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7.近づいたと思ったら
7-③
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「体育館よりはましだな」
「うん」
教室に入ると、そこにはだれもいなかった。電灯のついていない教室は、外の明るさから浮いている。まるで、ここだけ窓の外とはべつの時間が流れているみたいな不思議な空間だ。余計な身体の力がすっと抜けていく気がする。そのまま、電気のスイッチには触れずに自分たちの席についた。窓を全開にするだけで、乾いた風が汗を冷やして心地いい。
長い息を吐いて、シュウが肩を上下させる。すこしでも楽になっただろうか。椅子を横にして、こちらを向くようにして腰かけるシュウの表情を、そっとうかがう。目を閉じて風を受ける横顔は、ひどくおだやかだった。
俺もシュウも、口数の多いタイプではない。ふたりでいると、いつも黙りこんでいるような気がした。この前にふたりだけになったのは、傷の手当てをしたときだった。
「……暑かっただろ」
力を抜いているシュウの様子が、俺の背中を押した。シュウはいま、俺を拒絶しないような気がしたのだ。
「……ありがとう」
風を受けてよろこんでいたシュウの瞳の輝きが、ふっと落ち着いたのがわかった。こちらを向いて、目尻をさげておだやかに笑う。いつもと雰囲気のちがう笑顔にどきりとした。受け入れてもらえた。そんな確信が、胸にじんわりと広がる。
「ぜんぜん汗かかないんだな」
肘をついて、あごを手のひらで支える。窓の向こうに見える空を見あげるようにして首を傾けた。一拍おいて、シュウもおなじほうを向くのがわかった。
「慣れと……気合だよ。女優なんかでもいるでしょ、カメラまわってると平気って言うひと」
ちらりとシュウを見て、すぐに視線をもとに戻す。シュウは、いつもカメラの前に立っているんだろうか。いま聞こえてくるしずかな声音からは、カメラの気配は感じられなかった。
「言い聞かせるんだ。暑くない、暑いなんて言う権利、俺にはない、って」
いまのところ成功してるよ、とシュウは自嘲するように笑った。権利ということばの重さに、のどが詰まる。
「……だから、痛いのも我慢すんの」
なにが言いたいのかわからないという表情でシュウがこちらを見ていた。その視線を受けとめて口を開く。俺とシュウのほかはだれもいないのに、無意識のうちに声をひそめていた。
「バレーしてて、痛くないわけないだろ」
真正面から訊くことができずに、つっけんどんな調子になった。俺の意図が伝わったのか、シュウはああと言って、また自分を笑った。
「そうだよ。自業自得だし、それに痛いなんて言ったら理由を訊かれるでしょ。秘密にしたいなら、それにつながるようなことは知られちゃいけないんだ」
わかるでしょ、とシュウは笑う。そうだ、言われなくたって、わかるはずだ。もし痛がったら、もし暑がったら、ひとは理由を尋ねるだろう。シュウはそれに答えたくもないし、うそをつきたくもないのだ。
シュウのほうに目をやろうとして、その横顔をとらえることができなかった。そらした視線がさまよって、シュウの机のなかに止まる。そこには、あのらくがきが描かれたノートがあった。
「……なあ」
口に出してから、声をかけてしまったことを後悔した。気が緩んでいたのだろうか、この話をするつもりはなかったのに。シュウがこちらを向いて首を傾げる。うながすようなその様子を見て、ことばが勝手に転がり出る。
「そのノートのらくがきって、それになんか関係ある?」
「それ」がなにを指すのか、シュウにはわかったようだった。左腕に目をやる俺の顔を見ても、シュウの表情はおだやかなままだ。
「……うん。明にはわかっちゃったか」
そう言って、恥ずかしそうにまた窓のほうを向いてうつむく。やわらかにほほえむ横顔からは諦めの色が見えた。シュウは、いったいなにを諦めてきたのだろう。その表情の向こう側は、深い淵のようで見えなかった。
「授業中にさ、どうしても我慢できないときがあって……そういうとき描くんだ、なんにも考えずに、いつもみたいに」
いつも、というのが自分を傷つけるときだということが、そのことばから伝わってきた。シュウが、ひとりで耐えていた証。それを、俺は笑ったのだ。知らないとは、なんて残酷なんだろう。
「……ごめん、俺、あのらくがきばかにした」
黙っていることができなかった。机に額をつけるようにして頭をさげる。顔をあげると、シュウは困ったように笑っていた。
「いいよ。笑ってくれたほうが気が楽だったし」
シュウは、また我慢したのだろうか。俺が自分を責めないよう、こんなふうに言ったのかもしれない。
がらんとした教室で、すみっこの席にふたり並んで座っているのは、なんだか不思議な気分だった。グラウンドや体育館から離れたこの場所には、一堂に会している生徒の声も届かない。こんなに近くにいるのに、シュウの呼吸はとてもしずかで聞こえなかった。
「すごいな、シュウは」
正直な感想だった。耐えるということは、ひどく難しい。俺はいつだって、我慢することなくたくさんのものから逃げてきた。走ることからも、美奈子からも。他人と関わるなかで必要になる気遣いですらできなくて、ひとと深く付き合うことも避けてきた。傷を隠してすごすことは、想像以上につらいだろう。シュウは、ほんとうにすごい。
「……すごくなんかないよ」
空を見あげたシュウの声がすっと温度を失う。その冷たい響きに驚いて、その横顔を見た。
「すごくなんか、ない」
繰り返したシュウのまつげの先がさみしそうで、なにか言わなくてはと思った。
「シュウ、」
「あ、いた。おーい、試合はじまるぞ」
言いかけたことばは、廊下を走ってきたクラスメイトの声で遮られた。おう、と返事をして席を立つ。シュウも俺にならって教室を出た。
バレーボールは勝ったり負けたりを繰り返し、結局入賞もできなかった。武本のサッカーは二位になったけれど、俺たちのクラスは全体のまんなかの順位に終わった。
放課後、学校の周りを走りながらシュウのことを考えた。どんなに考えても、あのさみしそうな表情の理由は想像できなかった。
「うん」
教室に入ると、そこにはだれもいなかった。電灯のついていない教室は、外の明るさから浮いている。まるで、ここだけ窓の外とはべつの時間が流れているみたいな不思議な空間だ。余計な身体の力がすっと抜けていく気がする。そのまま、電気のスイッチには触れずに自分たちの席についた。窓を全開にするだけで、乾いた風が汗を冷やして心地いい。
長い息を吐いて、シュウが肩を上下させる。すこしでも楽になっただろうか。椅子を横にして、こちらを向くようにして腰かけるシュウの表情を、そっとうかがう。目を閉じて風を受ける横顔は、ひどくおだやかだった。
俺もシュウも、口数の多いタイプではない。ふたりでいると、いつも黙りこんでいるような気がした。この前にふたりだけになったのは、傷の手当てをしたときだった。
「……暑かっただろ」
力を抜いているシュウの様子が、俺の背中を押した。シュウはいま、俺を拒絶しないような気がしたのだ。
「……ありがとう」
風を受けてよろこんでいたシュウの瞳の輝きが、ふっと落ち着いたのがわかった。こちらを向いて、目尻をさげておだやかに笑う。いつもと雰囲気のちがう笑顔にどきりとした。受け入れてもらえた。そんな確信が、胸にじんわりと広がる。
「ぜんぜん汗かかないんだな」
肘をついて、あごを手のひらで支える。窓の向こうに見える空を見あげるようにして首を傾けた。一拍おいて、シュウもおなじほうを向くのがわかった。
「慣れと……気合だよ。女優なんかでもいるでしょ、カメラまわってると平気って言うひと」
ちらりとシュウを見て、すぐに視線をもとに戻す。シュウは、いつもカメラの前に立っているんだろうか。いま聞こえてくるしずかな声音からは、カメラの気配は感じられなかった。
「言い聞かせるんだ。暑くない、暑いなんて言う権利、俺にはない、って」
いまのところ成功してるよ、とシュウは自嘲するように笑った。権利ということばの重さに、のどが詰まる。
「……だから、痛いのも我慢すんの」
なにが言いたいのかわからないという表情でシュウがこちらを見ていた。その視線を受けとめて口を開く。俺とシュウのほかはだれもいないのに、無意識のうちに声をひそめていた。
「バレーしてて、痛くないわけないだろ」
真正面から訊くことができずに、つっけんどんな調子になった。俺の意図が伝わったのか、シュウはああと言って、また自分を笑った。
「そうだよ。自業自得だし、それに痛いなんて言ったら理由を訊かれるでしょ。秘密にしたいなら、それにつながるようなことは知られちゃいけないんだ」
わかるでしょ、とシュウは笑う。そうだ、言われなくたって、わかるはずだ。もし痛がったら、もし暑がったら、ひとは理由を尋ねるだろう。シュウはそれに答えたくもないし、うそをつきたくもないのだ。
シュウのほうに目をやろうとして、その横顔をとらえることができなかった。そらした視線がさまよって、シュウの机のなかに止まる。そこには、あのらくがきが描かれたノートがあった。
「……なあ」
口に出してから、声をかけてしまったことを後悔した。気が緩んでいたのだろうか、この話をするつもりはなかったのに。シュウがこちらを向いて首を傾げる。うながすようなその様子を見て、ことばが勝手に転がり出る。
「そのノートのらくがきって、それになんか関係ある?」
「それ」がなにを指すのか、シュウにはわかったようだった。左腕に目をやる俺の顔を見ても、シュウの表情はおだやかなままだ。
「……うん。明にはわかっちゃったか」
そう言って、恥ずかしそうにまた窓のほうを向いてうつむく。やわらかにほほえむ横顔からは諦めの色が見えた。シュウは、いったいなにを諦めてきたのだろう。その表情の向こう側は、深い淵のようで見えなかった。
「授業中にさ、どうしても我慢できないときがあって……そういうとき描くんだ、なんにも考えずに、いつもみたいに」
いつも、というのが自分を傷つけるときだということが、そのことばから伝わってきた。シュウが、ひとりで耐えていた証。それを、俺は笑ったのだ。知らないとは、なんて残酷なんだろう。
「……ごめん、俺、あのらくがきばかにした」
黙っていることができなかった。机に額をつけるようにして頭をさげる。顔をあげると、シュウは困ったように笑っていた。
「いいよ。笑ってくれたほうが気が楽だったし」
シュウは、また我慢したのだろうか。俺が自分を責めないよう、こんなふうに言ったのかもしれない。
がらんとした教室で、すみっこの席にふたり並んで座っているのは、なんだか不思議な気分だった。グラウンドや体育館から離れたこの場所には、一堂に会している生徒の声も届かない。こんなに近くにいるのに、シュウの呼吸はとてもしずかで聞こえなかった。
「すごいな、シュウは」
正直な感想だった。耐えるということは、ひどく難しい。俺はいつだって、我慢することなくたくさんのものから逃げてきた。走ることからも、美奈子からも。他人と関わるなかで必要になる気遣いですらできなくて、ひとと深く付き合うことも避けてきた。傷を隠してすごすことは、想像以上につらいだろう。シュウは、ほんとうにすごい。
「……すごくなんかないよ」
空を見あげたシュウの声がすっと温度を失う。その冷たい響きに驚いて、その横顔を見た。
「すごくなんか、ない」
繰り返したシュウのまつげの先がさみしそうで、なにか言わなくてはと思った。
「シュウ、」
「あ、いた。おーい、試合はじまるぞ」
言いかけたことばは、廊下を走ってきたクラスメイトの声で遮られた。おう、と返事をして席を立つ。シュウも俺にならって教室を出た。
バレーボールは勝ったり負けたりを繰り返し、結局入賞もできなかった。武本のサッカーは二位になったけれど、俺たちのクラスは全体のまんなかの順位に終わった。
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