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第七章 開戦前夜

7-6 欠けた月の夜  ……セレン

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 この世のものとは思えぬ光が、咆哮が、北の夜空を覆っている。

 眠れぬ夜に唐突に訪れた、眠らぬ夜。

 何もかもが、異様な夜景だった。熱を帯びる冬の風、光り輝くクリスタルレイクの氷雪、地上の光に色を失う欠けた月……。
 本来、夜は暗い。暗く、恐ろしい。大陸最大の人口を抱える〈教会〉の首都、教皇庁の宮廷都市群でさえ、街の灯りが夜を覆うことなどない。いくら人々が歌い騒ぎ、闇を照らそうとも、いつかは夜に落ちる。
 荒涼とした大陸北部の夜は、さらに暗かった。焦土と化した地に人影はなく、教会遠征軍の野営地は、どんなに篝火を焚いても孤立していた。遠くに見える北限の峰の稜線は、いつの夜もどす黒く塗り潰されており、薄気味悪かった。

 しかし今、敵陣から放たれるその光の奔流は、セレンの知るどんな光よりも眩しかった。

 皇帝を称える声が、遠吠えのように響く──我らがグスタフ! 燃える心臓の男! 北限の峰の征服者! 〈帝国〉を勝利に導く真なる黒竜!

 本陣の片隅から眺めるセレンと同じように、教会遠征軍の将兵の多くも、それらを眺めている。ある者は談笑しながら、ある者は酒を飲みながら、ある者は寝転がりながら……。

 殺し合う直前の、空白の

 この待っている時間というのは、耐え難かった。
 断続的な緊張は、不眠から来る疲労感に拍車をかけるが、それでも今夜は眠れそうになかった。

 異様な興奮状態にある帝国軍とは違い、教会遠征軍の野営地は穏やかではあったが、同時に緊張感も張り詰めている。決戦前の緊張だけではない。夜襲や暗殺などの不安も当然ある。
 それらが脳裏を過るたび、セレンは独り狼狽した。実戦を経たとはいえ、決して経験豊富ではない親衛隊の将兵も、同じように浮足立っている。普段は頼もしいレアでさえ、今夜は落ち着かぬ様子である。
 しかし、そんなセレンたちとは違い、将兵の多く、特にヴァレンシュタイン配下の将兵は、寛いでいるように見えた。この異様な夜ですら、まるで慣れた光景だとでもいうように。

 明日、死ぬかもしれぬというのに、なぜこうも落ち着いていられるのか。セレンにはまるで理解できなかった。
 今も思い出す、悪夢のような現実──戦いになれば、多くの者が死ぬ。ボルボ平原のような負け戦になれば、その犠牲はさらに増える。戦闘員でない侍女のイリーナですら、巻き込まれ死んだのだ。また凶刃が迫り来れば、今度こそ自分も死ぬかもしれない。
 それを思うと、神の依り代たる十字架に縋らずにはいられなかった──神よ、我らを助けたまえ。神よ、我らを守りたまえ──しかし、どれだけ祈りを重ねても、天啓は訪れなかった。

 〈教会七聖女〉の地位に祭り上げられたときから繰り返してきた、終わりなき問い──セレンが、最も真摯なる者と思われている所以ゆえん

 そんな煩悶を繰り返しつつ、セレンが咆哮する夜を眺めていると、夜の淵から、一人の月盾の騎士が現れる。
「セレン様も聞こえましたか? 冒涜者グスタフを称える、逆賊どもの声を」
 現れたミカエルが、優雅にマントを翻し、セレンの前に跪く。
「えぇ……。皇帝万歳と……。グスタフ帝は、随分と人気があるのですね」
 セレンの手に口づけしたミカエルが、立ち上がる。何か気になることがあるのか、腰に佩く古めかしい直剣に手をやる仕草は、非常に神経質に見える。
「あの恥知らずは、自らの野心のために神の依り代たる十字架を踏み躙り、臣民を誑かして〈教会〉との対立を煽り、そして〈黒い安息日ブラック・サバス〉という冒涜的殺戮を引き起こしました。そして自国を焼くことさえ厭わず、今も戦争を続けています。とてもじゃありませんが、称えられるような人間ではありません。人間の屑です」
 ミカエルの口から、流れるように罵詈雑言が飛び出す。そのあまりの口汚さに、セレンは面食らった。
「ミカエル様は、グスタフ帝とお会いしたことがあるのですか?」
「一度だけ。十年も前の話ですが……。当時はまだ束の間の和平が保たれていましたが、あの男は、父上ら〈教会五大家〉の面々との会談も露骨に退屈そうにし、何が気に入らないのか、酷く教皇庁を離れたがっていました。その後、〈帝国〉は平和など顧みず拡張政策を続け、今も大陸の覇権を狙っています。今思えば、すでに冒涜者の片鱗はあったわけです」
 また、口汚い言葉が、形容し難い憎悪が、夜に滲む。
「今の私があの場にいれば、手段を問わず、必ずや誅殺していたでしょうに……」
 そして、流れるように罵詈雑言を吐きつつ、ミカエルはセレンに向かって微笑んだ。しかし、苦虫を噛み潰したようなその笑みは、夜闇に陰り、不気味だった。

 あるときから、この人は変わってしまった。それは怖いと同時に、悲しくもあった。
 〈第六聖女遠征〉が始まる以前、その青い瞳は、澄んでいた。『高貴なる道、高貴なる勝利者』という、ロートリンゲン家の家訓モットーを重んじ、体現する、理想的な〈教会〉の騎士だった。
 しかし今、その青い瞳は、ずっと燃えている。その瞳の色は、神に縋ることしか知らぬ民草のそれに似ていた。
 そもそも彼は、父であるヨハン・ロートリンゲン元帥と同じく、決して口数の多い人ではなかった。気品ある見た目とは裏腹に、その立ち振る舞いは無骨とさえ言えた。しかし今は、全ての所作が別人のように仰々しい。言葉使いも、弟のアンダースに似てきている。

「しかし、神はこうして機会を与えてくれました。父の仇を討ち、正義の戦いを貫き、祖国に勝利をもたらすための、千載一遇の機会です」

 温かく、力強く、雄々しかった月盾の長たる男の姿──この雪荒ぶ戦場で抱いた、一筋の希望の道──しかし今、その面影はない。

 そして、何の前触れもなく、ミカエルがまた跪く。
「明日、我らは必ずや帝国軍に打ち勝ち、貴女に勝利を届けます。そのために、遠征軍のみなに祝福をお願いします。貴女の祈り、我らの信仰心は、必ずや〈神の奇跡ソウル・ライク〉を顕在させ、悪しき〈帝国〉を、冒涜者グスタフを滅ぼし、〈教会〉に不滅の栄光をもたらすでしょう」
 雄弁に語るミカエルが、セレンの手に口づけする。光の奔流を見据えるその青い瞳は、やはり爛々と燃えている。

 変わってしまったミカエルに、セレンは困ってしまった──その信仰心、忠誠心に、偽りはない。だが、彼は知っているのだろうか? 吟遊詩人や劇作家が好き勝手に語る、もはやおとぎ話となった〈神の奇跡ソウル・ライク〉の真実を……。

 〈教会七聖女〉ならば、全員が嫌でも知る真実。〈神の奇跡ソウル・ライク〉が秘匿されし大魔法とされる、本当の理由。

 ──それは、殉教の魔法だからだ。

 古の〈教会七聖女〉は、文字通りその身を生贄に、〈東からの災厄タタール〉を、〈東の王プレスター・ジョン〉を退けた。燃え盛る業火は、荒れ狂う濁流は、空を裂く轟雷は、様々な救国のわざは、古き七人の少女たちの犠牲によって顕在したのだ。そして、無知な乙女の犠牲だけで顕在するその力があまりに強大過ぎるがゆえに、〈教会〉は自身が滅ぼされぬよう、その全てを秘匿とした。

 しかし、神の代理人たる教皇猊下や、高名な大司教たちが、その末路を語ることはない。そしてこう言うのだ──「乙女たちよ。祈り賜え」と。
 疑問を挟む余地はない。そしてこう続ける──「その祈りが、その信仰心が、いつか必ず〈神の奇跡ソウル・ライク〉を呼び、人々を救うのだ」と。

 だが、自分は何もできない。
 聖女と呼ばれはするが、何か特別な力があるわけではない。軍を指揮できるわけでもないし、剣を振るって戦えるわけでもない。国政を動かす権力があるわけでもなければ、神について探究できるだけの学識もない。ましてや、古き伝承に語られるような、超常的な魔法の力などあるわけもない。
「私は、ミカエル様のように強くはなれません……。その覚悟すらも……」
 自嘲気味に呟いた言葉は、しかしミカエルには聞こえていないようだった。ただ、その横にいるレアは、少しだけ悲しそうな顔をしていた。

 この祈りは、誰のためにあるのか……。私は、私たちは、何をなすべきなのか……。セレンには、未だにわからなかった。

 セレンは夜空を見上げた。色を失う欠けた月は何も語らず、ただひたすらに静かだった。

 やがて夜のとばりは落ち、白き闇が訪れる。
 そして始まる──クリスタルレイクの戦いが。
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