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7.卵焼きレッスン

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 私の首席への想いは、恋というより憧れ――いや、崇拝だった。
 彼以上にすばらしい男性なんてこの世に存在しないと思い込み、外交官としての彼の仕事の邪魔をするものは、たとえそれが自分でも許せなかった。帰国して早々、彼に群がる女性職員達を見て苦々しい気持ちでいっぱいだった。

 首席は米国にいたときと変わらず粉をかけてくる女性達をまったく相手にしなかった。そのことにほっとすると同時に、彼の方から話しかけられるたびに優越感に浸っていたりしたことは、今思い出しても床をのたうち回りたくなる。

 そんなときだった。彼女と遭遇したのは。

 最初は、子持ちの女が首席にまとわりついているのだと思った。けれどそれまで見たことのない顔を彼女に向けた首席に焦りを感じ始め、当たり前のように彼のそばで笑う彼女に腹を立てた。

〝彼の仕事がどんなにすばらしいものか、知りもしないくせに〟
〝子守りなんかで彼の貴重な時間を奪わないで〟

 今思えば、なんと傲慢で独り善がりだったのだろう。 
 首席が自分の時間をどう使おうと、誰と過ごそうと私がとやかく言う権利なんてないのだ。

 今日は彼女に、直接謝るいい機会だと思った。顔も見ずに伝言だけで謝罪を済ませてしまったことが、心のどこかに小骨のように引っかかっていたのだ。

 卵焼きをレクチャーしてもらう前に、きちんと筋を通さなければ。

 もしかしたら私を呼び出したのは、あちらからもの申したいことがあったからかもしれない。もしそうだとしたら、なにを言われても真摯に受け止めて頭を下げよう。

 エレベーターを降りた私は、玄関扉の前で呼び鈴を押す。ほぼ待つことなく扉が開いた。

「いらっしゃい。よく来たね」
「本日はお招きいただきありがとうございます」

 何事もなかったかのように頭を下げると、「暑かっただろう、さあどうぞ」と言われる。お邪魔しますと中へ入り、モダンな玄関ホールから廊下の奥へと案内される。ドアを開けると、全面ガラス張りの開放感あふれる空間が目に飛び込んできた。

 圭君のマンションに引っ越したときも、その豪華さにかなり圧倒されたが、ここも負けていない。思わず「素敵」と漏らしたら、「ありがとう」と返って来た。

「そう言えば奥様は……」

 卵焼きを教えてもらいに来たのに、肝心な先生の姿が見あたらない。きょろきょろとあたりを見回すと、後ろからパタパタと小さな足音がする。振り向くとパンダのぬいぐるみを抱えた小さな男の子が足もとをすり抜ける。結城首席の足に思いきり抱き着いた。

「ぱぱぁっ」
「お、たっくん。起きたのか」

 首席が足元にくっついている子を抱き上げた。黒目がちな丸い瞳と目が合う。瞬間、逃げるように顔を逸らされた。見たところ二歳くらいなので、きっと人見知りなのだろう。五歳の姪がこれくらいの頃はそうだったなと懐かしく思いながら、寝ぐせのついた柔らかな髪を見つめる。

「いらっしゃいませ」

 弾かれるように振り向いたら、廊下の真ん中にあるドアから黒髪の女性が出てきた。

 私よりひとつふたつ年下の彼女は、華奢な体にふわりとした淡いクリーム色のワンピースがよく似合っている。今日のレッスン講師、結城首席の奥様のさやかさんだ。

 反射的に背筋がぴしりと伸びた。

「お言葉に甘えて厚かましくもお伺いしてしまいました。せっかくのご家族でお過ごしのところお邪魔してしまい申し訳ございません。本日はどうぞよろしくお願いいたします」

 深々と頭を下げると、「そんな、頭を上げてください」と焦ったような声がする。

「こちらこそ、お忙しい中わざわざ起こしくださりとてもうれしいです。私なんかで務まるか不安ですが、一生懸命がんばりますね」

 両手を握って意気込む彼女に、がんばるのは私の方ですからと言えば、じゃあ一緒にがんばりましょうと返ってくる。はい、と返事をしたところで、隣からプッと小さく吹き出す音がした。

「ふたりとも、こんな所ではなんだから中へ入ろうか」
「あっ」

 さやかさんと声が重なり、赤くなった顔を軽く伏せながら、勧められたソファーへ腰かける。すぐ目の前の全面窓の向こうには、ビル群と夏空が広がっている。

「お外は暑かったですよね? お飲み物はアイスティでも大丈夫ですか?」
「はい。あ! お構いなく」

 窓から顔をさやかさんの方へ顔を戻したが、彼女は自分達も飲もうと思っていたところだからと言ってキッチンへと行こうとする。

「さやか。俺が準備するから、きみは座っていて」

 聞こえた声にピタリと動きを止める。さっき私と話していたときとは別人のように甘く艶やかな声だ。
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