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十二月『消ゆ根雪』

その四

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 正直言って、率直に言って、彼に勝算はあるのか――答えは論ずるまでもない。
 彼の弱さは圧倒的で、例外的だ。
 病を患っているわけでもなければ、肉体的な不利性を抱えているでもない。経験がないわけでもないし、鍛練を怠ったわけでもない。――健康優良、勤倹力行きんけんりっこうであるにも関わらず、弱い。これほどまでに戦えないという性質を持つ人間は、この大陽本において他にいないだろう。
 当然ながら彼は並の帝国司書よりも弱いわけで、しかも現在彼が相手取っているのは、国内最凶と言っても過言ではない第一級禁書・『羅刹女』である。勝てる道理などありはしない。

「では、なぜそんな彼をわざわざこの件に介入させたのか。それはそういう契約だからだよ。勿論、彼がやめると一言発したのなら、私とて彼を送り出したりするものか」

 男は暗闇でひとりごちる。

「やめろとは言わなかったのかと。これでは彼が可哀想だと。まあそんなことを言われるだろうけども、そりゃあ言うも愚かというやつだよ。それが彼の譚なら、作家はそれを紡ぐだけ。譚本作家とは時に冷徹であるべきなのさ」

 余計な口や手を出そうものなら即座に睨みつけられるだろうしね、と。一人で呟きながら、男は歩く。

「どんな形であろうと譚は譚。そして彼の譚もいよいよ大詰めだ」

 男はその展開を嘆くように、嘆き悲しむように、そしてそれすら楽しむように――にいっと口元を歪ませた。

「坂を転げる石はどこまでも転げていく――どこまでも、どこまでも。それに意志がない限り、どこまでも転げる。さてさて、果たして、石はどこで止まるのか。それとも砕けてしまうかな」

 ゆらりゆらりと舞うものを纏って、男は笑っていた。


 *


 石造りの空間の中では、熾烈な兄妹の戦いが繰り広げられていた。……という表現は残念ながらできそうにない。
 お察しの通り、お決まりのように――無才の兄と天才の妹の差は歴然であった。兄の修一郎が最初の一撃を食らわせることができたのは、言ってしまえばまぐれ当たりであった。
 修一郎は妹にひとつも手傷を与えられていない。対して妹の真央は刀を抜いてすらいないのに、修一郎の斬撃を全て受け流している。まあ、修一郎は奇跡的に一撃もくらっていないのだから、無才としてはそれだけでも大健闘と言えよう。

「そろそろ兄様も限界ね」 

 真央は笑う。――嗤う。
 肩で息をして喘いでいる兄を嗤う。

「分かってるのよ。その禁書、兄様の体の中に雷を通して身体能力を無理やり上げているんでしょう? でも、それは一時的なもの」

 一時的に身体能力を引き出す神鳴郷。しかし、通常であれば使わない身体能力をわざわざ引き出しているのだから、当然その分だけツケは回ってくる。それゆえに、この禁書の使用は短期決戦での決着が前提となる。
 修一郎は真央に斬りかかった初撃から、連続してその稲妻の力を用いていた。

「……尾前一派は」
「ん?」
「尾前一派とは、直接関わっているのか。藤禁事件でその本を盗んだ、張本人たちとは」

 かろうじて刀を握っている修一郎は、唐突に会話を始める。最初は有無を言わせず襲いかかってきたのに、この期に及んで時間稼ぎのつもりかしら、などと真央は思いながら、

「ええ」

 と、実にあっさり答えた。
 隠そうともせず――隠す理由も、隠そうとするつもりも、微塵たりとてないと分かるほど、あっさりと答える。

「おかげで羅刹女の扱いも少しずつ覚えられたわ。鍔倉事件の時は屍を制御できなくて逃げちゃったけど、今は屍たちも私の言うことを聞いてくれるようになったの」

 手に持った刀を構えることもなく、だらりと腕を垂らしたまま、喋り始める。

「九月の事件は覚えてる? ちゃんと現場に死体があったでしょ。あの時はわざと動く屍にならないようにしたのよ。死体を残しておけば、きっと兄様が私だって気づいてくれると思って!」

 息も切れ切れな兄に対して一方的に喋る。さながら学校の成績を親に自慢する、あどけない子供のように。

「お前は、なぜ尾前一派に関わっている? 尾前一派の狙いはなんだ?」

 さらに深く掘り込む修一郎に、やはり真央はぺらぺらとあっさり答えた。

「最初の質問については予想がつくでしょ。鍔倉事件の後、行くあてもなくふらふらしてたらあっちが接触してきたのよ。兄様が柄田家にいるって教えてもらって、禁書の実験に協力すればまた兄様に会わせてあげられるって言われたから。でなきゃ、自分をこんなにしちゃった元凶なんかと誰がつるむもんですか」

 よく喋ることだ――
 修一郎はあまつさえお喋りな妹に呆れ返った。兄を雑魚同然と見くびっているから余裕があるのだろうか。
 かと言って修一郎にこれといった秘策もないわけだから、余裕ぶっている馬鹿な妹に奇襲をしかけて討ち取ったり――なんていかにも間抜けな事態は起こりえないのだけど。

「二番目の質問はそうね……まあ、本当は言っちゃだめなんだろうけど、兄様には教えてあげる」

 どうせ兄様も、私が斬ってしまうから。
 ぽつんとそんな前置きをして、真央はまた喋り始めた。

「尾前って人たちの最終目標はね、羅刹女の毒で兵団を作ることよ」
「兵団?」

 修一郎は、真央の後方を一瞬だけ見る。相変わらず、なんだかうずうずとじれったい様子でこちらを眺めている骸が五体、そこにいた。

「死者であるゆえにもう一度死ぬことはなく、痛みもなければ自我もなく――その肉体が腐り落ちるまで戦い続ける死者の兵団――その兵団を思うままにできるなら、大陽本なんて小さな国は簡単に支配できるでしょうね。いいえ、全世界を支配することだって夢じゃない。……まあ、後半部分は私の予想だけど、ほぼこれで間違いないでしょう。戦争好きのオジサンたちが考えることだもの」

 ……本当に、よく喋る。
 呆れ返るを通り越して、もはや褒めていいかもしれない。隊服を纏っていないとはいえ、帝国司書である自分に国賊の大いなる野望を堂々と暴露するとは、口が軽いなどという次元では済まされまい。とはいえ、ここまで余裕ぶられるのは却って都合がいい。修一郎はさらに情報を引き出そうとした。
 ――それよりも先に、誰かが声を出した。

「お喋りが過ぎるぞ、真央」

修一郎でもなく、真央でもなく、ましてや骸たちのどれかでもないその声の主は、低い声で囁くように言った。

「なによ、邪魔しないで」

 石室の後方から靴音と共に現れた二人の男を、真央はキッと睨んだ。
 片方は品のいい黒のベストを纏い、前髪を後ろに撫でつけた髭面の男。片方は洋装の上から白衣をまとった長身の男である。

「邪魔もなにも、私は被験体の観察をしにきただけだ。実験が成功するか、その過程を観察しにきただけのこと。――だというのに」

 顔をしかめて嘆く髭面に入れ替わるように、白衣の男も真央をいさめる。

「そんなに堂々と言われては、僕も兄上も大目玉ですよ」

 白衣の男が籠った声で言う。声が籠っているのは、その男の顔面が鼻から口まで布で覆われていたからだ。その上、細められた双眸、その目尻に筆先で描いたような紫の化粧――目の色も、顔色も、実に読み取りにくい。顔全体に仮面を纏ったように、思考の読み取れない男だ。

「よく言うわよ。そんな狐みたいなほっそい目をして」
「冗談で返さないでもらえませんか」

 困ったふうな声音で言う白衣の男に、真央は「うるっさいわね」とぶっきらぼうに返す。 

「構わん、秋久あきひさ。いずれにしても、この青年はこちら側に来るのだから、そのような些事さじは大目に見てやれ」

 髭面の男が白衣の男に向けて呼んだその名前に、修一郎は覚えがあった。

「……秋久?」

 若い世代の帝国司書であれば知らない者も多いが、班長という中間管理職ともなれば、その名は知っていて当然のものである。

「――尾前おざき秋久あきひさ?」

 今より三十年前――まだ修一郎も生まれていない頃、そして伝説の帝国司書・八田光雪がまだ現役だった時代――その時代に起きた、『帝国司書隊内部抗争』。
 発足時からそれまで手を取り合っていた二家がいがみ合い、憎しみ合い、争った末に排除された――帝国司書隊の黒歴史。
 、それがこの白衣の男・尾前秋久。
 ――ということは、その秋久から兄上と呼ばれるこの人物こそ。

「……尾前、冬嗣ふゆつぐ!」

 秋久と同じく粛清を逃れた尾前一族の長男――つまるところ、帝国司書隊最大の仇敵。
 国を巻き込んで帝国司書隊を揺るがした反逆者が今、修一郎の目の前に二人もいる!

「……なに私の兄様の視線を横取りしてるのよ! 邪魔しないでって言ったじゃない!」

 真央はそこで癇癪を起こした。この二人の登場、そして修一郎の注意を奪われたのが気に食わなかったようだ。
 しかし、この兄弟はそれにまともに取り合うような性格でもないらしい。秋久は面倒そうに視線をそっとずらし、冬嗣は僅かに嘆息をもらした。

「怒るな、これも羅刹女の研究の一環だ。そんなに怒るなら、その兄をこちらに引き入れろ」
「あんたの命令だと思うとムカつくわね」

 一応は協力相手だからか、それとも禁書の扱いを教わった義理を感じてなのか、斬りかからない代わりにあらん限りの悪態をつく真央。
 しかし、振り返ったときに兄の視線が自分の元に戻ってきているのに気づくや否や、そのしかめっ面も一気に恍惚とした笑みに変わった。

「……仲間になる、と言ったな。それはどちらの意味だ」

 未だに息が完全に整わないまま、修一郎が疑問をぶつけた。

「どちら、って?」
「生きている私を勧誘しているのか。それとも、屍にしてでも仲間にするか」

 あの赤い眼をした骸たちのようなおぞましい姿にはなりたくない。自我を消されて人形のように愛でられるのはもっと嫌だ。
 かといって生きている限りはこの者たちに従おうという気も起きないだろう。
 ……つまり、聞いたからといって、修一郎にはどちらも選択する気はない。

「うーん、一番いいのは兄様が生きているままこっちに来てくれることだけど」

 そんな都合のいい展開は無理があるでしょ、と真央も首を振る。
 そして、にっこり笑った。

「兄様、ちょっと痛いけど我慢してね」

 真央の笑顔と発言で、修一郎はまずいと直感するが――来たばかりの時ならいざ知らず、神鳴郷で消耗した彼が、を躱せるわけがなかった。

「ぐっ!?」

 直感と、左肩に走った痛みを認識したのは、ほとんど同時である。
 状況的に真央に斬られたと頭では理解できても――体は痛みを認知するまで、真央の攻撃を認識できなかった。――攻撃の視認も、察知も、どのみち修一郎には不可能である。

「う、あ、ァァあぁぁぁああああああああああああああああああああッ!!」

 真央の刃、羅刹女の刃によってつけられた傷口から全身へ瞬く間に――凶悪な毒が修一郎を蝕み始めた。


 *


「兄様。私ね、思ったの。このまま兄様に追いかけてもらえれば、兄様はずっと私を見てくれるんじゃないかって」

 真央が求めるのは兄の愛着であった。真央が外道に堕ちてしまった時点で、それは叶わなくなったが、それならばと真央は執着を求めた。
親しみが憎しみに置き換わったとしても――結局それらは紙一重。
 愛着と執着は、表裏一体。

「でもね、それだけでは兄様と一緒にいられないわ。仲良くもないオジサンたちの群れに一人じゃ寂しいの」

 人を殺し、外道になり、そうまでして兄の気を引いても、それだけでは真央の乾きは癒えない。――癒えるはずがない。
 この十年間、真央は兄を一目見ることさえ許されなかったのだから。

「だから、兄様……私と一緒にいましょうよ」

 もがいていた修一郎は、すでに動かなくなっていた。床に崩れ落ち、稲妻を散らしてのたうち回り、全身の血管が浮き出るほどもがき苦しんで――ぱったりと動かなくなった。
 転がった修一郎へ、真央が手を伸ばす。

「兄様、この実験が成功すれば、兄様の自我は消えないから。そうすれば、死ぬことなく永遠に生きていられるの。……そしたら、ずっと兄様も一緒にいてくれるよね?」

 被験体に致命傷を与えず毒を仕込む。
 あえて命を奪わないことで被検体の自我を保つ実験――今この時よりも前から、尾前一派のもとで繰り返し行なっていた実験――それらは、十一月に起きた二十件の殺傷事件の真相でもある。
 真央の発言通り、十一月に彼女が斬った正確な人数は十二人だった。しかも、彼女はそのいずれにも致命傷を与えていない。肩や脇腹、頬――それらの箇所に、ほんの小さな切り傷をつけただけだ。
 そしてそれらの実験は全て失敗に終わった――斬りつけた被験体たちは皆、毒によって自我もろとも蝕まれ、他のそれらと変わらぬ動く屍になっただけだった。だから、残りの二十人の被害者は全て、彼女の命令を聞かず勝手に動きだした屍によって殺された数である。
 実験が上手くいかないならば、被験体の条件を変える必要が生じる。そこで白羽の矢が立ったのが、適合者・鍔倉真央の実の兄――鍔倉修一郎だったのだ。

「兄様は絶対に消させない。絶対に、私が兄様を呼び戻すから――」

 真央の手が、修一郎の髪に触れようとした――しかし、その前に、修一郎の体が僅かに動いた。

「……兄様?」

 見逃してしまいそうなほどのごく僅かな動きだったが、真央はそれを確かにとらえていた。
 それを皮切りに、修一郎の指先がぴくり、ぴくりと動き出す。

「――兄様! 兄様!」

 真央は修一郎に呼びかける。その顔に浮かぶのは歪んだ笑みではなく、抑えきれない喜色が滲んだ笑みだ。

「……お、……ま、お」

 指先の次に動いたのは唇と喉だった。少しずつ、覚束ない声が形をなし始める。

「ま、お……まお……――真央」

 覚束なかった声がはっきりと形を持ち、真央が兄の名を呼ぼうとしたその時。
 彼はここで、予想だにしない底力を見せつけた。

「……おおおおぉぉぉッ!!」

 彼の最期の息吹――それは、獣のような咆哮から始まる。
 修一郎は、咆哮する。
 伸ばされた真央の手を払い除けて、牙を向いた鬼のような形相で咆哮する。

「ッ!?」

 修一郎の目を見て、真央は驚愕した。
 彼の双眸――羅刹女の毒によって血のように赤く染められた左眼と、
 修一郎は自我だけでなく、
 人格、性格、品格――品性、個性――性質、気質――
 その全てを以て、毒に抗っている。
 侵食していく赤よりも圧倒的な存在感を放って、右眼の稲妻が瞬いている。
 そしてその最期の命は今、復讐の殺意だけで燃えている!
 獣になるまいと抗う修一郎は今、と化している!!

「真央おおおおおおおおおおおおッ!!」

 真央は圧倒されていた。
 人らしからぬ咆哮で名を呼ぶ兄――否、誇り高き一匹の獣に、気圧されていた。
 爪を立て、牙を剥き、あぎとで食いちぎらんばかりの猛烈な圧力を纏って、修一郎は真央に襲いかかる。
 もう一度刀を携えて、真央の息の根を止める勢いで襲いかかる。

「くぅっ!」

 修一郎の剣幕に圧倒されていた真央はようやく刀を構え直した。初動が遅れたために、防御もまた遅れた。そうしてようやく並んだ力関係――ようやく始まる刹那の最終決戦!
 獣に化けた無才、虚をつかれた天才――
 真央の防御が間に合うか、修一郎の刃が届くか――!
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