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4.はじめて知る
4-③
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それ以来、美奈子の家に通うことにした。俺がきたことは、毎回必ず彼女に伝えられているらしい。俺の名前を出しても、彼女に変わった様子はなかったということだった。
美奈子の母親(杉崎さん、と呼ぶことに決めた)は、学校での娘の様子を聞きたがった。「あの子は、学校でどんな感じだったかしら」と、しばらく無言の時間をすごしてから決まって口にするのだ。そうして訊ねられても、どんなふうに美奈子が日常をすごしていたのか、俺はなにも知らなかった。一緒にいたのは、放課後のわずかな時間だけだ。だから必然的に、俺はいつも自分の話をした。杉崎さんは、俺がなにも知らないことに気づいていただろう。それでも何度だっておなじ質問をする。まるで俺のことばのなかに、崩れてしまった美奈子の欠片を探すみたいに。
一週間のうちで唯一授業が早く終わる水曜日に、桜並木を抜け、ちいさな橋を渡って美奈子の家に顔を出すのが習慣になっていった。まず土手を何周か走ってから学校を出る。吹奏楽部が楽器を思い思いに演奏する音が遠ざかると、美奈子と向き合う決意が固まるのだ。
「あの子はね、昔からなにも言わなかったの」
杉崎さんは俺の話を黙って聴いたあと、ぽつりぽつりと美奈子の話をした。
「怒ったり泣いたりもそうだけど、たのしいこともあんまりたのしいと言わなかった。いつもにこにこして、ぜんぶ受け入れちゃう子なの」
「……わかります」
俺の知っている美奈子もそうだ。彼女を邪険に扱ったことはなかった。けれど、大切にした記憶もなかった。それでも文句ひとつ言わず、俺の走りたいという思いを、笑顔で受けとめてくれたのだ。
それなのに。
美奈子が部屋から出てこなくなった理由は、杉崎さんと監督の話からなんとなく察していた。彼女は、俺が感じていたとおり、クラスで空気のような存在だったらしい。生きるために必要な酸素、という意味ではない。たしかにそこに在るのに、ないものとして扱われていたのだ。いじめ、と呼ぶには形のないものだったのかもしれない。監督は、どうすることもできなかったと言っていた。
「学校はたのしいかって訊くとな、はい、って笑って答えるんだ」
この前、監督がぽつりと漏らしたことがあった。心配しても、その気持ちを受けとってもらえなかった、と。信用されていなかったからだな、と監督は言っていたけれど、杉崎さんの話と俺の印象を合わせれば、笑う美奈子は想像に難くない姿だった。
なにも知らなかった自分をうらめしく思う。あの終業式の日、美奈子はこのことを伝えようとしたんじゃないだろうか。もし俺が彼女の置かれている状況を知っていたら、あのとき引きとめて話を聞くこともできたかもしれない。
俺は、あの日のことを杉崎さんにも監督にも話していなかった。美奈子はきっと、俺だけに告白しようとしてくれたのだ。だれにも言うことのできなかった思いを、吐き出そうとしていた。それなのに俺は、受けとめてやることができなかった。
自分を責めるのは簡単だった。感謝されこそすれ、俺を怒るひとはいない。美奈子の気配は、学校にも杉崎家にもない。唯一、毎週水曜に通う家の玄関にあるローファーだけが、俺に美奈子の存在を思いださせている。彼女は俺のなかで、幻想のようになっていった。まるで自慰行為のような後悔が、胸のなかを占めていく。
夏休みに入っても、家庭訪問は続いていた。学校があるころとおなじ、水曜日の夕方に向かうのが決まりになっていた。中学を中心にして真反対にある自宅から、美奈子の家まで走っていった。ウォームアップのような軽い運動だったけれど、炎天下からエアコンの効いた室内に入って冷たい麦茶を飲む瞬間がたのしみになっていた。
夏休みが終わって、空気がすこしひんやりするようになってからもそれは習慣になっていた。美奈子の家を訪ねるということがイコール杉崎さんと話す時間だと身体に染みついてから、俺はどこか救われたような気がしていた。こうして通うことで、美奈子になにもしてやれなかった罪悪感が軽くなっていくんじゃないかと思った。
ひとは忘れなければ生きてはいけない。けれど、そんなあまい考えが打ち砕かれる日は、唐突にやってきた。
合唱コンクールが近くなった、十月のことだった。水曜の放課後、いつものように土手を走っていると、そこからグラウンドで練習する陸上部の下級生が見えた。最後に出場した新人戦を思いだす。もうあれから一年が経つのだ。苦しさのなかで走りつづけていたあのころから比べれば、いまはたのしいと言っても過言ではない日々をすごしていた。
こうしてひとりで走っているのは楽だ。純粋に風を感じることができる。これから杉崎さんに会いにいくということを考えても、はじめのころみたいに重圧は感じなかった。
軽い足取りで美奈子の家に向かうと、すぐに杉崎さんが迎えてくれた。最初に会ったときよりはずいぶん顔色がよくなった気がする。いまの状況に「慣れた」のだ、と目の前の女性は言っていた。
そう、ひとは慣れるのだ。娘の不調にも、恋人への罪悪感にも。
この一週間どんなふうにすごしていたか、いつものように杉崎さんに報告する。合唱コンクールに向けて練習をしていること、俺は歌が得意ではないことを、あたたかい紅茶片手にぽつりぽつりと話していた、そのときだった。
カタン、とだれかが階段を降りてくる音がした。だれか、なんて言うまでもなかった。この家には、俺たちのほかに美奈子しかいない。階段は、玄関からまっすぐに伸びている。とっさに目の前に視線をふると、杉崎さんは驚いたように、そして幾分怯えたように、リビングの入り口を見つめていた。
すりガラスのはまったドアの向こうに、長い髪とピンクの服が見えた。時間の流れがやけに遅く感じて、俺は普段なら聞こえもしない、この住宅街を取り囲む大通りを走る車の音さえ耳に届くような気がした。
「美奈子……」
ドアがゆっくりと開く。杉崎さんのつぶやきで、俺はそれが美奈子だと認識することができた。それは、たしかに美奈子だった。でも、乾燥して広がった髪や口角のさがった表情のない顔は、俺の知っている彼女の、明るく瑞々しいものとはあきらかにちがっていた。
うつむいている顔が、俺のほうを見る。その黒目がちな瞳を認めて、「明くん、おつかれ」と、なつかしい声が頭のなかで響いた。
こういう感情を、ひとは愛しさと呼ぶのだろうか。喉元がぎゅっと苦しくなって、思わず泣いてしまうかと思った。突然突き上げてきた感情を整理できないまま、俺は彼女の名前を呼ぼうとした。
「みな、」
「なにしてるの」
呼びかけは、美奈子の静かな声で遮られた。聞いたことのない堅い声音に、びくりと肩が跳ねる。
「なにって、お前のことが心配だったから」
「だったから?」
過去形になってしまったことを指摘されてことばに詰まる。彼女がなにを言わんとしているのかわからないのに、胸のなかで警鐘が鳴りつづけていた。
「ほんとうに心配してた? ただ居心地が悪かっただけじゃないの」
そんなことない、と言おうとして、言えなかった。
「心配してるなら、どうしてそんなにたのしそうに話してるの。どうして、わたしのところにこないの」
杉崎さんの身体が震えているのが視界の端に見える。
「わたしの部屋、ぜんぶ聞こえてるんだよ。知ってた?」
美奈子は俺たちからすこし距離を置いたまま、責める口調で話しつづけていた。ぎゅっと身体を縮こまらせて声を荒げる姿は細く、あまりにも頼りなかった。
「美奈子、心配してなかったら毎週きてくれるわけないでしょう。そんなこと言わないで」
「……うるさい!」
杉崎さんがやわらかい声で話しかけた。それに見向きもしないで、美奈子は俺に対して視線を向けたままだ。
「わたしのつらさなんて、わかんないでしょ!」
射るような目がうるんでいる。美奈子はものわかりがいい彼女だった。俺たちの関係を、変えなくていいと思っていると信じていた。
ちがった。ほんとうは、ずっと我慢していたのだ。
「わたしのことなんてなんにも見てなかったくせに!」
そう言った瞬間、美奈子の目から涙が溢れた。ひとはこんなにも泣くことができるのかと思うほど大粒の涙が、瞬きすらしていないのに次々にこぼれる。鼻水も流れてきて、美奈子の顔はもうぐちゃぐちゃだった。
視界が悪くなったからか、肌が濡れて気持ちが悪いのか、美奈子が両手で顔を拭う。ゆるくなっている袖口がさがって、白い腕があらわになった。
俺と、そして杉崎さんが、ひゅっと息を吸う音が聞こえた。
美奈子の腕には、真っ赤な傷がきれいに並んでいた。すっかり痕になった傷、つい最近つけられた傷。一朝一夕で傷つけられたのではないと、一瞬でわかる腕だった。
そう、あえて彼女に尋ねるまでもなかった。それは、美奈子自身によって傷つけられたものだということがあきらかだったからだ。
傷がさらされているのも気にせず、涙を流しながら床に崩れ落ちていく美奈子に杉崎さんが一瞬遅れてから駆け寄る。震える肩に手をかけた母親の手を、彼女は今度こそ受け入れた。
「みんなわかんないんだ……みんな……!」
わからない、と美奈子が繰り返す。気づいたら、俺はいつのまにか立ちあがっていた。震えが止まらないまま杉崎さんを見ると、美奈子とおなじように全身で泣いていた。
剣持くん、と杉崎さんの唇が動いたのを見て、ずっと止めていた息を吐き出す。
「……今日は帰りなさい」
いま、自分にできることなどなかった。どうすることが正解かもわからなくて、思考することをやめた。うまく動かせない指先でリュックを掴んで、美奈子を見ないようにドアをすり抜ける。いつもなら走っていけるよう靴紐を結びなおすのに、足を無理やりつっこんだだけで外に出た。お邪魔しました、と、こんなときでもちいさく声に出してしまう自分ののんきさにあきれながら。
リュックを背負って走りだす。前ベルトを締めるのも忘れていた。靴紐のゆるさが気になったけれど、家まで、ただがむしゃらに走った。どんなに早く走っても、頭のなかに美奈子のことばと赤い傷がこびりついて離れなかった。
美奈子の母親(杉崎さん、と呼ぶことに決めた)は、学校での娘の様子を聞きたがった。「あの子は、学校でどんな感じだったかしら」と、しばらく無言の時間をすごしてから決まって口にするのだ。そうして訊ねられても、どんなふうに美奈子が日常をすごしていたのか、俺はなにも知らなかった。一緒にいたのは、放課後のわずかな時間だけだ。だから必然的に、俺はいつも自分の話をした。杉崎さんは、俺がなにも知らないことに気づいていただろう。それでも何度だっておなじ質問をする。まるで俺のことばのなかに、崩れてしまった美奈子の欠片を探すみたいに。
一週間のうちで唯一授業が早く終わる水曜日に、桜並木を抜け、ちいさな橋を渡って美奈子の家に顔を出すのが習慣になっていった。まず土手を何周か走ってから学校を出る。吹奏楽部が楽器を思い思いに演奏する音が遠ざかると、美奈子と向き合う決意が固まるのだ。
「あの子はね、昔からなにも言わなかったの」
杉崎さんは俺の話を黙って聴いたあと、ぽつりぽつりと美奈子の話をした。
「怒ったり泣いたりもそうだけど、たのしいこともあんまりたのしいと言わなかった。いつもにこにこして、ぜんぶ受け入れちゃう子なの」
「……わかります」
俺の知っている美奈子もそうだ。彼女を邪険に扱ったことはなかった。けれど、大切にした記憶もなかった。それでも文句ひとつ言わず、俺の走りたいという思いを、笑顔で受けとめてくれたのだ。
それなのに。
美奈子が部屋から出てこなくなった理由は、杉崎さんと監督の話からなんとなく察していた。彼女は、俺が感じていたとおり、クラスで空気のような存在だったらしい。生きるために必要な酸素、という意味ではない。たしかにそこに在るのに、ないものとして扱われていたのだ。いじめ、と呼ぶには形のないものだったのかもしれない。監督は、どうすることもできなかったと言っていた。
「学校はたのしいかって訊くとな、はい、って笑って答えるんだ」
この前、監督がぽつりと漏らしたことがあった。心配しても、その気持ちを受けとってもらえなかった、と。信用されていなかったからだな、と監督は言っていたけれど、杉崎さんの話と俺の印象を合わせれば、笑う美奈子は想像に難くない姿だった。
なにも知らなかった自分をうらめしく思う。あの終業式の日、美奈子はこのことを伝えようとしたんじゃないだろうか。もし俺が彼女の置かれている状況を知っていたら、あのとき引きとめて話を聞くこともできたかもしれない。
俺は、あの日のことを杉崎さんにも監督にも話していなかった。美奈子はきっと、俺だけに告白しようとしてくれたのだ。だれにも言うことのできなかった思いを、吐き出そうとしていた。それなのに俺は、受けとめてやることができなかった。
自分を責めるのは簡単だった。感謝されこそすれ、俺を怒るひとはいない。美奈子の気配は、学校にも杉崎家にもない。唯一、毎週水曜に通う家の玄関にあるローファーだけが、俺に美奈子の存在を思いださせている。彼女は俺のなかで、幻想のようになっていった。まるで自慰行為のような後悔が、胸のなかを占めていく。
夏休みに入っても、家庭訪問は続いていた。学校があるころとおなじ、水曜日の夕方に向かうのが決まりになっていた。中学を中心にして真反対にある自宅から、美奈子の家まで走っていった。ウォームアップのような軽い運動だったけれど、炎天下からエアコンの効いた室内に入って冷たい麦茶を飲む瞬間がたのしみになっていた。
夏休みが終わって、空気がすこしひんやりするようになってからもそれは習慣になっていた。美奈子の家を訪ねるということがイコール杉崎さんと話す時間だと身体に染みついてから、俺はどこか救われたような気がしていた。こうして通うことで、美奈子になにもしてやれなかった罪悪感が軽くなっていくんじゃないかと思った。
ひとは忘れなければ生きてはいけない。けれど、そんなあまい考えが打ち砕かれる日は、唐突にやってきた。
合唱コンクールが近くなった、十月のことだった。水曜の放課後、いつものように土手を走っていると、そこからグラウンドで練習する陸上部の下級生が見えた。最後に出場した新人戦を思いだす。もうあれから一年が経つのだ。苦しさのなかで走りつづけていたあのころから比べれば、いまはたのしいと言っても過言ではない日々をすごしていた。
こうしてひとりで走っているのは楽だ。純粋に風を感じることができる。これから杉崎さんに会いにいくということを考えても、はじめのころみたいに重圧は感じなかった。
軽い足取りで美奈子の家に向かうと、すぐに杉崎さんが迎えてくれた。最初に会ったときよりはずいぶん顔色がよくなった気がする。いまの状況に「慣れた」のだ、と目の前の女性は言っていた。
そう、ひとは慣れるのだ。娘の不調にも、恋人への罪悪感にも。
この一週間どんなふうにすごしていたか、いつものように杉崎さんに報告する。合唱コンクールに向けて練習をしていること、俺は歌が得意ではないことを、あたたかい紅茶片手にぽつりぽつりと話していた、そのときだった。
カタン、とだれかが階段を降りてくる音がした。だれか、なんて言うまでもなかった。この家には、俺たちのほかに美奈子しかいない。階段は、玄関からまっすぐに伸びている。とっさに目の前に視線をふると、杉崎さんは驚いたように、そして幾分怯えたように、リビングの入り口を見つめていた。
すりガラスのはまったドアの向こうに、長い髪とピンクの服が見えた。時間の流れがやけに遅く感じて、俺は普段なら聞こえもしない、この住宅街を取り囲む大通りを走る車の音さえ耳に届くような気がした。
「美奈子……」
ドアがゆっくりと開く。杉崎さんのつぶやきで、俺はそれが美奈子だと認識することができた。それは、たしかに美奈子だった。でも、乾燥して広がった髪や口角のさがった表情のない顔は、俺の知っている彼女の、明るく瑞々しいものとはあきらかにちがっていた。
うつむいている顔が、俺のほうを見る。その黒目がちな瞳を認めて、「明くん、おつかれ」と、なつかしい声が頭のなかで響いた。
こういう感情を、ひとは愛しさと呼ぶのだろうか。喉元がぎゅっと苦しくなって、思わず泣いてしまうかと思った。突然突き上げてきた感情を整理できないまま、俺は彼女の名前を呼ぼうとした。
「みな、」
「なにしてるの」
呼びかけは、美奈子の静かな声で遮られた。聞いたことのない堅い声音に、びくりと肩が跳ねる。
「なにって、お前のことが心配だったから」
「だったから?」
過去形になってしまったことを指摘されてことばに詰まる。彼女がなにを言わんとしているのかわからないのに、胸のなかで警鐘が鳴りつづけていた。
「ほんとうに心配してた? ただ居心地が悪かっただけじゃないの」
そんなことない、と言おうとして、言えなかった。
「心配してるなら、どうしてそんなにたのしそうに話してるの。どうして、わたしのところにこないの」
杉崎さんの身体が震えているのが視界の端に見える。
「わたしの部屋、ぜんぶ聞こえてるんだよ。知ってた?」
美奈子は俺たちからすこし距離を置いたまま、責める口調で話しつづけていた。ぎゅっと身体を縮こまらせて声を荒げる姿は細く、あまりにも頼りなかった。
「美奈子、心配してなかったら毎週きてくれるわけないでしょう。そんなこと言わないで」
「……うるさい!」
杉崎さんがやわらかい声で話しかけた。それに見向きもしないで、美奈子は俺に対して視線を向けたままだ。
「わたしのつらさなんて、わかんないでしょ!」
射るような目がうるんでいる。美奈子はものわかりがいい彼女だった。俺たちの関係を、変えなくていいと思っていると信じていた。
ちがった。ほんとうは、ずっと我慢していたのだ。
「わたしのことなんてなんにも見てなかったくせに!」
そう言った瞬間、美奈子の目から涙が溢れた。ひとはこんなにも泣くことができるのかと思うほど大粒の涙が、瞬きすらしていないのに次々にこぼれる。鼻水も流れてきて、美奈子の顔はもうぐちゃぐちゃだった。
視界が悪くなったからか、肌が濡れて気持ちが悪いのか、美奈子が両手で顔を拭う。ゆるくなっている袖口がさがって、白い腕があらわになった。
俺と、そして杉崎さんが、ひゅっと息を吸う音が聞こえた。
美奈子の腕には、真っ赤な傷がきれいに並んでいた。すっかり痕になった傷、つい最近つけられた傷。一朝一夕で傷つけられたのではないと、一瞬でわかる腕だった。
そう、あえて彼女に尋ねるまでもなかった。それは、美奈子自身によって傷つけられたものだということがあきらかだったからだ。
傷がさらされているのも気にせず、涙を流しながら床に崩れ落ちていく美奈子に杉崎さんが一瞬遅れてから駆け寄る。震える肩に手をかけた母親の手を、彼女は今度こそ受け入れた。
「みんなわかんないんだ……みんな……!」
わからない、と美奈子が繰り返す。気づいたら、俺はいつのまにか立ちあがっていた。震えが止まらないまま杉崎さんを見ると、美奈子とおなじように全身で泣いていた。
剣持くん、と杉崎さんの唇が動いたのを見て、ずっと止めていた息を吐き出す。
「……今日は帰りなさい」
いま、自分にできることなどなかった。どうすることが正解かもわからなくて、思考することをやめた。うまく動かせない指先でリュックを掴んで、美奈子を見ないようにドアをすり抜ける。いつもなら走っていけるよう靴紐を結びなおすのに、足を無理やりつっこんだだけで外に出た。お邪魔しました、と、こんなときでもちいさく声に出してしまう自分ののんきさにあきれながら。
リュックを背負って走りだす。前ベルトを締めるのも忘れていた。靴紐のゆるさが気になったけれど、家まで、ただがむしゃらに走った。どんなに早く走っても、頭のなかに美奈子のことばと赤い傷がこびりついて離れなかった。
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