迎えてしまい、その罪悪感にも襲われる。
陽菜は外来が終わった後に、最賀の婚約者を見掛けてしまったことで頭の中は混沌と化していた。当たり前だ、好きな男に婚約者がいる噂が本当だったからだ。
カンファレンスを簡易的に行ってから、陽菜は救急外来の窓口と直結する当直室へ普段通り向かった。
何度か面接を受けたものの、書類選考は通過しても良い結果には結び付かなかった。正社員を中心に探しても、条件が良い求職者に掻っ攫われていく。
歯科は専門外であるし、貯金が尽きる前に今はなるべく早く定職に就くことが先決だった。
だが、見合い話が浮上して、おまけに大事な弟を人質の如く取られている。パートナーのいる弟に見合い話をこじ付けるより、良いだろうとまで。
陽菜が高校生まで暮らしていた実家の敷地内にある離れへ荷物を引っ越し会社へ搬入手続きは済んだ。
弟が無事に移住出来るまでの防波堤を、唯一出来る姉として守らせて欲しかった。扇風機と小さな冷蔵庫に一つだけ入った氷枕で暑さを偲んでいると、必ず隠れて保冷バッグに差し入れをしてくれる優しい弟を。
ましてや、陽菜と言う人間がいながらも隠れて婚約者の存在を、ひた隠しにしていた最賀を問い詰める権利は勿論ある。二股なのか、それも陽菜が浮気相手であるのは誰が聴いても同じ答えが返ってくるだろう。
陽菜は己の立ち位置をしっかりと植え付けた。だから、強く最賀を突き放したいのに、必死で絞り出した声は小さくか細いものだった。
「……先生、私のことはもう…放って置いて下さい」
声が震える。陽菜は最賀の顔が見れなくて、ただワックスが剥がれた床を見詰めるしか無かった。
「なんでだよ、俺たち……付き合って、るんだろ?」
小声で最賀が口にした言葉が、陽菜を苦しめる。
「先生、婚約者の方に慰謝料請求されますよ」
口からはどんどん思っても無い本音と建前がくしゃくしゃに丸められたドス黒い焦げ付いた痕跡を吐露する。
あんなに家柄も、立場も異なる理想の婚約者がいるのにも関わらず火遊びをしたのだろうか。
若い女と夢見がちな幻想を一緒に描いて愉しんでいたのか、とこじつけなければ陽菜は立っていられなかったのだ。
陽菜はあんなにも小さな鞄は持てない。財布やキーケース、携帯にメイクポーチは勿論のこと弁当箱に水筒とハンドバッグには下手したら何だって入っている。
解れたボタンを縫う為のソーイングセットすら、持ち歩く陽菜の鞄はミニサイズでは足りないのだ。爪もネイル禁止なので、甘皮やササクレを取るだけだし、ヘアーサロンは半年に一度である。
あの艶髪はどうしたって、素人では保てない。
「彼方の方を大切になさったらどうですか?」
もうこの時は見合い話と、婚約者の存在で陽菜の心の中は絵の具で赤青黄緑、そして黒と全ての色をぐちゃぐちゃに混ぜた色に変貌していた。
陽菜に悪い出来事が全て降り掛かっていたこともあって、冷静さを欠くくらいには、動揺と怒りと悲しみに明け暮れていたのである。
「おい、ちょっと待て、何があったんだよ」
ぐん、と腕を引かれて最賀ははっきりと陽菜へ問う。目頭から涙がぼろりと落ちて、陽菜は早まる鼓動と悲痛な叫びを最賀へぶつけた。
「最賀先生は理事長の娘さんと婚約なさってるのに……っ! 不誠実です、先生はっ!」
駄目だと警告音が鳴り響いているのに、陽菜はブレーキが効かず真っ直ぐに最賀へアクセル全開で内部に溜まった怒りを吐き出してしまう。
────こんなの、言いたく無いのに…っ。
陽菜以外の女性に触れているのかと思うと、余計歯止めが効かなくて感情が暴発する。
「私、もう今日で契約満了なので、辞めるんです、実質クビです」
────いや、先生以外となんか、嫌!
どんなにその言葉が言えたら良かったか。
地元に帰れば、縁談は間違い無く陽菜へ降り掛かる。家も、保険も、仕事も失う陽菜に選択肢は残されていない。手元にあるのは僅かな貯金と、恋焦がれた矢先の燃え滓もえかすである。
陽菜が受けなければ、パートナーとこれから新生活が待つ弟に皺寄せが来る。決めたはずなのに、引き止めて欲しい気持ちと、冷たく切り離して欲しい両方の矛盾した考えが陽菜の頭の中で叫んでいる。
「だから、もう放って置いて下さい、実家に帰って見合い話でも…受けます」
「待てって……見合いって、おい…っ」
段々と語気が強まる最賀のPHSが鳴り響いた。陽菜は濡れた頬を制服の裾で拭って、何事も無かった様に振る舞った。
「ピッチ、鳴ってますよ?」
「……このままなあなあにしたくない」
最賀の胸ポケットから取って、陽菜はボタンを押してずいと渡す。会話はもう、終えようと。
電話をしながら、最賀は途端に険しい表情に変わると走って居なくなってしまった。前線で向き合う医者と、しがない事務とでは釣り合う訳が無いのだ。
それでも最賀に、事実を聞く勇気があれば良かったのだと。
「全部、私が悪い、私が………」
床にしゃがみ込んで涙で濡らした。ひくひくと喉を震わせて、静けさが広まった救急外来の入り口で蹲って。
一人は怖くないと言い聞かせて二十三年間生きてきたのに、愛おしい人を知ってから寂しさが凶器になるのだと思い知った。
生まれた環境をこの時ばかりはひどく恨んだものだ。
嗚咽を漏らしてただ、ひんやりと冷えた床は無常にも陽菜を慰めることは無かった。
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