かさなる、かさねる

ユウキ カノ

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4.はじめて知る

4-②

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「剣持」
 部活を辞めて以来、ろくに話しかけてこなかった監督に話しかけられたのは、三年生最後の大会を一か月後に控えたころだった。ゴールデンウイーク明けの空は暑苦しいくらいに晴れていて、教室には真上からまぶしい光が差し込んでいる。昼休みは休息の時間だ。短い時間で無理に走ろうとは思わない。女子が集まっている教室の隅で、ひとり勉強をしているときだった。
 ちょっといいか、と監督は言った。となりのクラスの担任で、授業を受け持ってもらうこともない。久しぶりに近くで見あげた監督の背は高くて、肩幅も広かった。
 いまさら、いったいなにを話そうと言うんだろう。部活に戻ってこいと誘われてもはねつけようと決めた。けれどつぎの瞬間、監督の口から出たのは予想もしないことばだった。
「杉崎のことなんだが」
 一気に胸がひんやりとする。気持ちの悪い冷えだった。
 杉崎というのは美奈子のことだ。ずっと逃げつづけていたことに向き合わされるのだとわかった。美奈子の担任は監督だった。ちいさな学校だ。俺たちが付き合っていることを、監督が知らないはずがない。
「会いにいってやってくれないか」
 ごくり、とのどが鳴る。視線をそらさないようにするのがせいいっぱいだった。美奈子の家は知っている。それでも訪ねようとしなかったのは、気後れしていたからだ。学校にこなくなった彼女に、俺がしてやれることなんてなにもない。だってそうだ。最後の日、俺はあいつになにもできなかった。
「もう関係ないと思ってるかもしれないが……頼む」
 違和感がすっとやってきて、どうしてそう感じたのかわからないまま、すぐにどこかへ消える。監督に頭をさげられたのははじめてだった。問題を抱えた生徒を担任する教員の気持ちなんてわからない。先生というのはいつだって上から俺たちを見ている。こちらから歩み寄ることなんてありえない。
 でも、俺は監督のことが嫌いではなかった。そしてなにより、美奈子のことが気になっているのも事実だったのだ。
「……わかりました」
 返事を聞いたときの監督のほっとしたような表情を見た瞬間に、承諾したことを後悔した。同時に、罪悪感みたいなものを覚えた。自分になにかできるとは思えない。一番近くにいた存在すら気にかけることができなかった。そんな俺が美奈子にしてやれることなんてあるのだろうか。
 放課後になるまで貧乏揺すりが止まらなかった。授業も頭に入ってこなくて、気づいたら教室にひとりになっていた。のっそりと帰り支度をして、学校を出る。
 いつもなら走っている時間に歩いているのは変な気分だった。桜並木の入り口まできてから、リュックの前ベルトを締める。ざわつく胸を抑えるためにも、走っていこうと決めた。
 公園に沿ってつづく細道を抜けて、ちいさな橋のところまであっというまに着いた。これまで美奈子に会うためにこの橋を渡ったことはない。
 押しボタンを押して信号が変わるのを待っているあいだ、引き返したくなる自分がいるのを否定することはできなかった。迷っているうちに信号が変わって、横断歩道を挟んで両側に車がどんどんたまっていく。そのエンジン音に急かされるようにして、左足を前に振り出した。
 美奈子の家は、俺たちが子どものころできた新興住宅地のまんなかにあった。家の前に車が止まっているから、親がいるに違いない。何回か深呼吸して、インターホンを押す。
「はい」
 ドアから顔を出したのは美奈子の母親だろう。監督が連絡していたらしく、名乗ったら笑顔で家にあげてもらえた。いや、笑顔と形容するには、それはすこし固い表情だった。外がまだ明るいからだろうか、家のなかは電気がついていてもどこか暗い。その場所で陰鬱とした表情を浮かべる母親の雰囲気に、気持ちが重くなった。
「美奈子と付き合ってたんですってね」
 高そうなカップで紅茶を出したあと、しばらく黙りこんでいた美奈子の母親が絞り出すように声を出した。
「……はい」
 俺も、たっぷり時間を置いてから返事をした。違和感が、胸を刺す。
 部屋のいたるところに、パッチワークのタペストリーやカバーが置いてある。目の前にいるこのひとの手作りだろうか。ふと棚に目をやると、縫いかけの布がクッキーの缶におさまっていた。座るよう言われたソファのうえにも、赤と茶を基調としたパッチワークのカバーがかかっている。そのもこもことした質感にむずがゆさを感じるのは、単純に居心地が悪いからだろうか。
「ありがとうね。もうずっと会ってないのに」
 なんとか笑おうとしたことばは、涙まじりになって聞こえた。
「美奈子ね、部屋から出てこないの。学校にもいきたくないって言って、理由を聞いてもいきたくないって繰り返すだけなのよ。わたしがいないときのほうが部屋から出やすいみたいだから、いつも出かけていることが多いんだけど……今日出かけてなくてよかった」
 返すことばが見つからなかった。突然、この家にいるはずの美奈子の息遣いが聞こえるような気がしてくる。俺たちが話す声は、美奈子に聞こえているだろうか。
「あの子のこと心配してきてくれたの、剣持くんがはじめてなのよ」
 語尾が震える。そのことばを聞いて、確信した。美奈子は、学校でひとりだった。美奈子のいない「穴」さえ感じられなかったとなりのクラスを思いだす。彼女のとなりにいる同級生を想像することができなかったのは、俺が関心を持っていなかったからではないのだ。美奈子の母親も、そのことに気づいているみたいだった。もしかしたら、監督からなにか聞いているのかもしれない。
 俺は大人を、自分たちより強い存在だと思っている。つらいことなんてなくて、いつも偉そうにしているだけなのが大人だと思っている。そう、思っていた。でも、さげられた監督の頭を思いだして、目の前にいるこのひとの瞳からいまにも落ちそうな涙を見て、それは間違いだったと知る。大人にだって泣きたいときはあるのだ。
 大人の女のひとが憔悴しきっているさまを見るのはきつい。こういうとき、自分がまだ子どもだと思い知らされる。美奈子になにかしてやるどころか、だれかが苦しんでいる場面に居合わせても、その心を慰めることばさえ出てこない。
「あの」
 この感情が、このひとにとって癒しになるかどうかはわからない。まして、なにも告げず学校へこなくなってしまった美奈子に、俺のすることが救いになるとは思えなかった。それでも、監督に、美奈子の母親に、言いたいことがあった。
「俺、美奈子、さん、と別れたつもりはないです」
 さっき感じた違和感の正体はこれだった。監督も、このひとも、「付き合っていた」と、そう言った。俺たちの関係を過去形にしていいと、いったいだれが決めたのだろう。決めるのは俺と美奈子だ。あの日、あの終業式の日、美奈子は言ったのだ、またね、と。
「……ずっとこられなくて、すいませんでした」
 口にした瞬間、後悔が一気に身体を埋め尽くす。謝る相手がちがうことはわかっていた。それでも、頭をさげずにはいられなかった。
 顔をあげられずにいる俺の耳に、洟をすする音が聞こえてきた。ティッシュを箱から抜きとる気配がして、パッチワークだらけの部屋に響く呼吸が安定するまで俺はうつむいたままでいた。
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