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目も覚めるような蒼い海の中で、ヴァンはたゆたっていた。
身を丸くし、眠るように目を薄く閉じたまま、静かな気の流れに身を委ねる。
そこは生身の肉体には入ることのできない領域、境界と呼ばれる場所だった。
時折、時空の裂け目が出来て余人がそこに迷い込むことを、神隠しに遭ったと世間では呼ぶらしい。
ここでの時の流れは不均一で、場所によって濃い薄いの差が激しい。
ここで過ごした数分が現世の数年になることもあれば、その逆もあった。
「ヴァン。ねえ、ヴァン。起きて。起きてよ」
どこからか呼びかける声がする。水のように高く澄んだ玲瓏な声。
どんなに硬く遮断しようとしても、意思を持ってはっきりと響いてくる。
(……栞)
声に応えるようにして、ヴァンは目を覚ました。
そして目の前に、上質な着物に身を包んだ絶佳の麗人が佇んでいるのを目の当たりにした。
きらめく黒曜石の瞳、美しくなだらかな眉、優雅な鼻梁、白磁のような肌。
黒い髪は豪奢な髪飾りで結い上げられ、桃色の潤みを帯びた唇からほのかに真珠の粒のような歯が覗いている。
漂う香りは清らかに澄んだ白梅香。
「何だお前か」
ヴァンが寝ぼけ眼で放った第一声に、楠木栞はむっと頬を膨らませた。
小袖を握り締めて唇を尖らせる。
「何だとは何よ。せっかく人がわざわざ会いに来てあげたのにっ」
ヴァンはわずらわしそうに眉を寄せた。
「相変わらず犬のようにきゃんきゃんうるさいな、お前は」
「狼男さんにだけは言われたくないわね」
「だから俺を狼男なんかと一緒にするなと何度も言っているだろう。俺は吸血鬼のヴァン、」
「ああもう分かったわよ。いちいち細かいわねえ。どっちも似たようなものでしょうに」
「全然違うだろうが。……やれやれ、馬鹿は死んでも治らんと見える」
憎まれ口を叩きながらも、いつしか二人は穏やかな表情になっていた。
栞は懐かしむように目を細める。
それから、小さく息を吐いて言った。
「お別れを言いにきたの」
ヴァンは少しく目を丸くする。
栞はそんな彼を首を思い切り伸ばして見上げると、
「私はもうこの境界からいなくなるわ。最後に交わした契約が果たされたから」
ヴァンの瞳に花弁のように浮かんでは散る、さまざまな感情の光を見逃すまいとして、栞は目を凝らした。
彼は奇妙なまでに静かな声で言った。
「……そうか」
「そうかって、それだけ?」
「転生を果たしたのだから、その残留思念を元の姿で留まらせておくことに意味はないだろう」
「私の身体、見れなくなるのが惜しくないの?」
「ああ、惜しくないな。お前同様に愛でるべき存在を俺はもう知っている」
「あっそ。嫌な人。最後の最後まで意地悪なんだから」
と言って、栞は美しい顔を背けてつんとそっぽを向いた。
「……お前が死んだのも十七の歳だったな」
「数え歳でね。だからいつまで経っても若いまま。あなたが愛してくれた私のままよ」
典雅で優艶な面影を笑ませて栞は呟いた。
それからを見上げる。海の蒼と空の青が融和し、緩やかに溶け合うその場所を。
ヴァンは彼女の凛々しく伸びた顎の線を見つめていた。
「でもまさか、自分があんなかわいらしい男の子に生まれ変わるとは思ってなかったわ。とんだ番狂わせだったわね」
からかうように栞が言うと、ヴァンは事も無げに、
「男だろうが女だろうが、お前はお前だろう」
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