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第五章 強き北風の再起

5-5 殺し合う親と子  ……ヤンネ

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 吹雪く夜風のせいだろうか、振り抜いたサーベルは、しばらく震えていた。

 親子の殺意が、夜闇に触れ合う。

 強き北風ノーサー──有無を言わさぬ圧倒的な殺意が、ヤンネの全身を刺す。

 父の横暴と凶行は、いつものことといえばそれまでだった。普段なら、苛立ちこそすれ、自分には関係ないと放っておく。しかし今日は、体が勝手に動いていた。
 別に、キャモラン軍団長を助けようと思ったわけではない。嫌いだし、嫌な人だし、助けるに値するような人間でもない。
 それでも、軍の上官である。軍人である以上は、従わねばならない。ストロムブラード隊長だって、心を押し殺して頭を下げている。にも関わらず、そんな周りの気持ちなど一切考えず、慣例を無視し、好き勝手に暴れる父の存在を、今夜は許せなかった。
「軍団長! 早く逃げて!」
 背後で泣き喚く情けない悲鳴が、夜風の隅へと消えていく。キャモラン軍団長とその取り巻きが、尻尾を巻いて逃げていく。

 夜が、冬の風が、冷えていく。

 その間も、ヤンネは目の前の狂獣からは目を離さなかった。

 血走った目をひん剥き、熊のような髭面を歪め、全裸で屹立する大男──眼前に、雪の中に、父が屹立する。

 体中に迸る古傷が、その歴戦を物語る。
 体中に彫られた刺青いれずみが、その生き様を物語る。

 こと対人戦闘において、父オッリに敵う者はそうそういない。それは息子であるヤンネ自身が最もよく理解している。
 覆し難い彼我の差。しかし、十字架を犯す冒涜的な刺青いれずみを見るたびに、ヤンネの心は怒りで打ち震えた。

 〈神の依り代たる十字架〉を信じぬだけでなく、それを冒涜し嘲笑うチンピラ──父の存在のせいで、どれだけ馬鹿にされ、無下にされたことか。どれだけの苦痛を味わい、どれだけの辛酸を舐めたかことか──それを思い出すたび、殺意で心が燃える。

 極彩色の馬賊ハッカペルの戦士は、成年とともに体に刺青いれずみを刻む。それは戦士の証であり、騎馬民の矜持であり、先祖たる〈東の王プレスター・ジョン〉に捧げる生き方である──少なくとも、父はそう信じている。

 厚手のバフコートの下、ヤンネの体にも、その刺青いれずみは彫られている。
 そんなもの、本当はやりたくなかった。しかし父や年長者からは、部族の伝統だと強制された。
 三年前、十二歳の成年を迎え、その現実を突きつけられたとき、ヤンネは育ての親でもあるストロムブラード隊長夫妻に泣きつき、助けを求めた。
 夫妻の間でも、意見は分かれた。
 隊長は、自由意志を尊重するべきと父に提言したものの、強硬に反対もしなかった。ユーリア夫人レディ・ユーリアは、最後まで反対し、ヤンネに味方してくれた。しかし、実質的な育ての親であるにも関わらず、最終的には部外者扱いされた。
 結局、ヤンネの嘆願も虚しく、刺青いれずみは刻まれた。
 事が済んだあと、父は一人前になったと喜んでいた。その友人であるストロムブラード隊長は、自らの無力を詫び、しばらく気遣ってくれた。その妻であるユーリア夫人レディ・ユーリアは、ただ受け止めてくれた。

 大人になったその日から、涙は捨てた。そして、ただ前だけを向くようにした。

 そして今、目の前には父がいる。
 憎んでも憎んでも憎んでも、どんなに憎んでも、前に立ち塞がる壁。しかし、体格ではもう劣っていない。剣の腕も、弓の腕も、馬術だって負けていない。それに今回、父は病み上がりである。どんなに強かろうと、傷を負い、二週間近く寝ていた相手である。感覚は鈍っているはず──きっと勝てる。そして、殺せる。

 背中の傷──あの父に傷を負わせた騎士は、きっと凄い奴に違いない。父に傷をつけたとされる月盾騎士団ムーンシールズの若き月盾の長、ミカエル・ロートリンゲンという男に対し、漠然と、そんなことを思った。

 白い風が、視界を覆う。しかし、互いの殺意が交錯するたび、狂獣はその輪郭を色濃くする。

 言葉はなかった。唐突に、父は落ちていた剣を拾い上げた。そして間髪入れずに突っ込んできた。
 一糸まとわぬ全裸の大男が、殺意の塊となって襲い来る。
 強き北風ノーサー──それがすぐ横を吹き抜ける。触れたサーベルは、震えている。
 気圧されるな──サーベルを握り直し、踏み込む。剣身がぶつかり合い、暗闇に火花が散る。
 打ち合う。殺意の風圧が、その重みを増し、吹き荒れる。しかし、その切っ先は捉えている。体の動きも追えている。殺意の渦の本流は見えている。
 ならば、対応できている。ヤンネは上から斬り下ろす構えを見せたうえで、足下の雪を蹴り上げた。
 雪の塊が、父の顔面で弾ける。父が得意とする、目眩ましの小細工である。
 瞬間、父の懐に空白が生まれる。その空白を、サーベルで薙ぐ。
 また、剣撃が響く。態勢を崩してなお、父はこちらの攻撃を防ぐ。
 もう一度、ヤンネは体重を乗せ、薙いだ。
 音が弾ける。父の手から、剣が抜け落ちる。
 父の体が、雪原を転がる。その巨体が態勢を立て直す前に、ヤンネは跳びかかり、サーベルを突き刺した。

 白い風に、血が流れた。

 しかし、浅い。

 動きが止まる。心臓に突き立てたサーベルの剣先は、しかし何物も貫くことなく、止まってしまった。
 ヤンネの眼下で、父は笑っていた。雪上に倒れる父は、サーベルの刀身を素手で握っていた。
 ヤンネは殺意の赴くまま、吼えた。
 さらに体重を乗せ、力を籠め、そのまま突き刺そうと試みる。しかし、指の肉が少し喰い込み、少しの血が垂れ落ちるばかりで、サーベルはびくともしなかった。

 一瞬の膠着。そしてヤンネが次の一手を考え終わる前に、痛烈な痛みが襲い来る。

 股間を蹴り飛ばされる。思わぬ攻撃に、均衡が崩れる。続け様、顎に放たれた頭突きが、頭を揺らす。
 そこからは、よく知る感覚だった。
 一方的な暴力が、全身を蹂躙する。厚手のバフコート越しにも伝わる、圧倒的な拳が腹を抉る。何発も放たれる拳に、今度は逆にヤンネが雪上に倒される。
 殴られるのは、慣れている。だから、どんなに痛くても耐えられる。しかし普段と違って、その拳には明確な殺意があった。その殺意は、少しだけ怖かった。

 どれほどのときが経ったのか。どれほどのときを殴られていたのか──唐突に、銃声が吹雪を裂いた。

 親子は、同じ方向を見ていた。
 恐らく、この場にいた誰もが、同じ方向を見た。夜の淵、銃声の先には、歯輪式拳銃ホイールロックピストルを持った騎士殺しの黒騎士がいた。
「気は済んだか?」
 ストロムブラード隊長が、こちらに近づいてくる。父の背後には、隊長の護衛である無口な影スーサイド・サイレンスも潜んでいる。
「あ!? 何だ!?」
 立ち上がり怒鳴る父を、無口な影スーサイド・サイレンスが羽交い絞めにする。黒いローブの奥の眼光、目にも止まらぬその動きは、やはり暗殺者のそれである。拘束を解こうと父がもがいても、ピクリとも動かない。
「気は済んだかと訊いている」
 もう一度、黒騎士は訊ねた。
 地面に蹲るヤンネの位置からでは、その表情は見えなかった。しかし父は何も言わず、悪態さえつくことなく、そのまま連行されていった。

 野営地から喧騒が消えていく。吹雪さえもが、その風の音を止める。

 痛めつけられ、地に取り残されたヤンネの元に、足音が近づいてくる。視線を上げると、そこには黒騎士の影があった。
 体を苛む痛みと緊張が、不意に和らぐ──この人は、いつでも味方だ。父の暴力と母の無関心によって育てられてきたヤンネや弟妹たちに、ストロムブラード隊長とその妻であるユーリア夫人レディ・ユーリアは、いつも手を差し伸べてくれた。
 ヤンネは痛みを堪え、隊長の名を呼んだ。
「下手なことしやがって。今すぐ俺の前から消えろバカ」
 しかしストロムブラード隊長は、一瞥だけくれると、すぐに背を向けてしまった。
 もう一度、ヤンネは縋るように、隊長の名を呼んだ。
 その瞬間、乱暴に胸倉を掴み上げられた。
 対面する黒い瞳が、どろりと澱む。薄っすらと篝火に照らし出された黒騎士の顔は、恐ろしいほどに無表情だった。
 背筋に悪寒が走る。何の温もりも感じさせない養父の顔に、安堵感は消し飛んでいる。

「オッリを殺したいお前の気持ちは、よくわかる。だがオッリにもしものことがあったら、俺がお前を殺す」

 それだけ言うと、ストロムブラード隊長はヤンネを地面に突き放し、そして夜闇へと消えていった。

 痛みが、再び湧き上がる。群がっていた人影は徐々に消え、雪の白だけが夜に残る。

 遠退く意識の隅で、ヤンネは同じように捨て置かれた、簀巻きの少女を見た。

 その娘も、自分も、ただただ惨めだった。

 何かが、頬を伝った。どこからか流れ出る血が、雪原に黒く滲んだ。
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