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中編
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「はっ……はあっ」
ハインリヒは門番から見えない位置に隠れ、どうにか呼吸を落ち着けた。
「主人の顔も知らないとは……っ、なんてやつだ! 必ずクビにしてやる、覚えたからな……」
真実を知った門番が青ざめ、這いつくばって許しを乞うさまを想像した。もちろん許しはしない。
だがさしあたって、あの門番に理解させるのは難しいだろう。
(姿さえまともなら……)
昔着ていた服や装飾品は、いったいどうしたのだったか。
(売った! 何もかも)
家紋の刻印された金時計、カフス、せめてあのどちらかが残っていれば。
(いいや! 何も間違ってなどいない)
愚かなのはあの門番だ。おかげで身を持ち崩すことになるが、自業自得というものだろう。
(私は生まれながらに高貴なのだから、証明する物など必要がない)
それを知っている者が、門から出てくるのを待てばいいのだ。
ハインリヒは門番から見えない位置に、どっしりと腰を落ち着けた。
庶民の暮らしに七年耐えたのだから、一日二日かかろうとも、諦める気はなかった。
辛抱強い自分を褒め称えながら、ひたすらに待った。何もすることはない。太陽を浴びながら欠伸をした。どこででも眠ることはできる。
と、馬車の音がした。
うつらうつらとする意識を叩き起こし、よろめきながらハインリヒは門前に向かった。
(母上の馬車だ!)
七年の間に新しくなっていたが、基本的なつくりはかわらない。
「母上っ!」
ハインリヒは馬の前にまろび出た。
「うおっ!?」
御者が驚きの声をあげ、門から出ようとしていた馬車が止まる。
「無礼者、これが侯爵家の馬車と知ってのことか!」
「貴様こそ私を誰だと思っている! 母上! 母上、いらっしゃるのでしょう。ハインリヒです! 帰ってまいりました!」
「門番! おかしなものがいる!」
「あっ、また、こいつ!」
「ハインリヒ……?」
その時、馬車の扉が開いた。
「大奥様、危険です!」
「母上!」
やった!
小躍りしたい気分だった。忌々しい妨害も無駄になり、これですべては正しい位置に戻るだろう。
いくらボロを身にまとっていても、あの優しかった母が自分の顔を忘れるはずがない!
「ハインリヒ」
「はい、母上! 戻ってまいりましたっ!」
馬車から顔を出した母は、見開いた目に涙をためていた。
「母上、」
「この……っ、偽物め!」
「はっ?」
腕に痛みが走り、母の握る杖で打たれたのだとわかった。
「偽物ッ、偽物ッ! 騙されるものか! あの子は……あのかわいい子は……死んでしまった……!」
「そ、そんなっ……母上、私です! ハインリヒ、です、おやめください!」
「消えてしまえ、このっ、この!」
母は息を荒らげながら、ハインリヒを杖で何度も打ち据えた。
「いたっ、痛いです、ははうえっ」
老いた母の力である。
杖に振り回されてもいる。
それでも母に攻撃されているということが、ハインリヒの心を削った。
「大奥様!」
「お下がりください!」
「母上……」
門番と御者に守られるようにして、母は馬車に押し込まれる。
最後に吐き捨てるように言った。
「二度とその顔を見せないで」
打ちのめされ、地面に尻をついたハインリヒは呆然と母を見送るしかなかった。門番が「しっ」と追い払うように手を振る。
「わかっただろ。領主……前領主様は三年前に死んだんだ。今の領主様は十かそこらだぜ。情報もろくにない平民が、貴族を騙そうなんて考えないことだ」
「ばかな……死んだ……?」
ではここにいる自分は何なのだ。
「いや、いや……違う、母上……私は生きて……」
領主の母は息を吐いた。
馬車は進み、もはや振り返ってもあの惨めな姿は見えないだろう。
「ああ……」
顔を覆った手から涙がぽたぽたと落ちる。
たとえどんなボロを着て、荒れた肌をし、貴族らしい姿勢さえ失っていても、自分の息子を見間違うはずがなかった。
「ハインリヒ……」
しかし心を鬼にしなければならない。
三年前の飢饉の時、行方不明であった領主は死亡したことになった。
幼い孫を領主とし、その代理人とならなければ、備蓄庫を開いて領民へ施すことも、税率を変えることもできなかったのだ。
夫が愛した領地を、領民を守らなければならない。
そして幼くして家督を継いだ孫を、今度こそきちんと育て上げなければならない。幸いにして賢い子たちだが、恥でしかない父親などいないほうがいい。
「ごめんなさい」
領地を継ぐのはずいぶん先なのだからと、甘やかしてきた結果だ。
夫の急死は予想外のこと。けれど七年も義務を放り出すような男を、いまさら蘇らせるわけにはいかないのだ。
ハインリヒは門番から見えない位置に隠れ、どうにか呼吸を落ち着けた。
「主人の顔も知らないとは……っ、なんてやつだ! 必ずクビにしてやる、覚えたからな……」
真実を知った門番が青ざめ、這いつくばって許しを乞うさまを想像した。もちろん許しはしない。
だがさしあたって、あの門番に理解させるのは難しいだろう。
(姿さえまともなら……)
昔着ていた服や装飾品は、いったいどうしたのだったか。
(売った! 何もかも)
家紋の刻印された金時計、カフス、せめてあのどちらかが残っていれば。
(いいや! 何も間違ってなどいない)
愚かなのはあの門番だ。おかげで身を持ち崩すことになるが、自業自得というものだろう。
(私は生まれながらに高貴なのだから、証明する物など必要がない)
それを知っている者が、門から出てくるのを待てばいいのだ。
ハインリヒは門番から見えない位置に、どっしりと腰を落ち着けた。
庶民の暮らしに七年耐えたのだから、一日二日かかろうとも、諦める気はなかった。
辛抱強い自分を褒め称えながら、ひたすらに待った。何もすることはない。太陽を浴びながら欠伸をした。どこででも眠ることはできる。
と、馬車の音がした。
うつらうつらとする意識を叩き起こし、よろめきながらハインリヒは門前に向かった。
(母上の馬車だ!)
七年の間に新しくなっていたが、基本的なつくりはかわらない。
「母上っ!」
ハインリヒは馬の前にまろび出た。
「うおっ!?」
御者が驚きの声をあげ、門から出ようとしていた馬車が止まる。
「無礼者、これが侯爵家の馬車と知ってのことか!」
「貴様こそ私を誰だと思っている! 母上! 母上、いらっしゃるのでしょう。ハインリヒです! 帰ってまいりました!」
「門番! おかしなものがいる!」
「あっ、また、こいつ!」
「ハインリヒ……?」
その時、馬車の扉が開いた。
「大奥様、危険です!」
「母上!」
やった!
小躍りしたい気分だった。忌々しい妨害も無駄になり、これですべては正しい位置に戻るだろう。
いくらボロを身にまとっていても、あの優しかった母が自分の顔を忘れるはずがない!
「ハインリヒ」
「はい、母上! 戻ってまいりましたっ!」
馬車から顔を出した母は、見開いた目に涙をためていた。
「母上、」
「この……っ、偽物め!」
「はっ?」
腕に痛みが走り、母の握る杖で打たれたのだとわかった。
「偽物ッ、偽物ッ! 騙されるものか! あの子は……あのかわいい子は……死んでしまった……!」
「そ、そんなっ……母上、私です! ハインリヒ、です、おやめください!」
「消えてしまえ、このっ、この!」
母は息を荒らげながら、ハインリヒを杖で何度も打ち据えた。
「いたっ、痛いです、ははうえっ」
老いた母の力である。
杖に振り回されてもいる。
それでも母に攻撃されているということが、ハインリヒの心を削った。
「大奥様!」
「お下がりください!」
「母上……」
門番と御者に守られるようにして、母は馬車に押し込まれる。
最後に吐き捨てるように言った。
「二度とその顔を見せないで」
打ちのめされ、地面に尻をついたハインリヒは呆然と母を見送るしかなかった。門番が「しっ」と追い払うように手を振る。
「わかっただろ。領主……前領主様は三年前に死んだんだ。今の領主様は十かそこらだぜ。情報もろくにない平民が、貴族を騙そうなんて考えないことだ」
「ばかな……死んだ……?」
ではここにいる自分は何なのだ。
「いや、いや……違う、母上……私は生きて……」
領主の母は息を吐いた。
馬車は進み、もはや振り返ってもあの惨めな姿は見えないだろう。
「ああ……」
顔を覆った手から涙がぽたぽたと落ちる。
たとえどんなボロを着て、荒れた肌をし、貴族らしい姿勢さえ失っていても、自分の息子を見間違うはずがなかった。
「ハインリヒ……」
しかし心を鬼にしなければならない。
三年前の飢饉の時、行方不明であった領主は死亡したことになった。
幼い孫を領主とし、その代理人とならなければ、備蓄庫を開いて領民へ施すことも、税率を変えることもできなかったのだ。
夫が愛した領地を、領民を守らなければならない。
そして幼くして家督を継いだ孫を、今度こそきちんと育て上げなければならない。幸いにして賢い子たちだが、恥でしかない父親などいないほうがいい。
「ごめんなさい」
領地を継ぐのはずいぶん先なのだからと、甘やかしてきた結果だ。
夫の急死は予想外のこと。けれど七年も義務を放り出すような男を、いまさら蘇らせるわけにはいかないのだ。
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