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第七章 開戦前夜

7-4 妻への手記  ……マクシミリアン

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 夜が訪れたというのに、幕舎は騒がしかった。

 自身の幕舎で繰り広げられる痴態を前に、マクシミリアンは眉を顰めた。妻ユーリアへの手記を書きたかったが、ペン先は全く進まなかった。

 クリスタルレイクでの開戦前夜、ようやく執務から解放されたと思った矢先、オッリが娼婦を連れてやってきた。この大男は、真冬だというのに、一糸まとわぬ姿で幕舎に現れるや否や、ひとしきり女を抱き、そして果てた。

「お前も抱くか?」
「帰れ」
「何だよ。たまには他の女だっていいだろ? どうせユーリアちゃんにはバレねぇよ」
 幕舎の隅にいる無口な影スーサイド・サイレンスを指差しながら、これ見よがしにオッリが笑う。
「そういう問題じゃねぇんだよ」
 手記のページをめくりながら、マクシミリアンはオッリの言葉をはねつけた。何か書くべく、ペン先をインク瓶に浸しはしたが、相変わらずペン先は進まなかった。

 事が済んでも、オッリは幕舎に居座り、娼婦と乳繰り合っていた。
 その娼婦に、マクシミリアンは違和感を感じた。
 女は、オッリが普段抱いているような、純粋無垢な少女や反抗的な女騎士とは違い、明らかに場慣れしていた。常に相手を蹂躙したがるオッリにしては、珍しい人選だと思った。
「従軍娼婦か? 教会遠征軍の捕虜じゃないなんて珍しいな。お気に入りの幼女はどうしたんだ?」
「お前がガキは犯すなとか言って、ヤンネの野郎に預けたんだろ」
「……そうだっけ?」
 呆れたように、オッリが溜息をつく。
 極彩色の馬賊ハッカペルが捕らえた女たちに関しては、ニクラスに管理を任せていたので、マクシミリアンも細かくは把握していなかった。それを伝えると、オッリは「痴呆か?」とまた溜息をついた。
「ところで、ヤンネはどうだ? 大丈夫そうか?」
「大丈夫だろ? クソ生意気だけど、あいつは俺のガキだからな」
 刹那、女に現を抜かしていた目が、光る。一切揺るがぬオッリの瞳が、暖房器ストーブの火を見る。
「心配すんなよ。もし戦が始まってもどうにもならねぇなら、俺が殺すから」
「……大丈夫じゃないだろ、それ」
 ブレないな──オッリの眼光を見て、マクシミリアンは苦笑した。
 この男は、どこまでも一貫している。たとえ一般人の常識から外れていても、一人の戦士として、ヤンネの父親であろうとするその生き様に、疑いの余地はなかった。
 子供のいないマクシミリアンには、本当には理解できていない父親としての姿が、少し羨ましかった。 

 しばらくの間、中身のない話が続いた。
 だが、気を遣われているのはわかった。連れてきた女も、二十代後半の、ふくよかで母性的な女であり、好みではあった。

 オッリは血に飢えた獣の類いではあるが、本物の狂人や化け物ではない。多くの者は知らないが、おかしいなりに、人間らしいところはある。そうでなければ、さすがにここまで長い付き合いにはならない。

 暖房器ストーブで燃える薪が、静かな夜を運んでくる。
 ようやく、幕舎の中が静かになる──かと思えば、今度は外が騒がしさを増し始めた。

 皇帝を称える声がこだまする──我らがグスタフ! 燃える心臓の男! 北限の峰の征服者! 〈帝国〉を勝利に導く真なる黒竜!

 咆哮する夜──戦の前の、あらゆる緊張が極限まで高まる、刹那の陶酔。

「そういや、皇帝が視察に来てんだろ? お前は顔出さなくていいのかよ?」
「陛下は現場の兵士たちと話したいのだ。俺が行っても仕方ない。一応、同行する軍司令部の奴らには、ニクラスを挨拶に出している。あいつはキャモランよりも好かれてるから、うまく口利きしてくれるはずだ」
「相変わらず、人付き合い悪ぃな。そんなんじゃ、そのうちニクラスの方が先に出世するかもな」
「そりゃそうだ。上の連中だって、使いやすい奴を重宝する。俺たちみたいな、家柄も人柄もクソみたいな奴は、死ぬまで現場でこき使われるんだよ」
 マクシミリアンは自虐のつもりで言ったが、オッリは何が面白かったのか、大笑いしていた。
「もう帰れ。明日は戦だ。お前がいると、気が散って遺言も書けん」
「……女なんてみんな一緒だって。ユーリアちゃんはもう諦めて、さっさと子供作れよ」
 娼婦を抱えながら、オッリがでかい溜息をつく。
 他の人間が言ったのなら、許し難い言葉だった。だがオッリには目は、ほんの少しの憐憫があった。ゆえに、聞き流した。
「じゃあな。早く寝ろよ」
「お前は俺の保護者かよ? お前こそ、死ぬ気のねぇ遺言書いたら寝ろよ」
 素っ裸の大男が立ち上がり、女に外套を羽織らせる。幕舎を出る直前まで、オッリは娼婦と乳繰り合っていた。

 オッリが去ると、マクシミリアンは妻への手記と向き合った。

 いよいよ、クリスタルレイクでの戦いが始まる。

 率直に言えば、不安だった。無傷で戦い抜ける可能性もなくはないが、今回は戦い抜けるのか? という危惧すらあった。

 相手の指揮官は、ボルボ平原で一蹴したヨハン・ロートリンゲンとはまるで違う。傭兵たちの王であり、皇帝の好敵手とさえ称されるヴァレンシュタインである。帝国軍による先制攻撃、〈黒い安息日ブラック・サバス〉を事実上頓挫させたのも、この男である。

 兵士たちの多くは、退却する教会遠征軍の反攻に驚いているが、状況を鑑みれば妥当だった。
 総勢五万の帝国軍に対し、敵は月盾騎士団ムーンシールズら敗残部隊を加え、総勢六万の数的優位を作っている。さらに、ヨハン・ロートリンゲンが死んだ噂が本当ならば、月盾騎士団ムーンシールズの士気は尋常ではないだろう。
 〈教会五大家〉のティリー卿が皇帝と通じており、さらなる増援の心配がないを除いても、帝国軍としては、場所も、時期も悪かった。
 王の回廊が開ける直前の、このネックを、是が非でも突破したいという〈帝国〉側の思惑、そして、決戦による決定的な勝利を求めるグスタフ帝の性格を見越したうえで、ヴァレンシュタインは挑んできている。
 〈帝国〉にとっては、国内を焦土化してまでの戦争である。生半可な勝利では、人々は納得しない。ゆえに帝国軍は、目に見える勝利を重ねなければならない。敗北はおろか、引き分けさえも許されはしない。
 もし会戦でこちらの士気が挫けた場合、キャモランのような日和見貴族や、講和派からの圧力が増すのも間違いない。そうなれば、いくらグスタフ帝が武闘派といえども、軍の足並みは確実に乱れる。中途半端に講和にでもなれば、戦争はしばらく中断されてしまう。

 机上を照らすロウソクが、ゆっくりと短くなっていく。

 手記を書く手は、思うように動かなかった。
 マクシミリアンは無口な影スーサイド・サイレンスから手渡された茶で一服すると、袖机に置かれた地図を見た。

 王の回廊の一帯。第三軍団は戦線右翼、クリスタルレイク西岸の側道を抑え、進軍する。
 要地である。他の戦線からはやや孤立した位置になり、援軍は当てにはできない。そしてそこを敵に抑えられた場合、帝国軍は王の回廊に陣取る主力の脇腹を、直に晒すことにもなる。

 黒騎兵オールブラックスの面々は信頼できる。副官のニクラスをはじめ、幕僚たちは己の役割を理解している。部隊長のアーランドンソンとイエロッテも、しっかりと部下を掌握できている。共に戦う六千の歩兵隊と砲兵隊も、歴戦であり、抜かりはないだろう。

 そして、第三軍団の最大戦力たる、極彩色の馬賊ハッカペル
 戦闘に突入さえしてしまえば、オッリと極彩色の馬賊ハッカペルは間違いなく活躍する。とはいえ、その力にムラがあるのも確かで、上官としては、できるだけそのムラを少なくしたかったが、今回は解決できないままだった。
 ヤンネには悪いことをしてしまった──部隊から外すとまで脅しをかけたものの、結局、日々の軍務に追われ、ヤンネにまでは気が回らなかった。
 オッリとヤンネ、二人の軋轢はなくなっていない。マクシミリアンの場合、父親との軋轢は、最終的にストロムブラード家の家督を巡る殺し合いに発展した。
 そんな親子の軋轢が、戦場において蟻の一穴になる可能性は否定できない。明日は、親子の見えざる繋がりに期待するしかない。

 だが、最も危惧すべきことは他にあった。
 それは、第三軍団を率いるキャモラン将軍である。あの男は、全くと言っていいほど信頼できない。あの男は、金でその官位を買っただけでなく、顔も出したがる悪癖があった。そして出しゃばるわりに、決断さえ下さないのである。
 実質的に指揮を執るのは、その部下のエイモット幕僚長であり、キャモラン自身はお飾りではある。とはいえ、これまでの経験から、ギリギリの戦いになったとき、真っ先に足を引っ張るのは間違いない。
 しかしその人事は、皇帝や軍司令部のお偉方が決めたことである。一介の騎兵隊長でしかない自分は、従う他になかった。

 ただ座っているだけなら、何もしない人形の方がマシだった。
 その点、〈教会〉は、単純な男たちの心理をうまく利用していると思った。実際に見たことはないが、教会遠征軍の旗印たる第六聖女セレンのような、若く美しい少女の方が、兵士たちの士気は上がる。

 そして〈教会〉の奴らは、その第六聖女を旗印に、押し寄せてくる。神の依り代たる十字架と、それを導く天使を、絶対の正義と唱えながら。

 天使の錦旗を手に、白銀の甲冑をまとう聖女。そして、それを守る〈教会〉の騎士たち──数多の絵画に描かれるその姿を思い出し、マクシミリアンは不快になった。

 咆哮する夜に耳を塞ぎ、マクシミリアンは殺意をたぎらせた。

 何が聖女だ。何が騎士だ──。
 まだ何者でもなかった頃、焼かれた騎士の家紋に誓った意志──『天も、地も、人も、全てに仇なし、悉くを焼き尽くす』──それが、俺の生き方だ。そして、これからも。

 妻ユーリアへの手記をめくる。ペン先は、ほとんど進んでいない。
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