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7.卵焼きレッスン
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さやかさんの卵焼き講座は、とても丁寧でわかりやすかった。
彼女の実家の弁当屋おかもとの出汁巻き卵を元にしつつ、家庭で作りやすいようにアレンジしたレシピを教えてくれた。
おかもとでは一から出汁を取るそうだが、手軽さを重視して市販の粉末出汁を使うレシピにしたそうだ。麵つゆを使ってもいいが、この方が砂糖と塩の量を変えられる。自分好みの味付けを作ることができるからと勧められた。
そう言えば、圭君の好みはどうだったろう。確かめたことがなかったので今度聞いてみよう。
焼く時も同様に、ポイントを押さえながらわかりやすく説明してくれたが、そうは言ってもなかなか難しい。卵焼き器を強めの中火でしっかり熱してから卵液を流し入れると言われるが、焦がしてしまいそうな気がしてつい焦ってしまう。
『多少焦げても上から巻くので大丈夫ですよ』と言われてからは、落ち着いてできるようになった。
さやかさん曰く、自宅の調理器具のくせもあるため、早めに自宅でも作ってみた方がいいとのこと。復習が大事なのは料理も勉強も同じらしい。自分ひとりでできるか不安はあるが、せっかく教えてもらったことを無駄にはしたくない。とにかく練習あるのみだ。
他にも、簡単に出来るお弁当レシピをいくつか教えてもらった。
さやかさんが作ったものを味見したのだが、とてもおいしくて、これと同じものを自分が作れるとは思えない。そうこぼすと、彼女はふふふと楽しそうに笑ってから言った。
『旦那様ならきっと、〝香子さんの味〟を一番喜んでくれますよ』
そうならいいなぁと思った。
あっという間に時間が過ぎ、使った調理器具の片づけをしながら結婚生活のこぼれ話で盛り上がっていたところに、結城首席と拓翔君が戻ってきた。パンダのイラストの入った風船を嬉しそうに見せてくれた。
窓から見える景色が西日に照らされている。立ち並ぶビルの下半分に影が被さり、街路樹も道路に長い影を作っている。
「私はそろそろ。今日は本当にありがとうございました」
おいとまを切り出したら、ゆっくりしていったらいいのにと退出を惜しまれたが、それに甘えるわけにはいかない。
日没にはまだ二時間くらい先で外は昼間のように明るいが、小さなお子さんのいる家庭だ。お風呂や食事で慌ただしくなるはずだ。
「夫と夕食の約束をしていますので」
圭君から夕食は外で一緒に食べようと誘われていた。大体の時間と待ち合わせ場所だけ決めてある。今から行けばその時間より早く着けそうなので、途中化粧室に寄ってお化粧を直してから待ち合わせのカフェに行こうと思う。
それなら自分たちはこのあとさやかさんの実家へ行くので、ついでに乗せて行こうかと誘ってもらったが、それも断った。これ以上はさすがに申し訳ない。それに、今は無性にひとりで歩きながら考えたいことがあった。
じゃあせめてエントランスホールまで一緒に下りようと言われ、それならとうなずいた。
四人で部屋を出てエレベーターに乗り込んだ直後、足元から突然「ぱんらしゃ!」と大きな声がした。
「拓翔、ぱんださんを忘れて来たの? じーじに見せる風船に気を取られちゃったのね」
「ぱんらしゃぁ……」
うるうると今にも泣きだしそうな瞳を見ただけで、今すぐ取って来てあげたくなる。
私はここまでいいからすぐに戻ってあげてくださいと言おうとしたが、それより早くさやかさんが『開ボタン』を押した。
「私、ちょっと取って来ますね。香子さん、エントランスのソファコーナーですこしだけ待っていてもらえますか?」
すぐにうなずいた。
「さやか、俺が行こう」
結城首席が言ったが、さやかさんがすぐに首を振る。
「櫂人さんはせっかくですから香子さんとゆっくりお話されていてください」
さやかさんに向かって両手を伸ばした拓翔君を、慣れた手つきでさっと抱え上げると、軽やかにエレベーターの外へ出て行った。あんな細い腕のどこにそんなパワーがあるのだろうと驚かされる。
「じゃあ俺たちは先に下りていようか。時間は大丈夫か、北山」
「はい」
エレベーターが下がり始め、足元がフワンと一瞬無重力になる。「待たせて悪いな」「いえ」と短いやり取りのあと、小さな箱の中に沈黙が降りる。なんとなく黙って階数表示を見つめる。
「そういえば、意外だったな」
ぽつりと聞こえた言葉に横を向く。
彼女の実家の弁当屋おかもとの出汁巻き卵を元にしつつ、家庭で作りやすいようにアレンジしたレシピを教えてくれた。
おかもとでは一から出汁を取るそうだが、手軽さを重視して市販の粉末出汁を使うレシピにしたそうだ。麵つゆを使ってもいいが、この方が砂糖と塩の量を変えられる。自分好みの味付けを作ることができるからと勧められた。
そう言えば、圭君の好みはどうだったろう。確かめたことがなかったので今度聞いてみよう。
焼く時も同様に、ポイントを押さえながらわかりやすく説明してくれたが、そうは言ってもなかなか難しい。卵焼き器を強めの中火でしっかり熱してから卵液を流し入れると言われるが、焦がしてしまいそうな気がしてつい焦ってしまう。
『多少焦げても上から巻くので大丈夫ですよ』と言われてからは、落ち着いてできるようになった。
さやかさん曰く、自宅の調理器具のくせもあるため、早めに自宅でも作ってみた方がいいとのこと。復習が大事なのは料理も勉強も同じらしい。自分ひとりでできるか不安はあるが、せっかく教えてもらったことを無駄にはしたくない。とにかく練習あるのみだ。
他にも、簡単に出来るお弁当レシピをいくつか教えてもらった。
さやかさんが作ったものを味見したのだが、とてもおいしくて、これと同じものを自分が作れるとは思えない。そうこぼすと、彼女はふふふと楽しそうに笑ってから言った。
『旦那様ならきっと、〝香子さんの味〟を一番喜んでくれますよ』
そうならいいなぁと思った。
あっという間に時間が過ぎ、使った調理器具の片づけをしながら結婚生活のこぼれ話で盛り上がっていたところに、結城首席と拓翔君が戻ってきた。パンダのイラストの入った風船を嬉しそうに見せてくれた。
窓から見える景色が西日に照らされている。立ち並ぶビルの下半分に影が被さり、街路樹も道路に長い影を作っている。
「私はそろそろ。今日は本当にありがとうございました」
おいとまを切り出したら、ゆっくりしていったらいいのにと退出を惜しまれたが、それに甘えるわけにはいかない。
日没にはまだ二時間くらい先で外は昼間のように明るいが、小さなお子さんのいる家庭だ。お風呂や食事で慌ただしくなるはずだ。
「夫と夕食の約束をしていますので」
圭君から夕食は外で一緒に食べようと誘われていた。大体の時間と待ち合わせ場所だけ決めてある。今から行けばその時間より早く着けそうなので、途中化粧室に寄ってお化粧を直してから待ち合わせのカフェに行こうと思う。
それなら自分たちはこのあとさやかさんの実家へ行くので、ついでに乗せて行こうかと誘ってもらったが、それも断った。これ以上はさすがに申し訳ない。それに、今は無性にひとりで歩きながら考えたいことがあった。
じゃあせめてエントランスホールまで一緒に下りようと言われ、それならとうなずいた。
四人で部屋を出てエレベーターに乗り込んだ直後、足元から突然「ぱんらしゃ!」と大きな声がした。
「拓翔、ぱんださんを忘れて来たの? じーじに見せる風船に気を取られちゃったのね」
「ぱんらしゃぁ……」
うるうると今にも泣きだしそうな瞳を見ただけで、今すぐ取って来てあげたくなる。
私はここまでいいからすぐに戻ってあげてくださいと言おうとしたが、それより早くさやかさんが『開ボタン』を押した。
「私、ちょっと取って来ますね。香子さん、エントランスのソファコーナーですこしだけ待っていてもらえますか?」
すぐにうなずいた。
「さやか、俺が行こう」
結城首席が言ったが、さやかさんがすぐに首を振る。
「櫂人さんはせっかくですから香子さんとゆっくりお話されていてください」
さやかさんに向かって両手を伸ばした拓翔君を、慣れた手つきでさっと抱え上げると、軽やかにエレベーターの外へ出て行った。あんな細い腕のどこにそんなパワーがあるのだろうと驚かされる。
「じゃあ俺たちは先に下りていようか。時間は大丈夫か、北山」
「はい」
エレベーターが下がり始め、足元がフワンと一瞬無重力になる。「待たせて悪いな」「いえ」と短いやり取りのあと、小さな箱の中に沈黙が降りる。なんとなく黙って階数表示を見つめる。
「そういえば、意外だったな」
ぽつりと聞こえた言葉に横を向く。
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