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7.卵焼きレッスン
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しおりを挟む圭君とのサプライズデートから瞬く間に一週間が過ぎた。土曜日の午後、私はひとり、ある場所へと来ていた。
「えっと、ここ……で合ってるわよね?」
スマートフォンに設定した目的地と目の前の建物は一致している。あらかじめ教えてもらっていた住所は、驚いたことに、今暮らしている圭君のマンションから地下鉄ひと駅しか離れていなかった。
まるでラグジュアリーホテルのような豪華なエントランスに気おされかけるが、職務で訪れるならよくあることだと気を取り直す。大理石の台座に埋め込まれたインターホンに部屋番号を押した。
『よく来たね。どうぞ』
知った声が聞こえてすぐ、自動扉が開いた。中からよく冷えたエアコンの風が顔にあたり、無意識にほおっと息をつく。地下鉄を出てからここまで数分歩いただけなのに、額に汗がにじんでいたのだ。
艶やかな大理石が敷き詰められた開放的なエントランスホールを横切り、奥にあるエレベーターへと乗り込んだ。
この豪華なマンションの一室に、結城首席の自宅がある。
そう、今日はこれから、先週お誘いを受けた『卵焼き講習会』がここで行われるのだ。
今日のことは、圭君には『ちょっと講習会に行かないといけなくなって』とだけ伝えた。
本当は正直に、卵焼きの上手な作り方を上司の奥さんからレクチャーしてもらうのだと言ってもよかった。だけどせっかくなら秘密にして驚かせたくなった。おいしい卵焼きを焼けたら、彼は喜んでくれるだろうか。
先週のデート以降、彼の様子がなんだかそれまでと変わってきた気がしている。それがなんなのか、実は私自身もよくわかっていない。爽やかで優しくてとても頼りになるところはなにも変わらない。むしろさらに度合いが増した気がする。こんな完璧な旦那様がほかにいるのだろうかと、思わず通勤途中に周りを見回してしまったくらいだ。
ただ、夜――というか、家にいるときはかなりの頻度で求められることが増えた。
今朝だって――。
『あの、圭く……んっ』
『ん?』
『も、もう起きなきゃ。私今日は出かけなきゃ……んっ』
『ああ、もうこんなにして。ゆうべもあんなにシたのにまだ足りない?』
『そんなことは』
『俺はまだ全然足りない。もっと欲しいよ、おまえが』
『……っ!』
そんなふうに言われたら私なんてひとたまりもない。なにせ彼への恋心を自覚したばかりなのだ。ささいなことでも心臓が止まりそうなほどときめいてしまうのだから、求められて断れという方が無理だ。
そうして生まれたてのヒヨコのようにあっけなく彼の手に墜ちた私は、午前中いっぱいをベッドの中で過ごし、お昼ご飯をきちんと取るひまもなく家を出ることとなった。
着替える前にシャワーをすると言ったら、お詫びに洗ってあげると言われたが、断固としてお断りした。そんなことをしたら間違いなく遅刻してしまう。上司のお宅にお邪魔するのに、遅れていくなんて絶対にあり得ない。
圭君はすこし残念そうにしながらも、その後は快く送り出してくれた。
数時間前のことを思い出したせいで、せっかくエアコンで冷やされた顔がまたしても熱くなってしまう。
もし上達した卵焼きを彼が喜んでくれたら、この気持ちを彼に告げよう。告白をするのだ。
すでに夫婦となっているのに今さらだけど、今度こそ逃げずに自分の気持ちをすきな人に伝えたい。もしかしたら困らせてしまうかもしれないけれど、彼は私を冷たく突き放すような人ではない。少しずつでいいから私のことを〝女として〟好きになってもらえるように努力すると伝えたい。十年前に諦めたことを、今度こそ諦めずにがんばりたい。
その前になすべきことがある。
手土産の紙袋を持った手に自然と力が入った。
もしかしたら今回、結城首席の奥様が卵焼きの作り方を私にレクチャーしてもいいと思ったのは、私に直接もの申したいことがあるのかもしれない。以前私は彼女にしたことに対して、謝罪を伝言で済ませてしまった。私もずっとそのことが気になっていたが、自分から進んで顔を合わせることができなかったのである。
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