彼方の大地で綴る【四章まで完結済み】

しいたけ農場

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第二章 魔法使いの追憶

2‐21

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 エーリヒの屋敷に世話になって色々と助かっているが、中でも特にヨハンが気に入っていることが一つある。

 それは、広い風呂に入れることだった。

 イシュトナル自治区には共同の浴場しかないため、精々男女が分かれているぐらいで、一人でゆっくりと湯につかるということはあまりない。

 特別な時でもない限りは一人で風呂に入る生活を続けてきた人にとってはこれはかなりのストレスだ。

 エーリヒの屋敷の風呂場は一度に十人以上が入れる大きな浴場で、普段はここに勤めているメイドも利用しているらしい。男女の区別はないが、そこは時間帯によって分ければ済む。
 一度に利用する人数が少ないので、本来ならばゆっくりと一人を満喫できる。

 石造りの高い天井の浴場は、天窓から星の光が覗いている。時間はもうすっかり夜になっていた。

 円形の大きな浴槽には透明な湯と、その温かさを現す湯気が大量に浮かんでいた。

 ヨハンは今、中央にある柱型のオブジェに背中を預けている。


「ふー」「ふへー」


 じんわりと湯の温かさが身に染みて、今ばかりは間の抜けた声が出てしまう。

 それは向こうも同様のようで、柱の反対側からは気の抜けた声が反響してきた。

 そう。

 ヨハンは今、風呂に入っている。

 カナタと二人で。


「……で、説教の続きだが」

「もう聞き飽きた」


 不貞腐れたような声と、ぱしゃりと水が跳ねる音が響く。

 何も二人は一緒に示し合わせて風呂に入ってきたわけではない。幾ら一緒に住んでいた時期があったとしてもこれまでそんなことはなかったし、お互いに裸を堂々と見せ合うほどに深い仲ではない。


「もういいじゃん。こうやって一緒にお風呂に入ってあげてるんだしさー」

「これは事故だ。事故」

「……そっちが後から入ってきたんだから、言い訳は聞かないよ」


 カナタの言った通り、これはヨハンの落ち度だ。

 あれから事後処理を終えてエーリヒの屋敷に戻り、エレオノーラに事を報告を終えた。

 そして臭いがきついと言われたので、カナタに説教することは後回しにして風呂に入ることして……こうなった。


「てっきり説教が嫌で雲隠れしているものかと思っていたが」

「そんなわけないじゃん。あんな臭いは流石のボクでもちょっとね。すぐにお風呂入って全力で身体を洗ったよ」

「まったく思いもつかなかったな」

「本当はちょっと期待してたとか?」

「もしそうだと言ったら、少しは身の危険を感じた方がいいぞ」

「……えっち」


 ちゃぷんと、カナタが沈む音がする。

 今この場においては、どんな罵倒も甘んじて受けるしかない。カナタが一声あげるだけで、ヨハンの社会的信用は失われるのだから。


「別に一度出て入りなおしてもいいんだぞ」

「いいよ、別に。見られなければ気にしないし。それにちゃんと温まらないと風邪引くよ」


 限定的な条件ながらお許しが出たので、ゆっくりと肩まで浸かることにする。


「でもびっくりしたよ。あんなに堂々と入ってくるんだもん」


 身体を洗って湯船に浸かり、先程のように息を吐き、そこでようやく柱の後ろ側に居たカナタが気がついた。

 それから二人は特に慌てもせず初々しいやり取りもなく、まるで家族風呂に入るかの如くこうして同じ時間を過ごしていた。


「たまにはゆっくり。こういうのもいいよねー。でもボクがいるのに気が付かないって、疲れてるんじゃないの?」

「考え事をしていたからな。お前こそ、扉が開いた時点で誰が入って来たのか確認しようとは思わなかったのか?」


 基本的に浴場はメイド達やエレオノーラと使う時間を分けているので、本来ならば入浴中に誰が入ってくることはないはずだった。

 今日のような例外を除けば。


「いやー。ボクも考え事してたからさ」

「そうか」


 それ以上は問わない。

 何についての考えごとかを聞けば、きっと墓穴を掘る羽目になる。

 問題は、カナタがそこに対する遠慮をするような性格ではないことなのだが。


「で、アーデルハイトの話なんだけど」

「あの怪物の話をするぞ。あれは恐らくキメラといって異なる生き物を繋ぎ合わせた……」

「そんなことどうでもいいよ!」


 どうでもいいということはないだろう。柱の後ろ側で、勢いよく水面を叩く音がした。


「アーデルハイト、すっごい怒ってたよ。そもそも二人ってどういう関係なの?」

「アーデルハイト・クルルはヨハン・ヘルツォークの孫娘だ。だからそこで世話になっていたときに、一緒に暮らしていた」

「ふーん。で、なんで怒ってるの?」

「それは知らん。俺が北に旅立ってからずっと連絡も取っていないし、帰ってきてから初めて会ったんだぞ? むしろ忘れられてると思っていたから、あまり会いたくもなかったんだが」

「……北に」


 その一部分が気になったのか、カナタは小さな声でそれを繰り返した。

 しばらくの沈黙が流れ、それから意を決したように彼女はできるだけ優しくその話題に触れようとする。


「イブキさんってエトランゼの人だよね。英雄って呼ばれてるって聞いた」


 冒険者を続けていれば、何度かその名を聞いたことがある。

 それでももう随分昔のことなので詳細は判らず、当時を生きてきた者達が僅かに語るのみのことだが。


「もう昔の話だ」

「……北に旅立ったんだよね。エトランゼを元の世界に戻すために」

「さて、どうだったか」


 答えを誤魔化しながら、湯の中に身体を沈めていく。肩までしっかりと浸かって、顔は天井を見上げた。

 いつからそうなっていったのかは定かではない。

 最初は、好奇心に任せた旅立った。

 彼女達は世界中を巡って、様々な人と出会い助け、時には戦ってきた。

 やがて彼女達の名が伝わり、英雄と呼ばれて期待をかけられるようになったのはある意味では必然のようなものだ。


「つまらん期待を寄せられて、それに答えようとしたんだ。それが如何に馬鹿なことかも知らずに」


 思い込んだら止まれない。苦しむ人を見捨てることができない。

 彼女がエトランゼの帰還方法を求めて北に行こうと提案したとき、ヨハンは特に何も考えることなくそれを了承した。

 それが、彼等の永き別れを意味することも判らずに。


「でも、ボクはその気持ち判るよ」


 カナタの声が嫌に反響する。


「誰かに助けを求められたら、例え力が及ばなくっても全力で助けてあげたいって思うから」

「……そうか」


 ヨハンにできたのは、そう声を絞り出すことだけだった。

 その危うさを注意する言葉を持っていない。それは本来ならば決して失われてはならない、人として至上の善性であるとヨハンは知っているから。

 裁かれるべきはその心ではなく、無尽蔵に期待を掛ける人々と、それを護りきれなかった者だ。


「――まずは。アーデルハイトと仲直りしないとね。それからあの怪物……えっと、なんだっけ?」

「キメラだ」

「そう。キメラのことも調べないと! あんなのが街中に出て来たら、安心して眠れないもんね!」


 キメラはエトランゼ街に現れた。被害者の大半はエトランゼで、警備隊や駐留軍の到着も不自然に遅かった。

 確証が持てたわけではないが、エトランゼ街を狙ってあの怪物達が放たれた可能性は高い。

 だとすれば誰が、何のために?

 そもそもそれは外部からの破壊工作なのか、それとも内部の誰かが行ったことなのか。

 考証すべき事柄は幾つもあり、確たる証拠も足りていない。

 一際大きな水音がした。


「ボク、もう上がるから。目閉じててね! 絶対開けないでよ!」

「判ってる判ってる。別に喜んで見るようなものでもないだろうに」

「あるよ! 多分!」


 ヨハンが目を閉じたまま顔を上に向けていると、じゃぶじゃぶと水の中を歩く音が鳴り響き、人の気配がゆっくりと移動していく。

 それは何故か、ヨハンのすぐ傍で停止した。


「なんだ。見られたいのか?」

「違うよ。……ヨハンさん、何か心配事でもあるの?」

「強いて言うならいつまで目を閉じていればいいのか判らないことが心配だな」

「そうじゃなくて! ……疲れた顔してるよ」

「なぁ。そういうのは風呂を出てからじゃ駄目のか?」

「いや、だって……!」


 手が伸びてきて、ヨハンの額に触れる。

 目の前の少女は本物の馬鹿だ。こちらが目を閉じていると信じて、いやそうだとしても幾ら何でも無防備過ぎる。

 ヨハンに彼女を如何こうするつもりがないとはいえ、その行動は咎めるべきだろう。


「お前」

「困ったときは、ボクを頼ってね。まだ力になれないかも知れないけど、精一杯頑張るから」


 その、今まで聞いたことない声音に言葉を奪われた。

 至近距離で、彼女は裸で立っている。もしヨハンが目を開ければ全てが見えてしまうだろう。

 その状況すら忘れてしまうような優しく、切ない声。


「頑張ってヨハンさんの役に立てるようになるから。エレオノーラさんも一緒に助けられるようになるし……。そしたら、昔の話、してくれる? ヨハンさんの考えてることの少しでも話してくれれば嬉しいな」


 水の中を進む足音が遠ざかり、やがては濡れた足が石床を歩む音へと変わる。

 程なくして扉が開かれ、すぐに閉じる音が浴槽内に大きく響いて、そこまで来てようやくヨハンは目を開けた。

 ぼやけた視界の中、幾つものランプの灯りが見える。

 その先にある天窓からは星々。

 それを見ながら小さく息を吐いた。

 彼女に語る言葉などはない。

 例えそれが危ういものであっても、自らの意思で飛ぼうとしている鳥を、つまらない人の言葉で押し留めていいはずがない。
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