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第七章 開戦前夜

7-5 果てなき願望  ……マクシミリアン

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 終わらぬ咆哮が、夜を覆う。皇帝を称える声が、吹き抜ける風さえもかき消し、夜を支配する。

「さっきの娼婦、間者か何かだと思うか?」
 オッリが去ったあと、マクシミリアンは、隅に控える無口な影スーサイド・サイレンスに訊ねた。
「ただの間者ならともかく、刺客だと困る。ちょっと見てきてくれないか?」
 返答はなかった。幕舎の外の喧騒に紛れ、いつの間にか、黒いローブの影は消えていた。

 護衛である無口な影スーサイド・サイレンスが消え、本当に一人の時間が訪れる。

 ようやく、ペン先が走り始める。
 手記の内容、妻への言葉は、良き夫であるよう心掛けた。
 まず、日々の感謝を綴る。ヤンネからの言葉を添え、その健勝を記す。それらしい遺言も書いた。それから、二人の未来についても……。

 だが、本当に伝えたいことは書いていない。

 寝台横に置かれた、自身の装具に目をやる。
 漆黒の鎧兜──歩兵用の物を騎兵用に改造したモリオン兜、無数の刀傷が残る胸甲──そして、焼かれた騎士の家紋が描かれたマント。

 その漆黒の軍装は、死出の旅路から生還したときに始まった。血と泥と煤に塗れ、誰が誰かもわからなくなるような、惨めな負け戦から。

 二十年前、ある戦争が起こった。不凍港獲得を目指す〈帝国〉と、海上貿易の利権の独占、及び西方交易路の安全を守ろうとした〈半島連合諸国〉との間に起きた、〈半島戦争〉。

 妻と出会ったのは、〈半島戦争〉初期の頃だった。戦火から逃れてきたユーリアの家族を保護したことが、戦後の結婚に繋がった。
 出会いこそ戦場だったが、妻は闘争とは無縁の人生を送ってきた。役人貴族の娘に生まれ、素晴らしい家族に恵まれ、愛情を一身に受け育った。神の依り代たる十字架を敬愛し、生まれ故郷である〈帝国〉に奉仕する、理想的な女性だった。

 そんな理想的な女であるユーリアと、自分はまるで違う。

 神も皇帝も国家もクソ喰らえ──俺は、本当はそんな男だ。

 数年に及ぶ戦争の末、〈帝国〉は〈半島連合諸国〉を軒並み滅ぼし、念願の不凍港を獲得した。下級の騎兵将校として従軍したマクシミリアンは、敵方に買収され、〈帝国〉を裏切った父を捕らえ、処刑した。

 そんなマクシミリアンの前に、燃える心臓の黒竜旗と、清き青骸布せいがいふをまとった少年は現れた。

 当時、父殺しという目的を達成し、戦争でそれなりの功績も手にしたマクシミリアンは、全能感にのぼせていた。オッリという唯一無二の戦友を得て、リーヴァ家という良き理解者も得て、確実に栄光の階段に足を掛けていた。
 唾棄すべき王侯貴族ども、無能な司祭ども、偉そうな騎士どもなど、怖くなかった。そして、こんな辛く苦しい人生を与えた神でさえも、殺せると信じて疑わなかった。

 何が皇帝だ。たまたま生まれた家がよかっただけの、ただのガキじゃないか──五歳も年下の、当時は二十歳にすらならぬ皇帝との謁見の直前まで、マクシミリアンは鼻で笑っていた。

 しかし、目が合った瞬間に、マクシミリアンは跪いていた。
 現れた少年、グスタフ三世と呼ばれる王に、マクシミリアンは自然に膝を折っていた。

 何もかもが、初めて知る感覚だった。
 一目見て、自分とは住む世界が違った。現れた少年王は、ずっと目の仇にし蔑んできたどんな王侯貴族とも、いや、どんな人間とも違った。
 生まれながらの王。生まれながらの英雄。そんな、歴史書の記述のような、おとぎ話でしか語られぬような男。

 結局、グスタフ三世と謁見したのは、その一度切りである。しかしその日を境に、人生は変わった。変わってしまった。あの男の前に、全ての夢は幻と消え去った。それは、死よりも恐ろしいことだった。

 野心はあった。自分は歴史に名を遺すと信じて疑わなかった。英雄にだってなりたかった。皇帝のように、みんなから畏怖され、慕われたかった。
 騎士殺し黒騎士──皇帝から贈られた二つ名は、今でも楔として、マクシミリアンを〈帝国〉に縛りつけている。そして、多くの貴族諸家から蔑視され、司祭たちから蛇蝎の如く忌み嫌われるその二つ名は、今もこうして生きている。

 皇帝を軍神と妄信する者もいる。もちろん、そんなわけはない。皇帝ですら、幾度も敗北は経験している。
 しかし、マクシミリアンは理解してしまっている──グスタフ三世という男は、限りなく神に近いと。
 〈帝国〉に毛ほども忠誠心のないオッリが、流浪の民だった頃の自由を知る極彩色の馬賊ハッカペルが、〈帝国〉に反逆しない理由は、それである。彼らは、本能的に理解しているのであろう。あの男には、何をしても敵わないと。

 本当に伝えたいこと──焼かれた騎士の紋章の意志。騎士殺しの黒騎士の名が歩んだ道。かつて叫んだ、『天も、地も、人も、全てに仇なし、悉くを焼き尽くす』という思い。
 妻のユーリアは、本当の意味でこの生き方を理解はしていないだろう。それでも、そんな男を、ユーリアは妻として受け入れてくれた。

 また、皇帝を称える声がこだまする。

 それを耳にするたび、マクシミリアンは戦場へと思いを馳せた。

 俺たちにいつまでも子供ができないのは、きっと俺がまだ子供だからだ──四十歳の中年にもなっても、未だに少年の夢想に取り憑かれた愚かな男。

 皇帝を称える声が、夜を覆う。

 同じようになれないのはわかっている──それでも、戦場でなら……。戦争さえあれば……。俺も、いつかきっと……。

 しかし、最後までその思いは書かなかった。
 マクシミリアンは手記を書き終えると、従者を呼んだ。
「妻へ送ってくれ」
 手渡した手記の表紙は、血の滲むような日々に汚れていた。
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