パドックで会いましょう

櫻井音衣

文字の大きさ
上 下
52 / 60
最後の願い

しおりを挟む
ねえさんとの駆け落ち騒動から随分月日が流れて、ほとぼりがさめた数年前。
おじさんはもう一度あの頃の夢を見たくて、ここに戻ってきたと言った。

「あの子が中学卒業するほんの少し前にな……夜に二人でうてる時に、競馬場の前を通ったんや。そしたらあの子が、『馬が目の前で走るの見てみたい』言うてな……。『ほなもうすぐ桜花賞あるから一緒に行こか』言うて……一緒に桜花賞観に行く約束したんやけどな……」

結局、約束した桜花賞の日の2日前に駆け落ちしたことで、桜花賞を観に行く約束は果たされなかったそうだ。

「『競馬場にはパドックって言う所があってな、これからレース走る馬をすぐ目の前で観る事ができるんやで』って教えたら、『ほな、もしはぐれた時はパドックで待ってるわ』って、あの子が言うたんや。そんなことを思い出してな……。ここに戻って落ち着いた頃、競馬場に行ったら、パドックにあの子がおった……。俺のことは忘れてしもてんのに、あの子はパドックで待ってたんや」

おじさんの目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
肩を震わせて、声を殺してむせび泣くおじさんの背中を、僕はたださすってあげることしかできなかった。

ああ……だからなのか。
ねえさんはいつも、パドックにいた。
日曜の朝、僕が競馬場に行くと、馬がいようがいまいが、ねえさんは必ずパドックにいた。
覚えていないはずのおじさんを待っていたのかも知れない。

何度顔を合わせても、かつて将来を誓い合ったはずの先生を思い出すことのないねえさんに、おじさんは正体を明かさなかった。
愛し合った日のことは覚えていなくても、競馬場にいるその時だけは過去も何もかも忘れて、ただの競馬好きの『おっちゃん』と『おねーちゃん』でいることで、二人は繋がっていられたんだ。
ただそこにいて笑ってくれることが救いだったと、おじさんは涙を流しながら言った。

「なあ、アンチャン……。最後にひとつだけ、お願いがあるねん」
「……なんですか?」

おじさんは部屋の片隅の引き出しから、小さな箱を取り出した。

「これな……あの子に……おねーちゃんに渡してくれへんか?」

小さな箱の中には、指輪が入っていた。

「おじさん……これ……」
「安もんやけどな……事故に遭う直前にうたもんや。それまで幸せなことなんかなかったあの子に、せめて幸せな未来の夢を、俺の手で与えてやりたかった……」

事故に遭った時に手元に持っていたのか、ベルベット調の深紅の箱には、少しひしゃげた跡が残っている。

しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?

すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。 「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」 家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。 「私は母親じゃない・・・!」 そう言って家を飛び出した。 夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。 「何があった?送ってく。」 それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。 「俺と・・・結婚してほしい。」 「!?」 突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。 かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。 そんな彼に、私は想いを返したい。 「俺に・・・全てを見せて。」 苦手意識の強かった『営み』。 彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。 「いあぁぁぁっ・・!!」 「感じやすいんだな・・・。」 ※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。 ※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。 ※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。 ※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。 それではお楽しみください。すずなり。

病気になって芸能界から消えたアイドル。退院し、復学先の高校には昔の仕事仲間が居たけれど、彼女は俺だと気付かない

月島日向
ライト文芸
俺、日生遼、本名、竹中祐は2年前に病に倒れた。 人気絶頂だった『Cherry’s』のリーダーをやめた。 2年間の闘病生活に一区切りし、久しぶりに高校に通うことになった。けど、誰も俺の事を元アイドルだとは思わない。薬で細くなった手足。そんな細身の体にアンバランスなムーンフェイス(薬の副作用で顔だけが大きくなる事) 。 誰も俺に気付いてはくれない。そう。 2年間、連絡をくれ続け、俺が無視してきた彼女さえも。 もう、全部どうでもよく感じた。

【取り下げ予定】愛されない妃ですので。

ごろごろみかん。
恋愛
王妃になんて、望んでなったわけではない。 国王夫妻のリュシアンとミレーゼの関係は冷えきっていた。 「僕はきみを愛していない」 はっきりそう告げた彼は、ミレーゼ以外の女性を抱き、愛を囁いた。 『お飾り王妃』の名を戴くミレーゼだが、ある日彼女は側妃たちの諍いに巻き込まれ、命を落としてしまう。 (ああ、私の人生ってなんだったんだろう──?) そう思って人生に終止符を打ったミレーゼだったが、気がつくと結婚前に戻っていた。 しかも、別の人間になっている? なぜか見知らぬ伯爵令嬢になってしまったミレーゼだが、彼女は決意する。新たな人生、今度はリュシアンに関わることなく、平凡で優しい幸せを掴もう、と。 *年齢制限を18→15に変更しました。

セーラー服美人女子高生 ライバル同士の一騎討ち

ヒロワークス
ライト文芸
女子高の2年生まで校内一の美女でスポーツも万能だった立花美帆。しかし、3年生になってすぐ、同じ学年に、美帆と並ぶほどの美女でスポーツも万能な逢沢真凛が転校してきた。 クラスは、隣りだったが、春のスポーツ大会と夏の水泳大会でライバル関係が芽生える。 それに加えて、美帆と真凛は、隣りの男子校の俊介に恋をし、どちらが俊介と付き合えるかを競う恋敵でもあった。 そして、秋の体育祭では、美帆と真凛が走り高跳びや100メートル走、騎馬戦で対決! その結果、放課後の体育館で一騎討ちをすることに。

宇宙との交信

三谷朱花
ライト文芸
”みはる”は、宇宙人と交信している。 壮大な機械……ではなく、スマホで。 「M1の会合に行く?」という謎のメールを貰ったのをきっかけに、“宇宙人”と名乗る相手との交信が始まった。 もとい、”宇宙人”への八つ当たりが始まった。 ※毎日14時に公開します。

サディスティックなプリテンダー

櫻井音衣
恋愛
容姿端麗、頭脳明晰。 6か国語を巧みに操る帰国子女で 所作の美しさから育ちの良さが窺える、 若くして出世した超エリート。 仕事に関しては細かく厳しい、デキる上司。 それなのに 社内でその人はこう呼ばれている。 『この上なく残念な上司』と。

お飾りの侯爵夫人

悠木矢彩
恋愛
今宵もあの方は帰ってきてくださらない… フリーアイコン あままつ様のを使用させて頂いています。

季節外れのサクラの樹に、嘘偽りの花が咲く

櫻井音衣
恋愛
──結婚式の直前に捨てられ 部屋を追い出されたと言うのに どうして私はこんなにも 平然としていられるんだろう── ~*~*~*~*~*~*~*~*~ 堀田 朱里(ホッタ アカリ)は 結婚式の1週間前に 同棲中の婚約者・壮介(ソウスケ)から 突然別れを告げられる。 『挙式直前に捨てられるなんて有り得ない!!』 世間体を気にする朱里は 結婚延期の偽装を決意。 親切なバーのマスター 梶原 早苗(カジワラ サナエ)の紹介で サクラの依頼をしに訪れた 佐倉代行サービスの事務所で、 朱里は思いがけない人物と再会する。 椎名 順平(シイナ ジュンペイ)、 かつて朱里が捨てた男。 しかし順平は昔とは随分変わっていて……。 朱里が順平の前から黙って姿を消したのは、 重くて深い理由があった。 ~*~*~*~*~*~*~*~ 嘘という名の いつ沈むかも知れない泥舟で 私は世間という荒れた大海原を進む。 いつ沈むかも知れない泥舟を守れるのは 私しかいない。 こんな状況下でも、私は生きてる。

処理中です...