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十二月『消ゆ根雪』

その三

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 横濵某所の地下にて。
 ――柄田修一郎は、その石段を降りながら、一人納得した。
 彼は隊服ではなく私服のコートを纏っている。その胸元には、帝国司書隊の紋章である月と梟の目を刻んだ銀製のループタイがあり、辺りの灯りを反射している。

(道理で捜索しても見つからないはずだ)

 別に、この時代だから地下空間がなかったという訳ではない。だが、横濵の地下に――それも川の下に、こんな施設が作られていようとは思い至らなかった。秘密基地を作るのであれば秘密にできる場所に作らねばならないのだから、そういった意味ではうってつけである。

(ご丁寧に灯りまでついているとは――嬉しくない歓迎だ)

 全くいい気分ではない。自ら相手の誘いに乗ったとはいえ、修一郎は無策だ。どう出るか分からない相手の巣窟に、なんの策を講じることもなく、単身で乗り込んでいるのだ。普段の彼ならばありえない無謀である。
 石段を降り、石造りの廊下を歩む。足音を消す必要などないから、修一郎は通常通り、人よりも速い速度でこつこつと靴音を鳴らしていた。

(この先か)

 地下にもかかわらず、私服のコートが風を受けてふわふわ揺れている。

(――あの時と同じか)

 不気味な静寂と、猛烈な匂い。風に乗って漂ってくるのは、あの時感じたむせ返る鉄錆の匂いである。
 修一郎は確信する。廊下の先に広がっている光景を、確信する。

「ああ、兄様。いらしてくれたのね」

 廊下を抜ければ、そこは広い石室であった。百人なら容易く入りそうな空間の先には通路らしきものがあったが、その先を阻むように――空間の中央に、彼女はいた。

「真央」

 血染めの花嫁衣裳を雑に身にまとって、真っ赤な鞘と柄の刀を持って、あの時と変わりない笑顔でいた。違うところといえば、あの時から十年も経ったのだから、真央も大人の女性に成長していたことだろうか。二十七歳になった真央は血のように赤い瞳と、血のように赤い紅を引いており、その赤がぞっとするほど似合う美女に成長していた。

「……その者たちは」

 真央の後方には、縛られて身動きが取れずにいる男が五人いる。全身の血が下降したように青ざめた顔で怯える男たちは、全員警察隊や軍隊の隊服を身にまとっていた。

「これ? これはね、兄様と遊ぶための賭け金よ」
「賭け金だと?」

 不愉快だと言わんばかりに目尻を上げる修一郎に、真央はやはり無邪気に返す。

「十一月頃から襲ってた人たちの中から拝借したの。他? 全員殺してしまったわ。この禁書、本当に加減が難しいの。だから、生き残ったのはこれだけ」
「そうか」

 十中八九そうであろうと思っていた殺傷事件について、修一郎は断定した。というより、確定した。

「十分だ。これで正式に禁書案件にできる」

 そして修一郎はそれ以上言葉を交わすことなく、腰に括りつけていた禁書『神鳴郷』を発動させた。稲光を放つ刀を向けられた真央は、

「あらあら」

 と嬉しそうに口角をつり上げる。

「遊びの説明もしていないのにもう始めようとするなんて。兄様も気が早いのね」
「端的に言う。相手をしてやるから人質を解放しろ」
「もう兄様ったら。兄様が私の相手をするのは確定事項でしょうに。ねえ?」

 人質などいようがいまいが、関係ない。修一郎も真央も、違う表情で同じことを考える。
 それでも、刀を向けられている真央は笑顔を浮かべるばかりで、手にしている刀を抜こうとはしなかった。

「だめよ、兄様が私に勝たなきゃ。私を降参させない限り、解放してあげない」

 言うが早いか――修一郎はその時点で、石の床を蹴って駆け出していた。神鳴郷の稲妻は既に修一郎の肉体の隅々まで行き渡っており、その状態で駆け出したのだから、その速度は最高値まで達している。

「おっと!」

 光速に達したその瞬間移動とも言うべき修一郎の奇襲を、しかし真央は受け流していた。さすがに抜刀は叶わなかったが、それでも刀で受けて流せただけでも、化け物じみた反射と言えよう。

「少しは楽しんでよ、兄様のせっかち」

 受け流しても次々飛んでくる剣閃全てに対応しながら、真央は言う。一つ一つが光速に達している攻撃をかわし、受け流し、打ち返し――体を運ぶ上で最も効率のいい手段を選んで、それに対応していた。
 それでも。

「!」

飛んできた剣閃の一つが、真央の頬を僅かに裂いた。なんてことはない。紙で指を切ったくらいの、ほんのかすり傷である。しかし、それに気づいた真央は高揚した。

「すごい、兄様! この禁書を使って初めて斬られちゃった。いいえ、真剣で私を斬った人自体、兄様が初めてだわ! さすが兄様、やっぱり班長なだけあるのね! びっくりしちゃったわ!」
「それはどうも」

 そう返す間も、修一郎は攻撃の手を緩めはしない。攻撃を放ち続け反撃を封じ、真央の呼吸が乱れたその隙に傷をつけていくつもりだった。

「でも」

 ――それでも、この化け物を相手にすることにおいては、苦肉の策である。

「私のほうが強いわ」

 途端、修一郎が放った斬撃の嵐が止んだ。何が起きたか、修一郎には分からない。真央が何かをしたという点を除いて、修一郎はなにも分からなかった。

「兄様、私はまだ抜いてないわよ?」

 された修一郎ですら気づかなかったことだが、真央はたった一回の薙ぎ――それも納刀されたままでの薙ぎ払いで、斬撃の嵐を鎮め落としたのである。
 修一郎はまだ奇跡的に無傷であった。薙ぎが放たれる前の一瞬、真央の呼吸を聞き逃していたなら、間違いなく深手を負っていただろう。
 修一郎は一度、真央から大きく距離を取った。

「おののくのはまだ早いんじゃなくて?」
「……ッ」

 真央は相変わらず笑ったままだが、修一郎は全く笑えない。あと少し後退が遅ければ、はらわたをざっくり切り裂かれていたところだ。想像しただけで冷や汗が出る。

「その刀で、何人斬った?」
「え? そんなのどうでも良いことじゃない」
「いいから答えろ」
「兄様。それ、今までの人生で何回ご飯食べたの? って聞いてるのと同じよ」

 どこか呆れるように答える真央に、修一郎はより一層のおぞましさを覚える。

「あ、でもね兄様。これは覚えてるわ」

 顔に浮かんだ表情は子供が悪戯を思いついたときのような無邪気さで、しかしそれ以上に邪悪なものであった。

「十一月に入ってから私が斬ったのは大体十人くらいよ」
「……なんだと?」

 修一郎は、ざっくりと示された『十人』という発言を疑った。なんなら、自分の耳が聞き違えたかと思った。

「さすがにそれはないだろう。私が認識している限り、行方不明者の数は三十二人、発生件数は二十件――だというのに、十人ほどしか斬っていないなど」

 訝る修一郎に対し、真央は「ほんとだもん」と子供らしい口調で返した。

「……まさか兄様。禁書士になったのに、この禁書の能力を知らないの?」
「大人の事情というやつでな。使用者の精神を歪ませ、殺人鬼に変えるということ以外はなにも」

 面倒なのね、と真央は少しだけ兄に同情する。

「違うわ、兄様。それは羅刹女の作用というよりも、作用することで行き着くなのよ。使

 真央の修正に、釈然としない修一郎は目をすがめる。

「説明するより、見た方が早いわ」

 仕方ない、と真央は一呼吸おいてから、刀をふっ、と動かした。

「え」

 途端、真央の後方にいた人質のうち、一人の首から血が噴き出した。首の回りをぐるりと走った軌跡から――さながら首輪をつけたかのように走った軌跡から、真っ赤な血が突然噴き出したのである。斬られた人質は自分の身に何が起きたか、ついぞ悟ることはなかった。それほどまでに真央の剣筋は自然だった。あまりにも、自然すぎた。

「な、なに?」

 斬られた男が声を発した――つまり、喉を動かしたことで、初めて男の頭部と胴体が。男の頭部は暫く首の上にあったが、やがてずるりと、石の床に滑り落ちて転がったのである。

「う、うわあああっ!?」

 そこまで来て、修一郎を含めた周囲はようやく真央のしたことを理解した。

「――真央、貴様……!」
「怒らないでよ、兄様」

 真央は見て、と言う。

「これが『羅刹女』の能力よ」

 他の人質たちが最高潮に怯える中で、男の足元に広がる血溜まりの中から、その一部がドロドロと何かを形づくり――ほどなくして一輪の花が生まれた。

「……椿?」

 それからは一瞬である。 

「ぎゃあああッ!!」
 
 斬られた男の、その隣にいた男が悲鳴をあげた。

「た、たすけて、やめて、斬らないでぇぇッ!!」

 首が落ちた骸が男に掴みかかって固定し、落ちた首はひとりでに動いて藻掻く男の足に噛み付いていた。
骸の手にはいつの間にか、どこから取り出したのか分からない小刀を持っていた。そして、抵抗できなくなった男の首を、容赦なく斬りつけた。

「な……」

 屍が人を襲う、という譚本を目にしたことはある。修一郎にしてみれば特段恐ろしい譚でもなかったが、それは現実で起こる可能性が限りなく低いからだ。だからこそ、今――その地獄の光景が広がっている現実に戦慄し、憎悪しながら見ていた。
 その間にも地獄の光景は続く。斬りつけた男の首からまた血が噴き出し、血からまた一輪の椿が生まれ、そして斬られた男もまた動き出して、さらに隣の男に襲いかかる。
 ――まるで、真央から伝染しているかのように。真央がやったことを真似するかのごとく、骸が生者を切り裂き始めたのである。

「うん、鍔倉事件のときと比べて汚染が早くなったわね。良かった、死体って時間が経つと腐っちゃうから」
「……『汚染』だと?」
「『羅刹女』の能力は、【汚染】よ」

 憎悪に歪んだ表情の修一郎を、まるで初心な少年を見ているかのように微笑む真央。

「羅刹女の物語は読んだことないでしょうから、私が教えてあげるわ。羅刹女は一人の女武者の復讐譚と見せかけて、実際は女武者が人を斬る快楽に目覚めて羅刹に堕ちていく譚なの。復讐を果たしたはずの彼女はその後も人を斬り続け、斬られた人の子や親や友が女を憎み、そして復讐の因果を生む――そして、みーんな羅刹に堕ちていく。まるで、兄様と私みたいね」

 夢見る少女のようなうっとりとした視線を向けながら、真央は続ける。

「だからなのかしら――羅刹女は感染者に人を襲わせ毒を撒き散らし、その毒に適合する使用者を探す。そして、羅刹女を使用するに値する『適合者』が私だったという訳」

 ――羅刹女の能力について、修一郎、そして鍔倉事件に携わった綾城が立てていた予測は『使用者の精神を汚染する』性質だったが、実際はそれどころではなかった。
 羅刹女は使使――毒に触れた全てを獣に変えてしまう禁書――、その中から選ばれた一人の適合者がその頂点に立ち、さらに化け物を生み出していく。
 そんなものが明るみに出れば、極東の島国である大陽本は数日で化け物の島になるだろう。八田幽岳の立場が悪くなるどころの話ではなく、国という規模で破滅を招きかねない代物だったのだ!

「私も十年前、毒に触れた死体に襲われたの。羅刹女の毒に汚染された屍に襲われて、毒に触れて――鍔倉の皆を襲っちゃった」
「……お前が襲った鍔倉の者たちは、あのような動く骸になったというのか」
「うん、そういうことね」
そこまで聞いて、修一郎はひとつ矛盾に気づく。
「解せんな」
「なにが?」
「鍔倉事件の報告書には骸が動き出したなんて記述はなかったぞ。私に事件のことを伝えに来た帝国司書も、鍔倉の者たちが全員倒れて死んでいたような口ぶりだった」
「そんなわけないわ。いえ、確かに兄様が出ていくまでは倒れていたのだけど。でも、しばらくしたら一斉に動き出したわよ。だから私、『まずい』って思ってそのまま放って逃げたんだもの」
「本当か?」
「本当よ。嘘をつく意味なんてないわ」

 そうなれば、『大量の死体が転がっていた』と伝えに来た帝国司書――綾城セツの発言とは明らかな食い違いが発生する。彼女は十年前――まだ少年であった修一郎に対し、『』と確かに言ったのだ。真央はそのまま放置して逃げたのだから、鍔倉の屋敷に蔓延った動く骸を見なかったわけはあるまい。傷心中の被害者に『身内の死体が化け物のように動いていた』などと伝えるのを躊躇った――と善意的に捉えることもできよう。しかし。

「――あの女、私に聞かれた時もわざと黙っていたのか」

 現在、羅刹女をめぐる事件を追っている修一郎にさえ、綾城はそんな重大な事実を明かそうとはしなかった。これは彼女の嫌な性格上、――と考える方が自然なように思える。

「私よりも先に手柄を掴んで出し抜くつもりでいたということか」

 なんて女――第一級禁書に関する重大な秘密を、己の手柄を独り占めするためだけに黙っているなど、言語道断である。いつまで経っても目障りな女狐だ、と修一郎は心の中で唾を吐いた。

「……あの女ってなに? 兄様にとって嫌な人なの? 私が斬ってあげましょうか?」
「笑えないな」

 邪魔ばかりしてくる不愉快な女に、不愉快なものをすぐに斬ろうとする妹――本当に、周囲の女性には恵まれていないと修一郎は嘆いた。

「あーぁ。兄様とお話してたら、人質が全員汚染されちゃったわ。賭け金が台無しね」

 兄妹で話している間に、というよりはとっくの昔に、人質は動く骸になっていた。修一郎を虚ろに見つめる骸の目は、真央と同じ血の色を帯びて、爛々と輝いている。

「心配しないで、あんな汚物に手出しはさせないわ。兄様と遊ぶのは私の特権だもの」
「それはありがたい。正直、お前を殺すためにあの骸を相手取りたくはなかったからな」
「まあ、私を殺すって? 実の妹を殺すと言うの?」
「ああ。私はお前を殺すために苦労を重ねて生きてきたのだからな」

 実の妹に最も向けるべきではない類の言葉を向けた修一郎に、真央は歓喜した。歓喜どころか、狂喜と言っていい。

「まあ! まあまあ! 今、私のためにって言ったのよね? 嬉しい! 嬉しいわ、兄様!」

 この状況下できゃっきゃと頬を染める真央に対し、今更不快感を示すこともなく――修一郎は刃を向けた。
実の妹に対して――ありったけの殺意を向けた。

「始めよう、真央。遊びではなく、殺し合いをな」
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