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携帯電話が鳴る音で目が覚めた。つけっぱなしの蛍光灯が開いたばかりの視界に痛い。起きあがって身震いする。布団をかけないで眠るくせを直さないと、いつか風邪をひきそうだ。鳴りやまない機械に表示された名前を見て、思わず眉をしかめる。無視するかどうか一瞬迷ってから、ため息をひとつついて電話を取った。
「また寝てたの」
電波に乗って、ざらついた声が耳に届く。耳から離した携帯電話で時間を確認すると、日付をまたぐまではまだ十分時間があった。気づかないうちに眠ってしまっていたらしい。数週間ぶりに聞く母のことばは、耳に届く質感そのまま、やすりのように心を削る。なに、と問うと、電話の向こうでため息が聞こえた。自分とそっくりのその響きに、また胸がざらつく。
「なんでいつもそうなの」
「そう」という言葉の指すものがなんなのか、わたしにはよくわからなかった。イライラする。わかるように説明しない母にも、わからないと声に出さない自分にも。
「ぜんぜん連絡してこないから、元気にしてるか気になったの」
どう答えようか一瞬迷ってから、元気だよ、と口に出す。この声から「元気」が読み取れるのなら、このひとは母親として一流だろう。
「それならいいけど」
喉の奥が、すっぱいものを食べたときと同じ動きをする。筋肉が軋んで、身体中に不快ななにかが広がった。会話を続ける気力が失せていく。口が、とっさに動いていた。
「これから友達と飲みにいくの。準備するから切るね」
おやすみ、と言ってから、返事も待たずに電話を耳から離す。いまごろ母がどんな顔をしているか想像した。会話を切りあげるためのわたしの嘘を、正直に信じているだろうか。友達なんてものは、もういない。入学したばかりのころは毎日顔を合わせる同級生がいたけれど、わたしの足が大学から遠のくにつれて、どんどん連絡は途絶えていった。誘いを断って、メールを無視していたら、今年の春にはもう知らないひとと同じになった。
じっとしているとなにかが溢れ出てきそうだ。飲みにいくと嘘をついて部屋にいるのも居心地が悪かった。かばんとカメラを手にして立ちあがる。暗闇のなかではカメラは役に立たないと知っていても、持っていないと靴を片足だけ履いていないような違和感を覚える。どこへいくにも一緒の、お守りのようなものかもしれない。鏡の前で髪を整えてコートを羽織る。玄関のドアを閉める音が、乾いた夜の闇に響いた。息が白くなったのはもうずいぶん前までで、いまは歩いていれば身体があたたまって暑いくらいだ。カメラを入れたポケットのなかに手を突っこんで、うえを向いてふらふらと歩く。ぼんやりと霞がかった空に、星はひとつも見えなかった。
母は、毎日のように連絡してくる。元気ですか、ひとりでちゃんとやっていますか。その言葉のあまりの多さに、わたしは辟易していた。そうして尋ねてきても、あのひとは、実際にわたしが真っ当に生活しているかには興味がないのだ。声と反応を聞いていればわかる。形だけの感情のこもらない言葉を、受け入れることができなかった。
母を嫌う一番の原因は、自分のなかにあるとわかっている。望まない感情を持つ誰かを受け入れるだけの余裕が、いまのわたしにはまったくないのだ。
暗い田んぼと畑のあいだを、スニーカーの底を地面に擦りつけるようにして足を踏み出していく。電灯のほとんどない道を、足元を確かめるようにうつむいて歩いた。顎の先にまとわりつくやわらかな空気がうっとうしい。もっとなにか、確かな触り心地のものに包まれたかった。優しい風は、センチメンタルな気分には似合わない。肌を刺す冬の冷たい風を懐かしく思った。
友達という言葉を口にしたとき、脳裏には黒い彼の姿が浮かんでいた。たった一度会って、一緒に街をめぐった男の子。友達というにはおこがましいのかもしれない。彼との出会いは新鮮だったけれど、彼にとってもそうだったかはわからないのだから。あのとき、わたしは上手く笑うことができていただろうか。彼はわたしに、どんな印象を抱いただろう。ポケットのなかでカメラをそっと撫でてから、真一郎、と口を動かしてみる。その名前を、わたしははじめて唇に乗せた。
彼と会ってから、一週間が経とうとしている。ここのところ天気がよくて、ろくに撮影をしていなかった。外に出ても、カメラを構える前に色の褪せたイメージが頭に張りついて離れない。かといって部屋でじっとしているのも苦痛だった。晴れた街のなかで、カメラを構える気力もないままただひたすらに歩いた。動いていないと、なにかどろどろしたものが口から出てきてしまいそうだったからだ。空っぽの頭でも、真一郎の存在がずっと片隅にちらついていた。思考のまんなかに彼を持ってきて、笑顔を思い浮かべる。真一郎の笑顔は、余裕のないわたしの心に、不快な波風を立てたりしない。そこだけすこし冷えた指先が、じんわりとあたたかくなった。
ふと明るさを感じて目をあげると国道に出ていた。足が向くまま目的地もなく歩きまわって明るい場所に出たとき、頬を撫でる風を、もううっとうしいとは感じなかった。飲みにいくと言ったのだから、消費する予定のない酒の一本でも買ってから帰ろうと、コンビニの方向に歩き出す。
国道沿いのその店は、いつでも客が絶えないようだった。店員はわたしがいくどんな時間にも、忙しそうに動き回っている。舌がざらざらする騒がしい空気と、凶器のような明るい電球を見て、なにかあたたかいものに触れたくなった。帰る場所である自分の部屋を思い出す。真っ白な壁、それを煌々と照らす蛍光灯が、閉じたまぶたに痛い。いま、あの部屋には帰りたくないと、強く思った。
缶チューハイを適当にひとつ掴んでレジに持っていく。店員からかけられるありがとうございましたに背を押されるように、家とは反対の方向に歩き出す。このまま歩いていけば駅に着く。緊張で、胸がどきどきした。目指す先に望んでいるひとがいるかどうかはわからないけれど、家から離れて、暗闇の目立つ夜の田舎の道を歩くだけで呼吸が楽になった。コンビニの袋を腕に提げて、ポケットに手を突っこみながら足を前に振り出すようにする。誰かが見たらきっと、花見帰りの酔っぱらいにしか見えないだろう。耳を澄ましたら、車の走る音の向こうに花見で盛りあがるひとの声が聞こえてきそうだった。
道端に咲くさくらの花が、信号機の赤に映えてきれいだ。ポケットのカメラを一撫でして、ストラップを手首に通す。すっかり温まったカメラを、夜風の下にさらけだした。角度が必要だと感じて、中腰の姿勢でカメラを構える。おおきく光る信号機に、手前のさくらの色は沈んでしまった。それでなくともいまは夜だ。さくらなんて綺麗に映るわけがない。このカメラ、そしてこのシチュエーションでは、白くてぼんやりしたかたまりにしか映らないことを知っていてファインダーを覗いた。それだけで肩の力が抜けて、胃のなかを支配していた気持ち悪いものが消える気がする。これから向かう先に彼がいるかどうか、受け入れてもらえるかどうか、胃のあたりでうごめいていた緊張感もすこし和らいでいた。あまりにも気分屋で、自分のことなのにおかしくなる。上手く撮影できない苛立ちよりも、カメラに触れる喜びのほうが勝っているらしい。静かな商店街の看板や、地面に落ちた白い花びらを追いかけては写真を撮る。
そうして辿りついた駅前の裏通りで、わたしはわずかにショックを受けた。そして、それと同時にほっとする。わたしを拒絶するかもしれない、想像のなかの彼は少なくともいなかったからだ。
このあいだと同じ、大通りから脇道にそれたその場所は、お酒のにおいがしそうな雰囲気に包まれていた。ネオンや赤い提灯の明かりは、そんな場所に入ったことのないわたしにも夜の世界を感じさせる。会えるかもしれないなんて、都合のいいことを考えたのが間違いだった。当たり前だ。偶然会った彼に、何日も経ってから同じ場所で会えるわけがない。まさかがっかりする自分と出会うとは思わなくて、ひとりでびっくりしてしまう。
こうなると誰にも出会わないほうが気が楽だ。かわいそうな自分に酔うことができる。コンビニの白い袋は、ひとりの証みたいだった。
「ひより?」
そのとき、突然後ろからかけられた声にびくりとして動けなくなる。振り返らなくてもわかった。まぎれもなく、それは真一郎の声だった。一度は解けた緊張が、どんどん高まっていく。彼は、わたしを受け入れてくれるだろうか。ついさっき、今日は会えなくていいと決めたひとが真後ろにいる。気持ちの切り替えができなくて動けなくなった。
「ひよりだよね」
やっぱり、と、前に回りこんできた真一郎が笑う。そのくもりのない笑顔を見て、身体から空気が抜けたような気分になった。こんな遅くに、彼はこの前と同じ学生服姿だった。
「ひさしぶり」
ひさしぶりだね、と返す声がなんだか情けなくなる。あたりは暗くて真一郎の顔なんてろくに見えないのに、笑顔がまぶしいのだけはしっかりわかった。その笑顔を直視できない。さまよった視線は彼の右肩のあたりで止まった。
「覚えててくれたんだ」
とっさにそんな言葉が口をつく。あまりにも自信のない声を出してしまった。本当に自信がなかったのだから仕方がない。この偶然を咀嚼するのに精いっぱいで、わたしは真一郎の足元ばかり見ていた。無言の時間が続いたことを不思議に思って顔をあげると、真一郎の目がわたしの手元をとらえていた。白いビニールの中身を見て、彼は驚いたようだった。
「ひよりってお酒飲める年なの」
目を丸くしている真一郎に、わたしこそびっくりする。わたしは彼の制服を見て、はじめから自分が年上だと知っていたからだ。そうだよと笑ってみせると、真一郎は焦って頬をかいた。
「知らなかった」
そういえばなんにも知らないな。そう言ってふたりで見つめあう。そうだ。はじめて会った日、あんなに長い時間一緒にいたけれど、お互いの年齢も、住んでいる場所も、わたしたちはなにも知らないのだ。
近くの段差に腰かけて、改めて自己紹介をした。自分が大学生であること、ここからすこし離れた場所でひとり暮らしをしていること。真一郎は、家が近いのだと言った。
「高校二年生だよ」
自分の年齢を話すとき、彼はそう自分を形容した。したを向いた前髪の向こうで、真一郎の瞳が震える。そこから話を膨らませることもできた。
はじめて会った日、学校はどうしたの。こんな夜に、そんな恰好でなにをしているの。
けれど高校生だと言った真一郎の声音は硬くて、それ以上尋ねることをわたしにためらわせた。
「三つも離れてるんだね」
だからわたしは、そう言うことでこの会話を終えることにした。真一郎は、わたしのその返答に肩の力を抜いたように見えた。缶チューハイを挟んで向こう側に座った真一郎は、「だいぶおねえちゃんだ」と泣きそうな顔で笑った。
「また寝てたの」
電波に乗って、ざらついた声が耳に届く。耳から離した携帯電話で時間を確認すると、日付をまたぐまではまだ十分時間があった。気づかないうちに眠ってしまっていたらしい。数週間ぶりに聞く母のことばは、耳に届く質感そのまま、やすりのように心を削る。なに、と問うと、電話の向こうでため息が聞こえた。自分とそっくりのその響きに、また胸がざらつく。
「なんでいつもそうなの」
「そう」という言葉の指すものがなんなのか、わたしにはよくわからなかった。イライラする。わかるように説明しない母にも、わからないと声に出さない自分にも。
「ぜんぜん連絡してこないから、元気にしてるか気になったの」
どう答えようか一瞬迷ってから、元気だよ、と口に出す。この声から「元気」が読み取れるのなら、このひとは母親として一流だろう。
「それならいいけど」
喉の奥が、すっぱいものを食べたときと同じ動きをする。筋肉が軋んで、身体中に不快ななにかが広がった。会話を続ける気力が失せていく。口が、とっさに動いていた。
「これから友達と飲みにいくの。準備するから切るね」
おやすみ、と言ってから、返事も待たずに電話を耳から離す。いまごろ母がどんな顔をしているか想像した。会話を切りあげるためのわたしの嘘を、正直に信じているだろうか。友達なんてものは、もういない。入学したばかりのころは毎日顔を合わせる同級生がいたけれど、わたしの足が大学から遠のくにつれて、どんどん連絡は途絶えていった。誘いを断って、メールを無視していたら、今年の春にはもう知らないひとと同じになった。
じっとしているとなにかが溢れ出てきそうだ。飲みにいくと嘘をついて部屋にいるのも居心地が悪かった。かばんとカメラを手にして立ちあがる。暗闇のなかではカメラは役に立たないと知っていても、持っていないと靴を片足だけ履いていないような違和感を覚える。どこへいくにも一緒の、お守りのようなものかもしれない。鏡の前で髪を整えてコートを羽織る。玄関のドアを閉める音が、乾いた夜の闇に響いた。息が白くなったのはもうずいぶん前までで、いまは歩いていれば身体があたたまって暑いくらいだ。カメラを入れたポケットのなかに手を突っこんで、うえを向いてふらふらと歩く。ぼんやりと霞がかった空に、星はひとつも見えなかった。
母は、毎日のように連絡してくる。元気ですか、ひとりでちゃんとやっていますか。その言葉のあまりの多さに、わたしは辟易していた。そうして尋ねてきても、あのひとは、実際にわたしが真っ当に生活しているかには興味がないのだ。声と反応を聞いていればわかる。形だけの感情のこもらない言葉を、受け入れることができなかった。
母を嫌う一番の原因は、自分のなかにあるとわかっている。望まない感情を持つ誰かを受け入れるだけの余裕が、いまのわたしにはまったくないのだ。
暗い田んぼと畑のあいだを、スニーカーの底を地面に擦りつけるようにして足を踏み出していく。電灯のほとんどない道を、足元を確かめるようにうつむいて歩いた。顎の先にまとわりつくやわらかな空気がうっとうしい。もっとなにか、確かな触り心地のものに包まれたかった。優しい風は、センチメンタルな気分には似合わない。肌を刺す冬の冷たい風を懐かしく思った。
友達という言葉を口にしたとき、脳裏には黒い彼の姿が浮かんでいた。たった一度会って、一緒に街をめぐった男の子。友達というにはおこがましいのかもしれない。彼との出会いは新鮮だったけれど、彼にとってもそうだったかはわからないのだから。あのとき、わたしは上手く笑うことができていただろうか。彼はわたしに、どんな印象を抱いただろう。ポケットのなかでカメラをそっと撫でてから、真一郎、と口を動かしてみる。その名前を、わたしははじめて唇に乗せた。
彼と会ってから、一週間が経とうとしている。ここのところ天気がよくて、ろくに撮影をしていなかった。外に出ても、カメラを構える前に色の褪せたイメージが頭に張りついて離れない。かといって部屋でじっとしているのも苦痛だった。晴れた街のなかで、カメラを構える気力もないままただひたすらに歩いた。動いていないと、なにかどろどろしたものが口から出てきてしまいそうだったからだ。空っぽの頭でも、真一郎の存在がずっと片隅にちらついていた。思考のまんなかに彼を持ってきて、笑顔を思い浮かべる。真一郎の笑顔は、余裕のないわたしの心に、不快な波風を立てたりしない。そこだけすこし冷えた指先が、じんわりとあたたかくなった。
ふと明るさを感じて目をあげると国道に出ていた。足が向くまま目的地もなく歩きまわって明るい場所に出たとき、頬を撫でる風を、もううっとうしいとは感じなかった。飲みにいくと言ったのだから、消費する予定のない酒の一本でも買ってから帰ろうと、コンビニの方向に歩き出す。
国道沿いのその店は、いつでも客が絶えないようだった。店員はわたしがいくどんな時間にも、忙しそうに動き回っている。舌がざらざらする騒がしい空気と、凶器のような明るい電球を見て、なにかあたたかいものに触れたくなった。帰る場所である自分の部屋を思い出す。真っ白な壁、それを煌々と照らす蛍光灯が、閉じたまぶたに痛い。いま、あの部屋には帰りたくないと、強く思った。
缶チューハイを適当にひとつ掴んでレジに持っていく。店員からかけられるありがとうございましたに背を押されるように、家とは反対の方向に歩き出す。このまま歩いていけば駅に着く。緊張で、胸がどきどきした。目指す先に望んでいるひとがいるかどうかはわからないけれど、家から離れて、暗闇の目立つ夜の田舎の道を歩くだけで呼吸が楽になった。コンビニの袋を腕に提げて、ポケットに手を突っこみながら足を前に振り出すようにする。誰かが見たらきっと、花見帰りの酔っぱらいにしか見えないだろう。耳を澄ましたら、車の走る音の向こうに花見で盛りあがるひとの声が聞こえてきそうだった。
道端に咲くさくらの花が、信号機の赤に映えてきれいだ。ポケットのカメラを一撫でして、ストラップを手首に通す。すっかり温まったカメラを、夜風の下にさらけだした。角度が必要だと感じて、中腰の姿勢でカメラを構える。おおきく光る信号機に、手前のさくらの色は沈んでしまった。それでなくともいまは夜だ。さくらなんて綺麗に映るわけがない。このカメラ、そしてこのシチュエーションでは、白くてぼんやりしたかたまりにしか映らないことを知っていてファインダーを覗いた。それだけで肩の力が抜けて、胃のなかを支配していた気持ち悪いものが消える気がする。これから向かう先に彼がいるかどうか、受け入れてもらえるかどうか、胃のあたりでうごめいていた緊張感もすこし和らいでいた。あまりにも気分屋で、自分のことなのにおかしくなる。上手く撮影できない苛立ちよりも、カメラに触れる喜びのほうが勝っているらしい。静かな商店街の看板や、地面に落ちた白い花びらを追いかけては写真を撮る。
そうして辿りついた駅前の裏通りで、わたしはわずかにショックを受けた。そして、それと同時にほっとする。わたしを拒絶するかもしれない、想像のなかの彼は少なくともいなかったからだ。
このあいだと同じ、大通りから脇道にそれたその場所は、お酒のにおいがしそうな雰囲気に包まれていた。ネオンや赤い提灯の明かりは、そんな場所に入ったことのないわたしにも夜の世界を感じさせる。会えるかもしれないなんて、都合のいいことを考えたのが間違いだった。当たり前だ。偶然会った彼に、何日も経ってから同じ場所で会えるわけがない。まさかがっかりする自分と出会うとは思わなくて、ひとりでびっくりしてしまう。
こうなると誰にも出会わないほうが気が楽だ。かわいそうな自分に酔うことができる。コンビニの白い袋は、ひとりの証みたいだった。
「ひより?」
そのとき、突然後ろからかけられた声にびくりとして動けなくなる。振り返らなくてもわかった。まぎれもなく、それは真一郎の声だった。一度は解けた緊張が、どんどん高まっていく。彼は、わたしを受け入れてくれるだろうか。ついさっき、今日は会えなくていいと決めたひとが真後ろにいる。気持ちの切り替えができなくて動けなくなった。
「ひよりだよね」
やっぱり、と、前に回りこんできた真一郎が笑う。そのくもりのない笑顔を見て、身体から空気が抜けたような気分になった。こんな遅くに、彼はこの前と同じ学生服姿だった。
「ひさしぶり」
ひさしぶりだね、と返す声がなんだか情けなくなる。あたりは暗くて真一郎の顔なんてろくに見えないのに、笑顔がまぶしいのだけはしっかりわかった。その笑顔を直視できない。さまよった視線は彼の右肩のあたりで止まった。
「覚えててくれたんだ」
とっさにそんな言葉が口をつく。あまりにも自信のない声を出してしまった。本当に自信がなかったのだから仕方がない。この偶然を咀嚼するのに精いっぱいで、わたしは真一郎の足元ばかり見ていた。無言の時間が続いたことを不思議に思って顔をあげると、真一郎の目がわたしの手元をとらえていた。白いビニールの中身を見て、彼は驚いたようだった。
「ひよりってお酒飲める年なの」
目を丸くしている真一郎に、わたしこそびっくりする。わたしは彼の制服を見て、はじめから自分が年上だと知っていたからだ。そうだよと笑ってみせると、真一郎は焦って頬をかいた。
「知らなかった」
そういえばなんにも知らないな。そう言ってふたりで見つめあう。そうだ。はじめて会った日、あんなに長い時間一緒にいたけれど、お互いの年齢も、住んでいる場所も、わたしたちはなにも知らないのだ。
近くの段差に腰かけて、改めて自己紹介をした。自分が大学生であること、ここからすこし離れた場所でひとり暮らしをしていること。真一郎は、家が近いのだと言った。
「高校二年生だよ」
自分の年齢を話すとき、彼はそう自分を形容した。したを向いた前髪の向こうで、真一郎の瞳が震える。そこから話を膨らませることもできた。
はじめて会った日、学校はどうしたの。こんな夜に、そんな恰好でなにをしているの。
けれど高校生だと言った真一郎の声音は硬くて、それ以上尋ねることをわたしにためらわせた。
「三つも離れてるんだね」
だからわたしは、そう言うことでこの会話を終えることにした。真一郎は、わたしのその返答に肩の力を抜いたように見えた。缶チューハイを挟んで向こう側に座った真一郎は、「だいぶおねえちゃんだ」と泣きそうな顔で笑った。
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