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Chapter9*ビール売りの少女@三十路目前
ビール売りの少女@三十路目前[2]ー③
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『協定書』を作った時には、まさかこんな関係になるなんて思ってもみなかった。
だけど今はあの時とは違う。甲と乙の関係が変わったのだから、協定自体も見直す必要があるかもしれない。
そう思い至ったわたしが、口を開こうとした時、アキが突然「そうだ!」と言った。
「静さんが僕のところに来てくれたらいいんだ!」
「え?」
「僕のホテルの部屋、あそこに仕事が終わったら来てよ。そしたら僕も仕事が終わったらすぐに静さんに会える!」
アキは『ものすごい名案を思い付いた』とばかりに、顔を輝かせている。
「そっ、……それはちょっと……ムリ…ていうか……」
「なんで?仕事の格好のままここに来られたら困るって言ったのは、静さんじゃないか」
ぐっと答えに詰まる。またもや即答出来ないわたしに、アキは眉根を寄せた。その不機嫌そうな表情に、さっきまでとは違う意味で胸が痛む。
(『あれはダメ、これもムリ』って、きっと面倒なアラサー女だと思われてるわよね……)
『やっぱりやめる』って言い出すとしたら、彼の方だろう。
いつだってその心づもりはしているつもりだけど、やっぱり想像したら胸がぎゅっと強く締め付けられてしまう。
アキとのサヨナラなんて今は考えたくない。
『おひとり様上手だ』『大人の余裕だ』なんてただの強がり。
本当は不安だった。彼がもう二度とここには来ないんじゃないかって。会いたいと思っているのはわたしだけなんじゃないかって。
「静さん……?」
下唇を噛んでうつむいていると、心配そうに顔をのぞき込まれた。涙の滲んだ瞳を見られたくなくて、彼と目を合わせることすら出来ない。
すると、背中に回る腕が解かれた。
背中の温もりがなくなり、二人の間に冷たい空気がスッと入り込む。心の中まで隙間風が入ってきたように冷たくなった。
「っ、」
瞳に滲む水気がしずくにならないように、更にきつく唇を噛んだ時。
「どうかしたの? 吉野」
両頬を手で包まれ、額をコツンと合わせられた。
「もしかして、僕はなにかあなたを傷つけるようなことを言った……?」
わたしは唇を噛みしめたまま、首を小さく左右に振る。
アキは悪くない。
そう言わないといけないのに、胸に沁み込むような優しい声にかえって唇が戦慄いてしまう。視界いっぱいに映る彼の綺麗な顔が滲んでぼやけだす。
「あなたにはあなたの生活がある。頭ではそのことを理解しているつもりだっただけど、どうしてもあなたの顔を見たくて……。少しだけ、一瞬だけでもって、つい欲を出してしまったんだ。……でもそんなのは、僕の我がままにすぎないんだよな。ちゃんと分かっているから、あなたは気にしないでいいんだよ」
目尻に向けて下がる二重まぶたを少しだけ細くし、困ったような情けなさそうな顔をしたアキ。穏やかで優しい声色で、諭すようにそう言われたら、情けないけど涙を堪えきれなかった。ポロリと落ちたしずくが、彼の手の上を滑り落ちていく。
「だからね? 泣かないで、吉野」
そう言いながら両頬を包む手で、涙を拭ってくれた。
自分が情けない。こんなことくらいで泣いたりなんかして。
このまま彼の優しさに甘えっぱなしじゃダメだ。恋をしてダメな女になるなんて、三年前に逆戻りじゃないか。そんなの絶対にイヤ!
わたしはグッと唇を噛むと、お腹の下の丹田に力を込めた。
気合と根性!
「泣いたりして、ごめんなさい」
「別に謝るようなことじゃ、」
「ううん。アキは何も悪いこと言ってない……きちんと理由も言わず『イヤ』だなんて、わたしの方こそ我がままだと思う」
「そんなこと、」
彼の「ない」という言葉を遮るように頭を左右に振った。
両頬を包んでいるアキの手に、自分の手を重ねる。そしてアキの目から視線を逸らさず口を開いた。
「確かに、CMOのきみと一緒にいるところを見られるのは困る……絶対仕事がやりづらくなるし……だから、着替えるのは面倒だって分かってるけど、ここに来るときはやっぱり私服で来てほしいの……」
アキは黙って頷いた。口を挟まず最後まで聞いてくれるつもりなのだろう。そういうところが彼の真面目なところだ。真摯にわたしの言葉に耳を傾けてくれる彼に、今は少しでも報いたい。
「アキが忙しいってことは分かってる。関西には仕事をしに来ているんだもの。本当は遊んでる暇なんてないんでしょ…? わたしだっていい大人なんだから、ちょっとくらい会えなくてもイヤになったりしないし、簡単に『やめる』なんて言わない。だから、わたしに会うために無理をしないで…? 体を壊さないか心配になるから」
「僕のこと、心配してくれてたんだね。ありがとう、吉野」
優しい声に小さく頷くと、額に柔らかな熱を感じた。それはすぐに小さな音を立てて離れる。
「でも、僕は無理なんてしてないよ? むしろ吉野に会う方が、疲れが取れて元気になれる」
「でも……」
「それに、僕があなたに会いたくて堪らないんだ。我がままだと分かっていても我慢出来ない。三日も会えなくて、窒息するかと思ったくらいだよ」
「窒息って……いくらなんでも大げさよ……」
わたしだって、会いたいのに会えなくて、胸が苦しいとは思っていたけど、さすがに『窒息する』なんて言われるとは思わなかった。
「それくらい会いたかったってこと。――あなたは?」
「え」
「吉野は僕に会いたくなかった……?」
小首を傾げて訊ねられる。甘く細められた榛色の瞳が、キラキラと輝いている。
うぅっ、まぶしい……!
だけど今はあの時とは違う。甲と乙の関係が変わったのだから、協定自体も見直す必要があるかもしれない。
そう思い至ったわたしが、口を開こうとした時、アキが突然「そうだ!」と言った。
「静さんが僕のところに来てくれたらいいんだ!」
「え?」
「僕のホテルの部屋、あそこに仕事が終わったら来てよ。そしたら僕も仕事が終わったらすぐに静さんに会える!」
アキは『ものすごい名案を思い付いた』とばかりに、顔を輝かせている。
「そっ、……それはちょっと……ムリ…ていうか……」
「なんで?仕事の格好のままここに来られたら困るって言ったのは、静さんじゃないか」
ぐっと答えに詰まる。またもや即答出来ないわたしに、アキは眉根を寄せた。その不機嫌そうな表情に、さっきまでとは違う意味で胸が痛む。
(『あれはダメ、これもムリ』って、きっと面倒なアラサー女だと思われてるわよね……)
『やっぱりやめる』って言い出すとしたら、彼の方だろう。
いつだってその心づもりはしているつもりだけど、やっぱり想像したら胸がぎゅっと強く締め付けられてしまう。
アキとのサヨナラなんて今は考えたくない。
『おひとり様上手だ』『大人の余裕だ』なんてただの強がり。
本当は不安だった。彼がもう二度とここには来ないんじゃないかって。会いたいと思っているのはわたしだけなんじゃないかって。
「静さん……?」
下唇を噛んでうつむいていると、心配そうに顔をのぞき込まれた。涙の滲んだ瞳を見られたくなくて、彼と目を合わせることすら出来ない。
すると、背中に回る腕が解かれた。
背中の温もりがなくなり、二人の間に冷たい空気がスッと入り込む。心の中まで隙間風が入ってきたように冷たくなった。
「っ、」
瞳に滲む水気がしずくにならないように、更にきつく唇を噛んだ時。
「どうかしたの? 吉野」
両頬を手で包まれ、額をコツンと合わせられた。
「もしかして、僕はなにかあなたを傷つけるようなことを言った……?」
わたしは唇を噛みしめたまま、首を小さく左右に振る。
アキは悪くない。
そう言わないといけないのに、胸に沁み込むような優しい声にかえって唇が戦慄いてしまう。視界いっぱいに映る彼の綺麗な顔が滲んでぼやけだす。
「あなたにはあなたの生活がある。頭ではそのことを理解しているつもりだっただけど、どうしてもあなたの顔を見たくて……。少しだけ、一瞬だけでもって、つい欲を出してしまったんだ。……でもそんなのは、僕の我がままにすぎないんだよな。ちゃんと分かっているから、あなたは気にしないでいいんだよ」
目尻に向けて下がる二重まぶたを少しだけ細くし、困ったような情けなさそうな顔をしたアキ。穏やかで優しい声色で、諭すようにそう言われたら、情けないけど涙を堪えきれなかった。ポロリと落ちたしずくが、彼の手の上を滑り落ちていく。
「だからね? 泣かないで、吉野」
そう言いながら両頬を包む手で、涙を拭ってくれた。
自分が情けない。こんなことくらいで泣いたりなんかして。
このまま彼の優しさに甘えっぱなしじゃダメだ。恋をしてダメな女になるなんて、三年前に逆戻りじゃないか。そんなの絶対にイヤ!
わたしはグッと唇を噛むと、お腹の下の丹田に力を込めた。
気合と根性!
「泣いたりして、ごめんなさい」
「別に謝るようなことじゃ、」
「ううん。アキは何も悪いこと言ってない……きちんと理由も言わず『イヤ』だなんて、わたしの方こそ我がままだと思う」
「そんなこと、」
彼の「ない」という言葉を遮るように頭を左右に振った。
両頬を包んでいるアキの手に、自分の手を重ねる。そしてアキの目から視線を逸らさず口を開いた。
「確かに、CMOのきみと一緒にいるところを見られるのは困る……絶対仕事がやりづらくなるし……だから、着替えるのは面倒だって分かってるけど、ここに来るときはやっぱり私服で来てほしいの……」
アキは黙って頷いた。口を挟まず最後まで聞いてくれるつもりなのだろう。そういうところが彼の真面目なところだ。真摯にわたしの言葉に耳を傾けてくれる彼に、今は少しでも報いたい。
「アキが忙しいってことは分かってる。関西には仕事をしに来ているんだもの。本当は遊んでる暇なんてないんでしょ…? わたしだっていい大人なんだから、ちょっとくらい会えなくてもイヤになったりしないし、簡単に『やめる』なんて言わない。だから、わたしに会うために無理をしないで…? 体を壊さないか心配になるから」
「僕のこと、心配してくれてたんだね。ありがとう、吉野」
優しい声に小さく頷くと、額に柔らかな熱を感じた。それはすぐに小さな音を立てて離れる。
「でも、僕は無理なんてしてないよ? むしろ吉野に会う方が、疲れが取れて元気になれる」
「でも……」
「それに、僕があなたに会いたくて堪らないんだ。我がままだと分かっていても我慢出来ない。三日も会えなくて、窒息するかと思ったくらいだよ」
「窒息って……いくらなんでも大げさよ……」
わたしだって、会いたいのに会えなくて、胸が苦しいとは思っていたけど、さすがに『窒息する』なんて言われるとは思わなかった。
「それくらい会いたかったってこと。――あなたは?」
「え」
「吉野は僕に会いたくなかった……?」
小首を傾げて訊ねられる。甘く細められた榛色の瞳が、キラキラと輝いている。
うぅっ、まぶしい……!
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