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九月『子猫の嫁さがし』

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 秋晴れした午前の空の下、洗いたての洗濯物がはためいていた。その横では、布団をぱんぱん叩いている娘の姿がある。

「……これでよし、と」

 娘――音音は洗濯物を全て干し終わると、家の中に入ってようやくひと息ついた。
 今日の掃除は双子が手分けしてやってくれたから、昼餉の時間までは自由だ。さて何をしようかと茶をいれて思案していると、そこへちりちりと鈴を鳴らしながら歩み寄ってくる猫がいた。

「まあ、さばちゃん。貴方も休む?」
「にゃぁ」

 さばと名付けられた三毛猫の子は尻尾を上げて返事をすると、その手に擦り寄った。尻尾がちぎれ、耳も欠けた子猫は、名前の由来ともなった青色の右目で音音を見つめていた。

「ふふ、鯖ちゃんはふわふわして気持ちいいわね。ふふ」

 音音が子猫の額を指で撫で、頬をふにふにと揉んでやると、猫は満足そうに目を細める。毛玉に命が宿ったかのような生き物を膝の上で撫で回して、音音は家事の疲れを癒していた。

「おや、音音。と、鯖もそこにいたか」

 鯖という珍妙な名を付けた主である三八は、音音のもとに寄り、彼女と同様に子猫を撫で回した。

「お前、随分といいご身分じゃないか。小生を差し置いて音音の膝に乗るなんて、悪いやつめ」
「にゃぁ」

 口では憎らしそうに言いながらも、子猫を撫でる三八の手つきは優しい。首を揉み、顎をくしくしと指で撫でると、子猫はごろごろと喉を鳴らした。

「こいつめ、音音の膝の上で茹ですぎた餅みたいなつらをしおって。小生の嫁の膝だぞ。ん?」
「みや様ったら。大人気ないですよ」
「好きな女性ひとを独占したいと思うのに、年齢なんて関係ないよ」
「相手は猫ちゃんなのに」

 仕方のない人、と呆れた音音だったが、それもつかの間――三八は猫を少し撫で回して満足すると、するりと音音の方へ手を伸ばす。

「億歩譲って膝はいいが、この位置だけは誰にも譲らん」

 三八はその腕で音音の体をしっかり絡めとると、きゅっと後ろから抱きしめた。細い身体が潰れないように弱く、しかし服越しの体温や鼓動を伝えられるほどには強く、丁度いい塩梅で音音の身体をきゅうっと締めつけた。

「君への愛を囁くにはここが一番いい。誰にも譲るものか。君の耳元で囁いていい男は小生だけだ」

 三八は静かに、ゆっくりと音音の耳へ囁いた。
 音音にとっては困ったことに、この男はやたら声がいい。肉体の若さには似つかわしくない穏やかさと、指先で胸を撫で回されるような艶。そんな蠱惑的な声で吐息がかかるほどの近さで耳打ちされては、たまったものではない。
 音音の顔はすでに赤くなっていた。

「嫌か? 嫌ならやめるよ」
「……みや様の意地悪」

 嫌がるはずがないのを分かっているくせに、わざわざ言わせないでほしい。音音は三八を軽く睨んだ。

「可愛いね、音音は」
「こんな顔のどこが可愛いのです。わたくしは怒っているんですよ」
「可愛いよ、怒っていてもね」

 三八は音音の頬を指でなぞるように撫で、音音は擽ったそうにしながら目を細める。

「……みや様、この頃はまったくわたくしを休ませてはくれませんね」
「む?」

 はあ、と音音はわざわざ三八に聞かせるようにため息をついた。三八の腕の力が僅かに緩む。

「わたくしの疲れを癒す目的もあって鯖ちゃんを飼うことにしたのでしょう? なのに、鯖ちゃんがいればいるほど、わたくしをこんなふうにして。……これでは心が休まりません」

 それは皮肉にさえならない、音音の精一杯の皮肉であった。
 音音はその優しさゆえに、相手を傷つける言葉を選べない。相手が意地悪な夫であろうとも、その夫がますます喜んでしまうであろう言葉を使ってでしか皮肉を言えない。
 人を傷つける皮肉ではなく、人を喜ばせてしまう皮肉――つまるところ、皮肉に見せかけた惚気であった。

「君、小生を喜ばせてどうしたいんだい? もっといじめてしまうよ?」

 三八は胸を熱くして、嬉しそうににやにやしだして、ますます腕に力を込めた。

「拗ねますよ」
「おっと、それはいかんな」

 三八は音音へ投げようと思っていた言葉の数々をさっと引っ込めた。意地悪というのはほんの少しだけするからいいのであって、妻の機嫌を損ねるようではいけない。

「こんなに可愛らしいお嬢さんを嫁にできた小生は果報者だな」

 甘い言葉もほどほどに、三八はただ音音を抱きしめることにした。
 音音は暫く「意地悪」だの「こんな昼下がりから」だのぶつぶつ言っていたが、三八にこれ以上からかう気がないと分かると、子猫のように丸くなった。
 何を語るでもなく、何をするでもなく、 ただ静かに抱きしめられるのは心地よいもので、次第に音音はうつらうつらと微睡み始める。本格的に眠りに入ろうかというところで、

「なあ、音音」

 と三八が静かに語りかけた。

「小生は意地悪で偏屈で変人なおじさんだけど、だからこそ、君がここを選んでいてくれることに感謝しているんだよ」

 微睡んだ状態で聞く三八の声は、腹の底にとんとん響くような、不思議な感覚である。
 温かい水に揺られるようなこの柔らかさは、音音が最も愛するものの一つだ。
 三八なくしては得られないこの温もりが、音音はこの上なく好きだった。

「音音。願わくばこれからも、ここにいておくれ。ずーっと、こうさせておくれ」

 ああもう、ずるい。なんてずるい人だ。こんな時にそんなことを言われては意地悪だって許してしまう。離れられなくなってしまうではないか。
 音音は温もりに揺蕩いながら、三八に応えた。

「はい、みや様。音音はここにおります。貴方様のおそばに、ずーっとおりますよ。ですから、どうかこれからも、音音をそばに置いてくださいまし」

 癖毛の間から覗く若草色の瞳を見つめる。
 見えたのはほんの一瞬だけだったが、三八は目が合ったのを喜ぶようにふっと微笑んで、唇を寄せた。音音はいつものように、それを受け入れる。 
 膝の上にいた子猫がそっと姿を消していたことに、音音はしばらく気づかなかった。


 *****


「あの二人、普段からあれなのかにゃ……」
「うん、日常茶飯事」

 隻眼の三毛猫こと『鯖』は、少年の姿になって丸まっていた。その両脇には唯助と世助がいる。というより、鯖が二人の間に無理やり頭をねじ込んでいる。
 世助がその背中をぺんぺんと叩いて言った。

「全部聞いたらマジで胸焼けするかんな。逃げて正解だよ、お前」
「ほんと、あんなところにいろって方が無理だよ。おれらがいることなんかちっとも気にしねえんだもん」

 夫婦喧嘩は犬も食わないとはよく言うが、あの夫婦のむつみ合いは猫も食えぬ代物らしい。あの熱さは堪えたことだろう。鯖はふわふわに毛が生えた三角の耳を熱くして、真っ赤な顔を伏せていた。

「姉御に袖にされて拗ねてんのか?」
「おい、世助。袖にするなんて言い方したら悪いぞ」
「似たようなもんだろ」

 けらけらと笑う世助を、鯖が下からじろりと睨む。そんな鯖をなだめるように、唯助は鯖の頭を撫でた。

「暇してんならおれらに撫でさせろよ。おれらも休憩中なんだ」
「尻尾いじるのはやめろにゃぁ」
「じゃあ早く猫になりな。撫で回されるのはお前の仕事だろ」
「お前ら、いい気ににゃりやがって。禁書を舐めたらおっかにゃいぞ」
「その台詞、そっくり返すぜ。次やらかしたら三味線職人に売っぱらわれちまうかもな。三弦張られてぴんしゃん唄う羽目になるぜ」
「この程度の罰で許してもらえてるんだ。ちったぁ旦那に感謝しとけよ、鯖」

 鯖はとても憎らしそうな目付きをしているが、言い返しはしなかった。自分の跳ねっ返りのせいで、大好きな音音に苦労をかけたことは理解しているのだ。
 鯖はばつが悪いのを誤魔化すように「にゃぁ~」とひと鳴きした。




 九月『子猫の嫁さがし』・了
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