パドックで会いましょう

櫻井音衣

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最後の願い

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「あの時な……あの子のお腹には、俺ら二人の子供がおった……。生まれてくる子供のためにも親父を説得して、ちゃんと籍入れようて言うてた矢先のことや。俺は事故に遭っても手足骨折した程度で済んだけど、あとから人に聞いた話によると、あの子は頭をつよう打ってな……なかなか意識が戻らんかったそうや」
「おじさん……その話は誰から?」
「ああ……。あの子と幼馴染みで仲良かった教え子がおってな。退院したあとの様子を教えてくれたんや」

間違いない。
その教え子は先輩だ。

「あの子は俺のことは忘れてしまったんやって、言うてたな……。俺と一緒になろうて約束したことも、二人で逃げたことも、お腹に二人の子供がおったことも……なんにも覚えてなかったんや」

おじさんは少し声を震わせ、うつむいて唇を噛んだ。

「それから、あの子の亡くなった母親の妹やって言う人が俺の所に来てな……。『もうあの子には関わらんといて欲しい』て言われた。当然やな。逃げ出す前に親父から散々虐待されてたし、『体売って金稼げ』て言われてたから、一緒に暮らされへんように面倒見てやって欲しいって言うたら、その人は家庭の事情があって引き取れん言うてな……」

父親に虐待されていたことはねえさん本人から聞いていたけれど、まだ子供だったねえさんが周りの大人に助けを求めることも、そこから逃げることもできずどんなにつらかっただろうと、切り裂かれるように胸が痛んだ。

「そのあと、おじさんは彼女には会ったんですか?」

僕が尋ねると、おじさんはうつむいて、布団の端を強く握りしめた。

「会えんかった……いや、会いに行けんかったんや……」
「どうしてですか?」
「俺があの子を連れて逃げてから、俺の身内の所にヤクザみたいなやつが訪ねてきて、脅されたんやって……母親に聞かされた……」

おじさんは僕に背を向けて、目元をそっと拭った。
その肩が小刻みに震えていた。

「俺には少し歳の離れた弟も妹もおってな……あいつらの未来を潰すことはできんかった……。父親は職場にまでヤクザに押し掛けられて、長年真面目に勤めた会社をクビになって……これ以上俺があの子に関わったら、家族をもっとひどい目に合わせるって脅されたんや。俺のせいで家族にまで命を危険にさらすような迷惑をかけてしまった……。せやのに、あの子のことを最後まで守ってやることもできんかった……」

ねえさんを守るためとは言え、家族を危険に巻き込み、当時まだ15歳だったねえさんを連れて逃げたことや、ねえさんが妊娠していたことで警察沙汰にもなり、世間体を悪くしてしまった罪悪感で、その後おじさんは家族とは疎遠になったそうだ。
教師としての職を失ったおじさんは、日雇い労働の仕事や、過去の経歴を重視されない職場などを探して、その日暮らしの日々を送って来たらしい。

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