パドックで会いましょう

櫻井音衣

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最後の願い

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ねえさんとの駆け落ち騒動から随分月日が流れて、ほとぼりがさめた数年前。
おじさんはもう一度あの頃の夢を見たくて、ここに戻ってきたと言った。

「あの子が中学卒業するほんの少し前にな……夜に二人でうてる時に、競馬場の前を通ったんや。そしたらあの子が、『馬が目の前で走るの見てみたい』言うてな……。『ほなもうすぐ桜花賞あるから一緒に行こか』言うて……一緒に桜花賞観に行く約束したんやけどな……」

結局、約束した桜花賞の日の2日前に駆け落ちしたことで、桜花賞を観に行く約束は果たされなかったそうだ。

「『競馬場にはパドックって言う所があってな、これからレース走る馬をすぐ目の前で観る事ができるんやで』って教えたら、『ほな、もしはぐれた時はパドックで待ってるわ』って、あの子が言うたんや。そんなことを思い出してな……。ここに戻って落ち着いた頃、競馬場に行ったら、パドックにあの子がおった……。俺のことは忘れてしもてんのに、あの子はパドックで待ってたんや」

おじさんの目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
肩を震わせて、声を殺してむせび泣くおじさんの背中を、僕はたださすってあげることしかできなかった。

ああ……だからなのか。
ねえさんはいつも、パドックにいた。
日曜の朝、僕が競馬場に行くと、馬がいようがいまいが、ねえさんは必ずパドックにいた。
覚えていないはずのおじさんを待っていたのかも知れない。

何度顔を合わせても、かつて将来を誓い合ったはずの先生を思い出すことのないねえさんに、おじさんは正体を明かさなかった。
愛し合った日のことは覚えていなくても、競馬場にいるその時だけは過去も何もかも忘れて、ただの競馬好きの『おっちゃん』と『おねーちゃん』でいることで、二人は繋がっていられたんだ。
ただそこにいて笑ってくれることが救いだったと、おじさんは涙を流しながら言った。

「なあ、アンチャン……。最後にひとつだけ、お願いがあるねん」
「……なんですか?」

おじさんは部屋の片隅の引き出しから、小さな箱を取り出した。

「これな……あの子に……おねーちゃんに渡してくれへんか?」

小さな箱の中には、指輪が入っていた。

「おじさん……これ……」
「安もんやけどな……事故に遭う直前にうたもんや。それまで幸せなことなんかなかったあの子に、せめて幸せな未来の夢を、俺の手で与えてやりたかった……」

事故に遭った時に手元に持っていたのか、ベルベット調の深紅の箱には、少しひしゃげた跡が残っている。

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