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十月『蹴鞠童』

その一

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 ――母様 母様! 母様!!
 ――だめだ、こんなこと……
 ――いやだ!! やめて、やめて!! お願いだからやめて母様!!
 ――母様ぁっ!!

 悲鳴と共に現れたその炎は、夜闇をも焦がす勢いだった。
 轟々と唸りを上げていた。
 民家だろうか。それとも、入口で暖簾らしきものがひらひら火の粉を散らして燃えているから、商家だろうか。
 木造の建物を焼き尽くす炎は、何匹もの蛇が巻きついて舐めあげるような姿をしていた。
 その中で誰かが叫び、嘆いていた。
 まだ変声期の只中にいる少年だろうか。
 生々しい、少し掠れた少年の悲鳴が聞こえる。
 聞いているこちらが胸を引き裂かれそうになる、悲痛で悲惨な慟哭だった。
 動かしたくてたまらない足が動かない。
 逃げたかったのか、少年を助けたかったのか、それは定かではない。
 けれど、足は釘でも打ち付けられたかのように、地面にぴったりついて動いてくれない。
 多分、それはおれの夢じゃないからだろう。
 他人の夢――譚の中で、勝手に動き回るなんてことはできない。
 おれは、ここでは異分子だ。

 ――……もう、だめだ
 ――母様は、

 事態は急転する。
 舞台は暗転する。
 炎の光も夜の星明かりもない、ただの闇へ、おれは沈む。
 そして、真っ暗になった舞台の中――おれの真後ろで、静かなくせによく響く少年の声が言った。 

「              」

 おれは、後ろに振り返った。


*****


 気づけば朝だった。唯助の開かれた目に、眩い朝日が差し込んでいた。
 そんな唯助の視界の端から、彼を覗き込む影があった。

「唯助、大丈夫か?」

 男にしては少し長い茶髪が、視界の朝日を透かす。

「……世助」
「お前、またうなされてたぞ」

 唯助は布団からむくりと起き上がる。
 朝の空気がひどく冷たく感じて、特に背中がまとわりつくように寒くて気持ちが悪い。唯助はおびただしい量の汗をかいていることに気づいた。もう十月半ばだというのに、寝汗にしてはありえない量だった。

「ここ最近ずっとじゃねえか。調子が悪いなら、おっさんに相談したほうがいいんじゃねえの」
「……旦那」

 唯助は一人の男の顔を思い浮かべる。
 顔、と言っても、その男の顔は上半分が隠れているのだが。

「おい、なにぼーっとしてんだよ」

 いやに口数の少ない唯助を心配したのか、世助は唯助の肩を軽く揺すった。まあ、いささか乱暴者の世助なので、脳が少し揺れるくらいの強さはやはりあって、唯助の思考はそれによってかき消された。

「おっさんに早いとこ相談しに行け。お前、その顔色は普通じゃねえよ」
「はは、世助はほんと相変わらずだな。おれのことに関しちゃ、おれ以上に敏感だ」
「うるせえ、お前が無頓着すぎんだよ。もっと自分に気を配りやがれ」
「へいへい」

 まるで母親のような口ぶりの世助を笑いつつ、唯助はとりあえず湿った服を着替えることにした。


*****


 淡泊ながら柔らかな香りを立てる卵焼きを、唯助はいの一番に口に運んだ。ほどよい焼き目のついた一切れを歯で噛めば、繊細な旨味の詰まった出汁がじゅんわりとしみ出る。その美味さときたら筆舌に尽くしがたい。筆舌に尽くせない代わりに踊り出したい。もちろん、唯助はそこまで行儀の悪い子供ではないので、動きそうになる体を押さえつけ、頬を緩ませ、卵焼きの旨味と甘味を味わった。

「はー……うめぇ……姐さんの飯ってほんっとうめぇ……」
「すげえよなぁ。姉御の作る料理は何でも美味えし、苦手な物でも食べる気になる」
「ありがとうございます。お二人が喜んでくださるから、わたくしも作りがいがありますわ」

 卵焼きの美味さに打ち震える唯助と、柳葉魚ししゃもをもしゃもしゃ食っている世助を見て、音音は大層嬉しそうに微笑んでいる。そして、その隣に座る三八は双子に向かって得意げになっていた。

「だろう? 我が愛妻に盛大に感謝するが良いぞ、諸君」
「ははーっ! いつも美味い飯をありがとうございます~」
「今日も元気いっぱい生きていけます~」
「まあまあ、お二人ともそんなに頭を下げなくても」

 お喋りも適当に、美味い飯をある程度まで食べ進めたところで、音音が口を開いた。

「そういえば皆様、本日はどうなさるのですか?」

 この日、七本屋は週に一度の定休日であった。そもそも常に閑古鳥が鳴いているような七本屋に定休日など関係あろうものか、というツッコミをする野暮助はいない。七本屋の定休日は、店主や店員全員にとっての休日でもある。つまりは一切仕事をしない日だ。

「小生はこの後出かける。人と会う約束があるのでな」
「ああ、この前仰っていた草村堂のご店主様とですね」
「おれらは留守番してます。やりたいことがあるんで。姐さんは?」
「わたくしも昼餉まではお友達と少しお出かけしようかと。よろしいでしょうか?」
「ああ、そうするといい。ついでに昼餉も各自好きにすればよかろう。音音もたまには炊事をサボるといい」
「よいのですか? お二人はお家にいるのでしょう?」
「おれらは小遣いで勝手に買うから気にすんな。姉御も外食してくればいいじゃねえか」
「では、用事が終わったら音音と小生は待ち合わせて飯でも食いに行こう。それで良いか?」
「はい、ではお言葉に甘えます」
「決まりだな。では、本日は夕餉まで自由としよう」
「「うーっす」」

 こんな具合に、七本屋の休日は決まる。主人たる三八が奔放なものだから、妻である音音も、住み込みで働く双子も、予定だけ告げて奔放に過ごすのだ。
 唯助はふと、飯をよそう三八を見て尋ねた。

「旦那。今、何杯目なんです?」
「今日は柳葉魚が美味いから七杯目」
「……いつの間にその量を平らげてるんだよ」

 これも、七本屋の日常茶飯事である。


 さて、その日の昼前である。
 双子は休日を有意義に使ってやろうではないかと、与えられた部屋に卓を置いてノートなどを広げていた。

「――つまり、本は読み解くことで力を使うことができる。譚本は読み解きをすると、本の中に書いてあることの疑似体験ができる。それを譚本の【夢】っていうんだな」
「うん、そうそう」
「この本によれば、少量だけ使うことで精神病の治療効果も期待できる。けど、使いすぎると疑似体験をすることそのものが気持ちよくなって、逆に麻薬に依存したようになっちまう、と」
「そう。譚本の方も人間に長く干渉しすぎると、だんだん悪性化していく。紫蔓さんの『ある女』はこの型だな」
「分からねえのは珱仙先生の場合だよな。あの人、自分から禁書になったみたいだけど。そもそも、本に自我があるのかよ。随分と不思議な話じゃねえか」
「腕のいい作家に紡がれるとそうなるらしいぜ。旦那が言ってたけど、『先生の匣庭』は旦那のお師匠さんが紡いだらしいし」
「腕のいい、ねぇ。おれもおっさんの譚本は読んでみたし、確かに面白かったけどよ。譚本作家の腕がいいって、何が基準なんだ?」
「さあ? 文章力、とか?」
「あれ、実際書いてねえじゃん」
「まあ、そうだけど。でも、引き込まれないか。旦那の本はなんていうか、頭で想像がしやすいんだよ。本の中の人たちが『生きてる』って感じ? うーん」
「言わんとせんことは分かるぜ。あんなふざけたおっさんだけど、あの人の文章を読んでると生々しい感覚がする」
「譚本の夢を実際に体感しているようにできるって感じなのかな。再現性が高いっていうか。分からないけど」
「唯助、『譚の読み解き』はしたんだろ? あれは『譚本の読み解き』とは違うのか?」
「本じゃないから違うよ。あれはあくまで本になる前の『譚』。なんでも、人の『譚』を本にするにはどうしても必要な工程なんだってさ。全てのことの有様を紐解いて理解しないまま想像だけで紡ぐと、人様の『譚』を創作するっていう禁則になっちまうらしい。特に結を勝手に決めて紡ぐのは、『譚殺し』っていう一番やっちゃいけない禁忌なんだって」
「あー、と?」
「ほら、こっちの本の冒頭に書いてあるだろ。『譚』とは、言うなれば『歴史』である。『人生』である。『体験』である。『心』である。――譚殺しってのはその人の『人生』や『体験』や『感情』の結末を横から強制的に変えちまう行為らしい」
「そりゃとんでもねえな。なるほどなぁ、人様の『譚』を他人が勝手に創作するってのは、人様の運命を勝手に決めちまうってことになるわけか。…おっかねえな」
「ここまでなんとなく分かったか?」
「理屈はなんとなく。けど、おれはお前みたいに譚の読み解きってのを実際に見てねえから、想像で補ってるような感じだな」
「あー……確かに、実際経験してみないとこれは飲み込めねえかもな」

 生まれてこの方、教えられたことは体で全て覚え、勉強らしい勉強をしてこなかった二人である。
 少し前から始めていた唯助はともかくとして、初めて文字にまとめるなどという行為をした世助は、ぐちゃぐちゃに書き連ねたノートを前に鉛筆の端を齧っていた。

「おいおい、鉛筆齧るなよ。不味いぞ」
「意外と噛み心地はいいぞ」
「こら、ぺってしろ、ぺって」

 どうやら、世助は既に頭を疲れさせてしまったらしい。唯助もそろそろ頭痛の前兆が出てきたところだ。
一階に降りて少し休憩しようかと思い立ったところで、ちょうど玄関の戸が開く音がした。
 玄関の硝子戸はガラガラガラ!! と大袈裟な音を立て、次いで慌ただしい声が二階まで木霊した。

「来たぞぉぉぉぉぉぉぉ!」

 三八の声だ。随分と興奮しているらしい。

「うるせーな、おっさん……」

 世助が不愉快そうに眉根に皺を寄せる。
 いちいち行動が珍妙な男だ。三八は階段をドタドタ駆け上がって高揚するままに双子のいる部屋の襖を開け放った。

「聞け、二人とも! 久々のいい譚だぞ!! 譚本が紡げるぞぉぉぉぉぉ!!」
「あーはいはい。良かったな」

 頭を使って疲れたところに、まるで半鐘でもカンカン叩きまくったような三八の声は堪える。
 世助は落ち着きのない大人への苛立ちもあっていつも以上に邪険に返した。
 三八はそれに傷ついた様子もなく、双子の手元に目を留める。

「む? 二人とも何をしていたんだ?」
「勉強」
「今まで教えてもらったことがごちゃごちゃしてたんで、一回整理しようと思って」
「それは感心なことだ。どれどれ」

 三八の双子の書いていたノートを覗き込んだ。

「ほう、小生が今まで教えた内容だね? きちんと復習していて偉いな」

 三八の両手が、双子の頭をそれぞれ撫でる。
 二人が書いたノートには、『本』とはなにか、『術本』や『譚本』とはなにか、『譚本』を紡ぐとはなにか、譚の読み解きとはなんたるか、禁書の禁書たる所以、【毒】たちがもたらす危険──さらには、ついこの間に教えた『先天干渉者』や『感化性』『干渉性』のことまでまとめてある。
 唯助と世助で字の癖やまとめ方が異なっているのも面白くて、三八はさらに笑みを深くした。
 三八は続いて、双子が参考に使っていた術本を拾い上げる。

「これはまた古い本を見つけたね。小生が若い頃、帝国司書の試験勉強に使っていたものだよ」

 その表紙には『大陽本帝国司書用語大全(第二版)』と書かれている。本の刊行年からして三十八年前、現在五十六歳の三八がまだ双子と同い歳であった頃の物である。

八田幽岳はったゆうがく、でしたっけ。その著者って、帝国司書隊の初代総統ですよね」

 世間知らずの双子でも、大陽本に住んでいるならば八田幽岳の名はよく知るところであった。
 三八はそれに頷く。

「ああ、そうだよ。これは本に携わる身であれば読んでおいて損はない。本についてのいろはが丁寧に書いてあるからね。古いけど、教科書にはうってつけだろう」

 三八は懐かしむように、黄ばんだ頁をぱらぱらと捲っていた。

「旦那はこの人に会ったことあるんですか?」
「勿論あるよ。彼は小生の師匠だからね。『先生の箱庭』の原本を紡いだのも彼なんだよ」
「へえ!」

 ならば、三八が譚本作家として腕利きであるということも納得できた。八田幽岳は本に携わる人々にとっての教科書を編纂し、譚本作家としても活躍し、さらには帝国司書隊を作り上げた偉人である。
 その八田幽岳の弟子が目の前にいるのだ。
 よもやこんな変人が、とは思わないでもなかったが、大陽本の『本』の歴史に大きな功績を残した偉人の弟子と今まで関わっていたのだと思うと、感慨深いものがある。

「今は二代目の総統がいるけど、八田幽岳って確か十年前の震災から行方不明だったよな」
「え、そうだったの?」

 十年前といえば、双子は当時八歳である。唯助は小児喘息で苦しんでいた真っ最中だったが、健康体であった世助には、八田幽岳の行方を巡り世間が騒いでいた記憶が根強く残っている。

「ああ、震災で起きた列車の脱線事故に巻き込まれたそうでな。あれで亡くなった方も多いんだが、瓦礫が撤去されてもなぜか先生だけが見つからなくてな。無事でいてくれればいいんだが」

 先ほどまで高揚していた三八の表情に、憂いの色が浮かぶ。尊敬する師の消息が十年経っても知れないなど、弟子の三八からしてみれば非常に心痛いことであろう。そう思うと、唯助も世助も三八に同情した。
 しかし、三八はそこからぱっと笑顔に戻して二人に言う。

「それはそうと、君たち。勉強しているならちょうどいい。明日は実践授業といこうではないか」

 先程までの憂いはどこへやら、三八の足はぴょこぴょこと忙しなく動いていて、まるで動物園などに行く前の子供のようだ。

「なあ、おっさん。姉御はどうしたんだよ」
「あぁ、まだ待ち合わせ時間にはなってないんだ。この歓天喜地かんてんきちたる心の昂りを抑えきれなかったのでな、突っ走って知らせにきた」
「そんなに急を要する話で?」
「いんや、明日だ。明日行く」

 じゃあどうして今わざわざ息を切らせて走ってきた。唯助と世助は同時に三八に言おうとして、止めた。多分、そうせずにはいられないほど、この譚好きの男は興奮しているのだ。前髪で隠れているが、この男は今、間違いなく喜色満面きしょくまんめんである。

「どうせ明日も閑古鳥だ、店は臨時休業にして出かけよう」
「「あんたがそれを言っていいのかよ……」」

 今度は二人とも、綺麗に声が揃った。
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