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Chapter11*こぼれたビールは戻らない。
こぼれたビールは戻らない。[1]―③
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***
この一時間のうちに、わたしの目は腕時計と玄関扉をいったい何度往復したのだろう。
もし数えていたら、きっと数えるのがバカバカしくなるくらいの回数だと思う。
ソファーのうたた寝から目覚めたあと、アキを待つのに手持無沙汰になったわたしは、ここぞとばかりに部屋を散策した。
初めて来た時はあまりウロウロ出来なかったけど、今回は少し余裕があったから。
こんな高級ホテルのスイートに来ることなんて、一生に一度あるかないか。見聞を広めるためにも、じっくり見ておくのが吉ってもんだ。
「これで二度目でしょ!」ていうツッコミはご勘弁ください。
誰に向かって言っているのか分からないセリフでも唱えていないと、やっぱりちょっと落ち着かない。
もちろん勝手に引き出しや扉を開けたりはしない。そういうのはマナー違反。いくら恋人同士だからって『親しき中にも礼儀あり』ってやつ。大人の女はそういうとこ、押さえておかなきゃね。
バスルームはリビングと同じ並びにあるから、川と橋を見下ろせる眺望が素敵だった。
ここでのんびりと湯船につかりながらあの橋を眺められたらサイコーよね!
今はこの部屋の主がいつ帰ってくるか分からないし、そもそも断りもなく入るなんて出来っこない。
(アキが帰ってきたら、入っていいか訊いてみよう)
ちゃんと“お泊りセット”は持ってきている。さすがにわたしだって、チョコを渡してすぐに「ほなサイナラ」って帰るつもりはない。
バレンタインはそこからが本番だってこと、ちゃんと分かっております。大人の女ですから!
そんなことを考えてうきうきしながらバスルームを後にした。
あっ……、間違っても一緒には入りませんから! そんな目で見てもダメですよ?
広いスイートとはいえ、ぐるりと一周してもものの十分ほど。あとはまた窓辺のソファーで大人しく窓の外を眺めたり、大きなテレビを観たり。
だけど、腕時計の短い針が【Ⅰ】に触れる頃にはさすがに手持無沙汰になってきた。
(そろそろ帰ってくるよね……)
帰ってきたらきっとビックリするよね……。アキ、なんて言うかな……。
(ガトーショコラ、喜んでくれたらいいな……)
ケーキもチョコも大好きなことは知っているけれど、手作りのものを喜んでくれるかは分からない。高級スイーツに慣らした彼の舌に、満足してもらえるかはやっぱり不安。
バレンタインにガトーショコラを焼いたことはもとより、今日ここに来ること自体を彼に告げていない。
待っていると急かして仕事の邪魔をしてはいけないし、サプライズで驚かせたいという気持ちもある。
だけど、さすがに一時を過ぎたあたりから、少し不安になってきた。
お偉いさんたちの飲み会ってずいぶん遅くまでやってるものなのね……もしかして、途中で何かあったとか? 飲み過ぎて具合が悪くなって病院に、なんてことは……。
「やっぱり連絡してみよ!」
この際サプライズは諦めて、彼にメッセージを送ってみることにしよう。うん、それがいい。
そう思いながら、持ってきたボストンバッグのファスナーを引いた。
「……あれ?」
内ポケットのところに入れたはずのスマホがない。
カバンの中に落ちているのかと、入っているものをかきわけながら漁るが見当たらない。
「うそ……まさか………」
中身を一旦ソファーの上に取り出して、バッグを逆さまに振ってみても出てこない。
「………スマホ、忘れた~~~!!」
わたしの絶叫がスイートルームに響き渡った。
どうしよう。まさかスマホを忘れてくるなんて……!
焼き上がったガトーショコラが冷えるのを待ってる間に、着ていく服を選んでお化粧をして。
明日は休みだけど万が一そのままもう一泊になった時の為に、明後日はここからそのまま出勤できるようお泊りセットを作って。粗熱の取れたガトーショコラを箱に入れて紙袋にセットして。
あっ!ガトーショコラのレシピを見るために、スマホはキッチンのカウンターに置いたままだった!!
自分のうっかり加減に少しの間、空のボストンバックを見つめて呆然としてしまう。
いやいや、ぼーっとしている場合じゃないよね!
今から取りに帰る?
さすがに深夜一時を過ぎているから終電は終わってる。タクシーで往復する? でも取りに戻っている間に入れ違いになるかも。
ホテルの電話からアキに連絡を取る?
いやだ……わたしったら、アキの携帯番号覚えてないじゃない。
普段のやり取りはメッセージアプリを使っていて、電話なんて掛けたことがない。
やっぱりこのままここで待つのが一番……よね?
さすがにもうすぐ帰ってくるわよ。
反省と不安が渦巻く胸を抱きしめるみたいに抱えた膝は、茶色いスウェードに包まれている。出る間際まで散々悩んで決めたワンピースだ。
タイトなシルエットだけどミモレ丈で上品だし、深い茶色をしていてチョコレートみたいだと思った。
それに袖を通す時になって「あっ!」と思い立ったわたしは、同じチョコレートブラウンのものにランジェリーもお着替え。
『これじゃまるでわたしも“チョコレート”って言ってるようなものじゃない……』
年甲斐もない発想の自分に、ちょっと焦った。
やっぱり別の下着にしようかクロゼットに戻りかけたけど、時間が迫っていたから結局そのまま。
出来ることなら、帰って来たアキを出迎えて「おかえり」って言ってあげたかったから。
やっぱり大分浮かれてたんだな……よりにもよってスマホを忘れてくるなんて―――。
大人の女は恋愛くらいでふわふわしてたらダメなのに……!
とにかくここで待っていれば、アキはそのうち帰ってくる。
『僕の部屋に来て』って言われた時は可愛くないことばっかり言っちゃったけど、本当はこの景色をまた一緒に見たいと思ってたの。
アキ、早く帰ってこないかなぁ……。
そんなことを考えながら玄関と時計を目で何度も往復して、わたしは彼が帰ってくるのを今か今かと待ちわびていた。
この一時間のうちに、わたしの目は腕時計と玄関扉をいったい何度往復したのだろう。
もし数えていたら、きっと数えるのがバカバカしくなるくらいの回数だと思う。
ソファーのうたた寝から目覚めたあと、アキを待つのに手持無沙汰になったわたしは、ここぞとばかりに部屋を散策した。
初めて来た時はあまりウロウロ出来なかったけど、今回は少し余裕があったから。
こんな高級ホテルのスイートに来ることなんて、一生に一度あるかないか。見聞を広めるためにも、じっくり見ておくのが吉ってもんだ。
「これで二度目でしょ!」ていうツッコミはご勘弁ください。
誰に向かって言っているのか分からないセリフでも唱えていないと、やっぱりちょっと落ち着かない。
もちろん勝手に引き出しや扉を開けたりはしない。そういうのはマナー違反。いくら恋人同士だからって『親しき中にも礼儀あり』ってやつ。大人の女はそういうとこ、押さえておかなきゃね。
バスルームはリビングと同じ並びにあるから、川と橋を見下ろせる眺望が素敵だった。
ここでのんびりと湯船につかりながらあの橋を眺められたらサイコーよね!
今はこの部屋の主がいつ帰ってくるか分からないし、そもそも断りもなく入るなんて出来っこない。
(アキが帰ってきたら、入っていいか訊いてみよう)
ちゃんと“お泊りセット”は持ってきている。さすがにわたしだって、チョコを渡してすぐに「ほなサイナラ」って帰るつもりはない。
バレンタインはそこからが本番だってこと、ちゃんと分かっております。大人の女ですから!
そんなことを考えてうきうきしながらバスルームを後にした。
あっ……、間違っても一緒には入りませんから! そんな目で見てもダメですよ?
広いスイートとはいえ、ぐるりと一周してもものの十分ほど。あとはまた窓辺のソファーで大人しく窓の外を眺めたり、大きなテレビを観たり。
だけど、腕時計の短い針が【Ⅰ】に触れる頃にはさすがに手持無沙汰になってきた。
(そろそろ帰ってくるよね……)
帰ってきたらきっとビックリするよね……。アキ、なんて言うかな……。
(ガトーショコラ、喜んでくれたらいいな……)
ケーキもチョコも大好きなことは知っているけれど、手作りのものを喜んでくれるかは分からない。高級スイーツに慣らした彼の舌に、満足してもらえるかはやっぱり不安。
バレンタインにガトーショコラを焼いたことはもとより、今日ここに来ること自体を彼に告げていない。
待っていると急かして仕事の邪魔をしてはいけないし、サプライズで驚かせたいという気持ちもある。
だけど、さすがに一時を過ぎたあたりから、少し不安になってきた。
お偉いさんたちの飲み会ってずいぶん遅くまでやってるものなのね……もしかして、途中で何かあったとか? 飲み過ぎて具合が悪くなって病院に、なんてことは……。
「やっぱり連絡してみよ!」
この際サプライズは諦めて、彼にメッセージを送ってみることにしよう。うん、それがいい。
そう思いながら、持ってきたボストンバッグのファスナーを引いた。
「……あれ?」
内ポケットのところに入れたはずのスマホがない。
カバンの中に落ちているのかと、入っているものをかきわけながら漁るが見当たらない。
「うそ……まさか………」
中身を一旦ソファーの上に取り出して、バッグを逆さまに振ってみても出てこない。
「………スマホ、忘れた~~~!!」
わたしの絶叫がスイートルームに響き渡った。
どうしよう。まさかスマホを忘れてくるなんて……!
焼き上がったガトーショコラが冷えるのを待ってる間に、着ていく服を選んでお化粧をして。
明日は休みだけど万が一そのままもう一泊になった時の為に、明後日はここからそのまま出勤できるようお泊りセットを作って。粗熱の取れたガトーショコラを箱に入れて紙袋にセットして。
あっ!ガトーショコラのレシピを見るために、スマホはキッチンのカウンターに置いたままだった!!
自分のうっかり加減に少しの間、空のボストンバックを見つめて呆然としてしまう。
いやいや、ぼーっとしている場合じゃないよね!
今から取りに帰る?
さすがに深夜一時を過ぎているから終電は終わってる。タクシーで往復する? でも取りに戻っている間に入れ違いになるかも。
ホテルの電話からアキに連絡を取る?
いやだ……わたしったら、アキの携帯番号覚えてないじゃない。
普段のやり取りはメッセージアプリを使っていて、電話なんて掛けたことがない。
やっぱりこのままここで待つのが一番……よね?
さすがにもうすぐ帰ってくるわよ。
反省と不安が渦巻く胸を抱きしめるみたいに抱えた膝は、茶色いスウェードに包まれている。出る間際まで散々悩んで決めたワンピースだ。
タイトなシルエットだけどミモレ丈で上品だし、深い茶色をしていてチョコレートみたいだと思った。
それに袖を通す時になって「あっ!」と思い立ったわたしは、同じチョコレートブラウンのものにランジェリーもお着替え。
『これじゃまるでわたしも“チョコレート”って言ってるようなものじゃない……』
年甲斐もない発想の自分に、ちょっと焦った。
やっぱり別の下着にしようかクロゼットに戻りかけたけど、時間が迫っていたから結局そのまま。
出来ることなら、帰って来たアキを出迎えて「おかえり」って言ってあげたかったから。
やっぱり大分浮かれてたんだな……よりにもよってスマホを忘れてくるなんて―――。
大人の女は恋愛くらいでふわふわしてたらダメなのに……!
とにかくここで待っていれば、アキはそのうち帰ってくる。
『僕の部屋に来て』って言われた時は可愛くないことばっかり言っちゃったけど、本当はこの景色をまた一緒に見たいと思ってたの。
アキ、早く帰ってこないかなぁ……。
そんなことを考えながら玄関と時計を目で何度も往復して、わたしは彼が帰ってくるのを今か今かと待ちわびていた。
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