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Chapter11*こぼれたビールは戻らない。
こぼれたビールは戻らない。[2]―①
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ソファーの上で目を覚ました時、わたしの目に映ったのは意識が落ちる寸前と一ミリも変わらない部屋。変わったところがあるのは明るくなった窓の外だけ。
待てど暮らせど、アキはとうとう帰ってこなかった。
(もしかしたら急な仕事が入ったのかも……)
(黙って来たから、アキはわたしが待ってるなんて知らないもの……)
(もしかしたらスマホには、アキから何か連絡が入っているかもしれない……)
ホテルを出て自宅へ向かっている間中、わたしは頭の中でそうくり返し考えていた。
そうしていないと、頭の隅から悪い予感が染み出してきてしまう。
(そんなはずない。アキはそんなひとじゃない)
そう何度も繰り返し、自分に刷り込むように唱える。真っ黒なものに思考が侵食されないように。
黒い思考を横に追いやることに成功すると、今度は彼の安否が心配になった。
(何かあったのかな……)
(疲れが溜まりすぎて、どこかで倒れていたらどうしよう)
(そんなことない。きっとスマホには何か連絡が入っているに違いない)
とにかく一回家に帰って、スマホから連絡してみよう。
疑心暗鬼と不安の間で揺れながら、わたしは自宅へと急いだ。
***
マンションのエレベーターで三階まで上がる。エレベーターの中でボストンバッグの中から家の鍵を出し、それを握ったまま共用廊下を進んだ。すると一番奥の部屋の前に人影が。
仕立ての良い紺色のスリーピース――あんなにも待ち焦がれた人がそこにいた。
「アキっ!」
どうしてここに――とわたしが口にするより早く、彼は言った。
「どこに行ってたの」
どことなく冷ややかさの滲んだ声に、一瞬声を呑む。「……それは、」と言いかけたわたしの言葉を、硬い声が遮った。
「コンビニ、とかじゃなさそうだね。そんな大きな荷物を持って」
彼の視線は、わたしのボストンバッグに。
「これはっ、」
「何度電話をしても出ないし、メッセージも読んでくれない。何かあったのかと心配して来てみたんだけど――」
どうしてわたしが責められないといけないの!?
電話に出られなかったのはスマホを忘れたわたしが悪いのだけど、このカバンはアキの部屋に行ったからだし、そっちこそ一晩どこに行ってたの!? わたしだって何かあったんじゃないかって心配してたのに!
言いたいことや訊きたいことが、頭の中で炭酸みたいに次々に湧き上がってくる。
そのせいで一瞬言葉に詰まったわたしに、彼は鋭い視線を向けた。
「言えない場所――とか」
「なっ!」
そんなわけない!アキの部屋に居たんだから―――
そう言おうとしたけれど、彼が次に放った言葉に絶句した。
「もしかして結城課長のところ……とか」
「え!?」
どうしてここで晶人さんが出てくるのか意味が分からない。眉をひそめたわたしに、アキはその答えを口にした。
「結城課長とは大学の先輩後輩なんだってな」
「それはっ……そうだけど、でも」
それが何? 大学時代からの知り合いだからって、どうして今彼のことは関係ないじゃない。
「昨日彼が嬉しそうに話してくれたよ。『自分が静川をこっちに呼んだんだ』って」
「それは、」
「『静川は昔から優秀だった。部下になった今も大事な存在であることに変わりはない』ってね」
「………」
晶人さんがどういうつもりでアキにそう言ったのかは分からない。
だけど、別に晶人さんは嘘なんてついていない。わたしたちは大学の先輩後輩で、職場では上司と部下。
それに、辛い転職時代を乗り越えることが出来たのは間違いなく晶人さんのおかげで、わたしにとっても大事な存在なのは同じ。
「だからなに? それがアキと何か関係がある!?」
「――ないわけないだろっ!」
珍しく声を荒げたアキに、わたしの肩がビクリと跳ねる。その様子を見た彼が「ふぅっ」と息を吐いて声のトーンを落とした。
「結城課長と話す時のあなたは、すごく普通の“女の子”だ」
「なっ…! なにそれ……意味が分からない」
そもそも“女の子”という年じゃない、とか。“普通の”ってなんだ、とか。
本当に言うべきはそんなことじゃない。アキがどうしてそんなことを言い出したかということなのに。
「いつも僕には頑ななほど“年上ぶる”のに、彼の前では全然そんなことなくて」
「………」
「昨日も、頭を撫でられて嬉しそうだったしな」
「っ、……だってそれは、」
晶人さんは、当たり前だけどわたしより年上で先輩で上司で。しかも彼は昔からあんな感じでわたしにとっては“お兄ちゃん”な存在。
今さらそれをどうこう言われても……!
グッと奥歯を噛みしめた時、突然伸びてきた手にあごを掬い上げられた。
「ア、」
「メガネは?」
「え」
「メガネはどうしたの?」
「あ、……忘れて、」
「どういうこと―――」
低く唸るような声。鋭い瞳。
これはかなりまずい。アキが本気で怒っている。
落ち着け。落ち着くのよわたし。
メガネはホテルで外してソファーテーブルに置いたんだった。どうせ伊達だから、掛けっぱなしは邪魔くさいし――と。
朝一番の帰宅。
電話も出ない。
明らかに“お泊りセット”と分かるカバン。
外したまま忘れてきたメガネ。
これじゃまるで浮気者の朝帰りだ。アキが怒るのも肯ける。
きちんとこれまでの経緯を説明して、今度はわたしが彼に「昨夜はどこに行っていたの」と聞く番だ。
そう思って息を吸いながら口を開きかけた時、彼の腕にぶら下がっているものに気が付いた。
大小ふたつの紙袋。そのうちのひとつは――。
小さな薄いブルーの上質なもの。
待てど暮らせど、アキはとうとう帰ってこなかった。
(もしかしたら急な仕事が入ったのかも……)
(黙って来たから、アキはわたしが待ってるなんて知らないもの……)
(もしかしたらスマホには、アキから何か連絡が入っているかもしれない……)
ホテルを出て自宅へ向かっている間中、わたしは頭の中でそうくり返し考えていた。
そうしていないと、頭の隅から悪い予感が染み出してきてしまう。
(そんなはずない。アキはそんなひとじゃない)
そう何度も繰り返し、自分に刷り込むように唱える。真っ黒なものに思考が侵食されないように。
黒い思考を横に追いやることに成功すると、今度は彼の安否が心配になった。
(何かあったのかな……)
(疲れが溜まりすぎて、どこかで倒れていたらどうしよう)
(そんなことない。きっとスマホには何か連絡が入っているに違いない)
とにかく一回家に帰って、スマホから連絡してみよう。
疑心暗鬼と不安の間で揺れながら、わたしは自宅へと急いだ。
***
マンションのエレベーターで三階まで上がる。エレベーターの中でボストンバッグの中から家の鍵を出し、それを握ったまま共用廊下を進んだ。すると一番奥の部屋の前に人影が。
仕立ての良い紺色のスリーピース――あんなにも待ち焦がれた人がそこにいた。
「アキっ!」
どうしてここに――とわたしが口にするより早く、彼は言った。
「どこに行ってたの」
どことなく冷ややかさの滲んだ声に、一瞬声を呑む。「……それは、」と言いかけたわたしの言葉を、硬い声が遮った。
「コンビニ、とかじゃなさそうだね。そんな大きな荷物を持って」
彼の視線は、わたしのボストンバッグに。
「これはっ、」
「何度電話をしても出ないし、メッセージも読んでくれない。何かあったのかと心配して来てみたんだけど――」
どうしてわたしが責められないといけないの!?
電話に出られなかったのはスマホを忘れたわたしが悪いのだけど、このカバンはアキの部屋に行ったからだし、そっちこそ一晩どこに行ってたの!? わたしだって何かあったんじゃないかって心配してたのに!
言いたいことや訊きたいことが、頭の中で炭酸みたいに次々に湧き上がってくる。
そのせいで一瞬言葉に詰まったわたしに、彼は鋭い視線を向けた。
「言えない場所――とか」
「なっ!」
そんなわけない!アキの部屋に居たんだから―――
そう言おうとしたけれど、彼が次に放った言葉に絶句した。
「もしかして結城課長のところ……とか」
「え!?」
どうしてここで晶人さんが出てくるのか意味が分からない。眉をひそめたわたしに、アキはその答えを口にした。
「結城課長とは大学の先輩後輩なんだってな」
「それはっ……そうだけど、でも」
それが何? 大学時代からの知り合いだからって、どうして今彼のことは関係ないじゃない。
「昨日彼が嬉しそうに話してくれたよ。『自分が静川をこっちに呼んだんだ』って」
「それは、」
「『静川は昔から優秀だった。部下になった今も大事な存在であることに変わりはない』ってね」
「………」
晶人さんがどういうつもりでアキにそう言ったのかは分からない。
だけど、別に晶人さんは嘘なんてついていない。わたしたちは大学の先輩後輩で、職場では上司と部下。
それに、辛い転職時代を乗り越えることが出来たのは間違いなく晶人さんのおかげで、わたしにとっても大事な存在なのは同じ。
「だからなに? それがアキと何か関係がある!?」
「――ないわけないだろっ!」
珍しく声を荒げたアキに、わたしの肩がビクリと跳ねる。その様子を見た彼が「ふぅっ」と息を吐いて声のトーンを落とした。
「結城課長と話す時のあなたは、すごく普通の“女の子”だ」
「なっ…! なにそれ……意味が分からない」
そもそも“女の子”という年じゃない、とか。“普通の”ってなんだ、とか。
本当に言うべきはそんなことじゃない。アキがどうしてそんなことを言い出したかということなのに。
「いつも僕には頑ななほど“年上ぶる”のに、彼の前では全然そんなことなくて」
「………」
「昨日も、頭を撫でられて嬉しそうだったしな」
「っ、……だってそれは、」
晶人さんは、当たり前だけどわたしより年上で先輩で上司で。しかも彼は昔からあんな感じでわたしにとっては“お兄ちゃん”な存在。
今さらそれをどうこう言われても……!
グッと奥歯を噛みしめた時、突然伸びてきた手にあごを掬い上げられた。
「ア、」
「メガネは?」
「え」
「メガネはどうしたの?」
「あ、……忘れて、」
「どういうこと―――」
低く唸るような声。鋭い瞳。
これはかなりまずい。アキが本気で怒っている。
落ち着け。落ち着くのよわたし。
メガネはホテルで外してソファーテーブルに置いたんだった。どうせ伊達だから、掛けっぱなしは邪魔くさいし――と。
朝一番の帰宅。
電話も出ない。
明らかに“お泊りセット”と分かるカバン。
外したまま忘れてきたメガネ。
これじゃまるで浮気者の朝帰りだ。アキが怒るのも肯ける。
きちんとこれまでの経緯を説明して、今度はわたしが彼に「昨夜はどこに行っていたの」と聞く番だ。
そう思って息を吸いながら口を開きかけた時、彼の腕にぶら下がっているものに気が付いた。
大小ふたつの紙袋。そのうちのひとつは――。
小さな薄いブルーの上質なもの。
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