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後編

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 もはや手段を選んではいられない。
 打たれた体が痛む。大事に育てられてきたハインリヒは、すぐに治療しなければという焦燥にかられていた。

 そして早く、やわらかなベッドで休むのだ。

(この館のことならよく知っている。ふん、これこそ私が私であることの証明ではないか!)

 深夜にそっと帰宅するとき、何度も通った抜け道だ。昼間ならば警備に必ず見つかるだろうが、この闇の中、手探りで進めるのは自分だけだろう。

(待っていろ、リアンヌ)

 あの小賢しい妻を求めるなど、こんな日が来るとは思わなかった。
 だがあの女にさえ会えば、こんな悪夢は終わるのだ。母も正気に戻るだろう。

 リアンヌは気に食わない女で、もちろん二人は恋愛結婚などではない。
 だが、彼女はハインリヒの気を引こうとしていた。
 誕生日には丁寧なだけで面白みのない刺繍のハンカチを渡してきたし、折に触れて傍にいようとしていた。
 それを気味悪く思っていたものだが、今ならば許してやってもいい。

(さあ、愛する夫の帰宅だぞ!)
 使用人の姿を避けながら進んでいく。
 彼らもハインリヒの顔を覚えているかもしれないが、残念ながらハインリヒは彼らの顔を覚えていなかった。新しく入った者かもしれない。

 この姿ではすぐに排除されるだろう。すでに学んだ。
 ハインリヒは慎重に、暗い廊下を選んで進む。この屋敷で育ったのだから、闇の中でも迷うはずがなかった。

 そしてハインリヒは、ついに妻の寝室に辿り着いた。
 すでに侍女も自室に引っ込んでいる時間だ。それでも扉に耳をあて、会話が聞こえてこないことを確認してから扉を開いた。

「リアンヌ!」
「……っ!」

 寝台の脇の文机で、彼女は書き物をしていたようだった。
 驚きの表情を浮かべ、腰を浮かせる。年を取った。けれども、平民の女とは違う、傷のない美しさを変わらず持ち合わせていた。

「わ、私だ!」
 リアンヌが声をあげかけたのを察して、ハインリヒは急いで言った。
 そのまま部屋に入って扉を閉める。

 リアンヌは後ずさり、逃げ場を探すように部屋を見回した。
「帰ってきたのだ! わかるだろう、ハインリヒだ。君の夫だ。戻るべきところへ戻ってきたんだ!」

「……」
「長く留守にしたが、私が帰ってきたからには安心だ。苦労しただろう、たかが女の身で領主代理など……」
 優しい言葉をかければ、きっと感謝して、歓迎してくれるに違いない。
「これからは私が君と、この領地を守っていこう!」

「……」
「……リアンヌ? わかるだろう、私だ」
 彼女は反応しない。
 警戒をゆるめない。

 それどころか手を伸ばして、ペーパーナイフを握った。
「リ、リアンヌ、私だ。まさか夫の顔を忘れはするまい……」

 ハインリヒは慌てて伸びっぱなしの髪を撫で付け、顔がよく見えるようにしたが、リアンヌは変わらない。
 笑って「おかえりなさい」と言ってくれない。

 ただ強張った固い表情で、ハインリヒを見ている。
 ペーパーナイフを強く握った。

「リアンヌ……」
「盗人。出ていきなさい」
「リアンヌ! 私だ! ハインリヒなんだ!」

 悲鳴のように声をあげてしまい、ハインリヒは口をつぐんだ。夜の館に声が響く。だめだ。

「人を呼びます」
「やめてくれ……本当に、本当なんだ、ハインリヒだ。君の夫だ」
 リアンヌはわずかに眉を潜めた。

「……では、私の誕生日を言ってみなさい」
「えっ?」
「知るわけがないわね。さあ、出ていきなさい。そう長くは待ちませんよ」

「た、誕生日は……」
 いつだ?
 いつだった。
 結婚してすぐの頃、両親が贈り物をしていたのを覚えている。

(あの日は……あの日は……まだ暑い……)
 たったそれだけの情報で、日付までわかるものか。

(考えろ! 私は何をしていたんだ。私は……そうだ、腹を立てていた。母上が私の誕生日よりたくさんの花を部屋に飾ったんだ!)
 その日の怒りを思い出して目眩がした。
 母は息子の顔がわからなかった。

(私が文句を言うと母は苦笑して「本来なら、おまえがすべきことですよ」と言った)
 何をだ?

「さあ!」
「ヒッ!」

 答えは見つからないまま、ペーパーナイフを持った妻が目の前にいた。
 その刃先が頬に当てられている。

「……出ていかないならこのまま」
「や、やめろっ! おまえの夫だ! 私だ! 領主だぞ! そんなことが許されるものか!」
「ご自分の立場を理解していらっしゃらないのね。侯爵家に忍び込んだ平民を始末したところで、何の問題にもならないのに」

 血の気が引いた。
 小さな頃、ハインリヒはまさにこの館に忍び込んだ平民を見たことがある。金品が目当てであったその男は、使用人達によってたかって殴られ、蹴られ、放り出された。
 父の「領民の困窮は私の責任である」という言葉で、命まで奪われなかった。

 ハインリヒは(あんな汚い平民、殺してしまえばいいのに)と思った。

 そして今は自分がその、不法に館に侵入した平民なのだ。

「ちが……ちがう、私は……」
「早く逃げた方がいいわよ。ほら……」

 かつ、と足音がした。
「人が来るわ」

「うっ、ああ、あああ!」

 処刑人の足音に悲鳴をあげ、ハインリヒは部屋を飛び出し、廊下を走った。

「なっ!?」

 ぶつかりそうになった使用人が声をあげる。
「ひぃっ!」
 捕まればどうなるかはわかっている。ハインリヒは必死で逃げた。逃げた。逃げるのだ。

 なんでもいい、生き延びたかった。
 ここは恐ろしい。
 誰もが自分をゴミのように見ている。
 アンジェとの、小さく狭い家に帰りたかった。
 





「侵入者だ!」
「捕まえろ!」

 遠くから声が聞こえる。
 あれだけ大きな声をあげて逃げては、見咎められて当然だろう。

 リアンヌは息を吐き、がちがちに固まった手を開いて、ペーパーナイフを机に置いた。
(どこから入ったのかしら。警備の見直しが必要ね……)
 それから部屋割も、がらりと変えてしまった方がいいかもしれない。

 なんといっても彼はこの館で育ったのだから、当たり前に、この館のことを良く知っている。
(子供達を守らなければ)

 彼は本来この家の主であり、子供達の父親だ。
 追い出してしまった形に申し訳無さはある。

 けれどハインリヒとは、リアンヌなりに努力して、上手くやっていこうとして、受け入れられなかった。
 捨てたのはリアンヌではなく、ハインリヒなのだ。

(いまさら戻られても困るわ……)
 かわいい息子達には、父は立派な領主であったと教えている。幻の父の背中を追い、兄弟仲良く、領主の家の息子としての自覚も育ってきているのだ。

(アンジェに渡す生活費を増やそうかしら)

 実のところリアンヌはハインリヒの居所も、アンジェと暮らしていることも知っていた。
 アンジェは最初、金を受け取らなかったが「戻ってこられても困るので」と伝えたところ、苦笑して受け取ってくれたそうだ。

 思いの外、アンジェとハインリヒは長く一緒にいる。
 愛があるかは知らないが、きっと馬が合うのだろう。そしてハインリヒは自堕落な生活ができ、生活費がもらえるアンジェにも損はないはずだ。

(でもあまり裕福にするわけにもいかない。あの人にも友人くらいいたのだから、行動半径は広くない方がいい)

 貴族と平民が関わることはめったにない。
 だがもし話をしてしまったら、さすがに気づかれる可能性がある。彼には貴族が決して近づかないような、貧しい平民でいてもらうべきだ。

(……それより、避妊薬を渡すのをやめた方がいい?)

 ただの平民として家庭をつくって生きてもらう。その方がいいかもしれない。
 息子がある程度育つまではと思い、また、アンジェも不安定な身で子を生むのは不安があったらしく、喜んで避妊薬を受け取ってくれていた。

(子供が出来たら生活費を増やしましょう。そうね。それがいいわ)
 
 ふう、と息をついた。
 本当は消えてもらうのが一番なのだけれど、そこまでひどい女にはなれない。

「お母様」
「あら。……目が覚めてしまったのね」
 扉を開けて顔を出したのは、かわいい二人息子の片割れだ。
「なにか、あったのですか?」

「……ちょっと予定外のお客様がいたの。もうお帰りになったわ」
 と、息子が顔をしかめた。
「それって、平民ですか?」
「どうして?」
「すごく臭いから」

 そこに強い嫌悪を感じて、リアンヌは苦笑して息子の頭を撫でた。
「平民が臭いのは働いているからですよ。あなたも鍛錬のあとは臭いでしょう」
「え……でも、ちゃんと湯浴みをします」

「そうですね。貧しい方々はそれが難しいのです。領地全体の治水事業を先々代から続けてきたのはそのためです」
「ちすい……」
「みんながきれいな水を使えるように頑張っています。……そうですね、あなたもそろそろ領地の見回りをしてみましょうか。きっと色々なものが見えてきますよ」

「見回り! やった! ……じゃなかった、がんばります!」
「ふふ。さ、もう寝る時間です。お部屋に戻りましょう」
「はい」

 息子を寝室まで連れて行く。
 外の騒ぎはすっかり静まったようだった。

「おやすみなさい、お母様」
「おやすみなさい」
 愛おしい子に優しくキスをして、リアンヌは幸せな気持ちになる。

(結局、あの人のことは愛せなかったけれど……この子達を与えてくれたことには感謝しているわ)
 だから彼の、ただの平民としてのこれからの人生にも、幸多かれと願うのだった。
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