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洗濯物を干していたら、あっというまに昼近くになっていた。約束をしたことはないけれど、真一郎とは午前中に顔を合わせることが多かった。これから歩いていくと、昼をすぎてしまいそうだ。
真一郎とこうして会うようになっても、なぜ彼がわたしのような人間に付き合ってくれるのかわからないでいた。今日だって、向かった先に真一郎はいないかもしれないと覚悟をして身支度をした。信じきることができないのは、彼よりも自分自身なのかもしれない。
部屋の真ん中で考えこんでいたことに気づいて、急いで身なりを整えてかばんを肩にかける。テーブルのうえで充電していたカメラを握って、ボディを親指で一撫でしてからスニーカーに足を突っこんだ。
外に出ると、大学へと向かう通りをふたりの女の子が歩いていくのが見えた。見覚えのある後姿だった。会話までは聞こえないけれど、なにが楽しいのかおおきな声をあげて笑っている。彼女たちと、一緒にこの道を大学へと向かった記憶が、そっと足元に忍び寄る。そんなに前のことではないのに、ひどく昔のことに思えた。あの場所から離れて、わたしはなにかを得られただろうか。自分のなかを探ってみる。どろどろしたものが身体を埋め尽くして、動けなくなりそうだった。こぶしをぐっと握って、アスファルトの道路を踏みしめる。意識してひとつ、深呼吸をした。彼女たちが歩いていったのとは反対のほうへ足を踏み出す。最近、ずっと天気がいい。雲の多い青空は、胸のなかの澱をより腹の中心へと押しこむような明るさでそこにあった。
すっかり待ち合わせ場所になったちいさな神社の前に、今日も真一郎はいた。その顔を見てほっとする。彼は、わたしのことを待っていてくれた。
「なんかいつもと感じ違うよね」
会うなりそう言って眉をさげた真一郎から、ぎくりとして視線をそらす。いつもなら真一郎と会えばどこかにいってしまう憂鬱が、今日はなぜか消えなかった。理由は、自分でもわかっている。
「感じ違うって」
どういうこと、と問いかけた声が尻すぼみになる。うつむいて、真一郎から顔を背けた。このまま話しだせば、真一郎はきっと聞いてくれるだろう。見あげた彼の瞳は、わたしの言葉をじっと待っていた。
「真一郎は、なんで高校いかないの」
予想外の言葉だったのか、真一郎が眉根を寄せる。これまでわたしたちは、ずっと知らないふりをしていた。わたしたちはふたりとも学生だと自己紹介したのだ。平日の昼間から会うことのできる相手に、疑問を持っていなかったわけがない。たがいに学校へいっていないことになんて、とっくに気づいていたのに。それ以上踏みこまないように、わたしも、そして彼も、慎重に言葉を選んでいたのだ。
うーん、と真一郎がうなる。
「なんでかな。わかんない」
困ったように、真一郎は笑った。その笑顔が本当の迷子のように見えて、なにか言葉を紡ぎたくなる。おおきくひとつ呼吸して、正直な気持ちを声にした。
「そっか。わたしもね、わかんないの」
あたたかいまなざしが次の言葉を待っているのがわかる。スニーカーを履いた爪先で地面をこするように蹴った。
「わかんないって混乱するよね」
それだけだよ。と真一郎を見あげる。応えるように、彼は「それならわかる」と、今度は満面の笑みを浮かべた。わからないことがあるという共通項が、今度は学校にいかない事実の代わりにわたしたちを繋ぐ。
「ちょっと暑いね」
そう言って真一郎は手の甲で額を拭った。高校にはいかなくても、衣替えの時期はきちんと守りたいのだと言う。真面目な横顔が面白くて、高いところにある視線から見えないようにしたを向いて笑うと、彼のおおきなスニーカーが見えた。足が長いから本当は歩幅が広いはずの真一郎は、わたしに合わせて足をひきずるように歩いていて、それがすこしくすぐったい。
「あ」
踏切のそばまできたとき、道の端を覗きこむように真一郎が足を止めた。ねえ、と呼びかける声につられて、わたしも足元を見る。
そこにはコンクリートの塀に張りつくようにヒメオドリコソウが生えていた。
「これ、学校の帰りに蜜吸ったりしなかった?」
「ふふ、したね」
不思議な気分だった。はじめて会った日にわたしが撮ったこのちいさな花を、真一郎も見つけてくれた。
「なんて草だっけ」
オオイヌノフグリは青いやつだよね、と、思い出そうとしているのか斜めうえを見あげながら真一郎がつぶやく。
「ヒメオドリコソウ、だよ」
となりにしゃがみながら答えると、真一郎はそれだ、と叫んでいつもの子どもみたいな表情で笑った。踊り子という名のついたその雑草が、陽射しのなかで踊っているように見えると言ったら、子どものころ友達に否定されたことを思い出す。
「この草、楽しそうだよね。みんなで踊ってるんでしょ」
だから、ちいさな花に触れて笑う真一郎の言葉に口が開くほど驚いた。同じように考えてくれるひとが目の前にいた。真一郎の目には、このちいさな花は踊り子に見えるのだ。びっくりしたまま彼を見ているわたしを促すように、目をあげた真一郎が視線を地面に戻す。
つられるように手に持っていたカメラを持ちあげて、液晶画面を覗いた。真一郎に見える世界を見てみたくてじっと目をこらす。何回かシャッターを切って、写真を確認する。画面に映るヒメオドリコソウは、たしかに、みんなで踊っているように見えた。
「いいの撮れた?」
「うん」
よかった、と、真一郎がうれしそうに笑う。うれしいのはわたしのほうなのに、彼は自分のことのように喜んだ。それを嫌味に感じさせない真一郎に、支えられている気分になる。
踏切の警告音が鳴って、遮断機がおりた。どんどん近づいてくる電車の気配に、わたしも真一郎も無口になる。強い風と一緒に電車が走り抜けていってから、真一郎が口を開いた。
「すこしは元気になった?」
心配そうな瞳を見て、今日会ったとき気落ちしていた自分を思い出した。同級生の姿を見かけたことなんてすっかり忘れていて、恥ずかしくなる。頬が熱い。赤くなっていそうな顔を隠すためにうつむいた。そんなわたしを見た真一郎が面白そうに声を出して笑う。
「忘れてたんならよかった」
そう言って、彼が背を向けて歩きだす。気を遣わせてしまったのだろうか。そんな素振りには見えなかった。相手にそうと悟らせずに気を配るのが上手な子だ。わたし以外と話しているところを見たことはないけれど、きっと誰にでも同じように接しているに違いなかった。わたしが高校生のころ、ほんのすこしのあいだ付き合っていた男の子とはずいぶん違う。わたしも、その彼も、相手を思いやるのが苦手だった。だからこそ、真一郎のそんなところを好ましいと思う。
その日も、真一郎の「帰る?」という言葉が聞こえるまで、わたしたちは街を歩いていた。
真一郎とこうして会うようになっても、なぜ彼がわたしのような人間に付き合ってくれるのかわからないでいた。今日だって、向かった先に真一郎はいないかもしれないと覚悟をして身支度をした。信じきることができないのは、彼よりも自分自身なのかもしれない。
部屋の真ん中で考えこんでいたことに気づいて、急いで身なりを整えてかばんを肩にかける。テーブルのうえで充電していたカメラを握って、ボディを親指で一撫でしてからスニーカーに足を突っこんだ。
外に出ると、大学へと向かう通りをふたりの女の子が歩いていくのが見えた。見覚えのある後姿だった。会話までは聞こえないけれど、なにが楽しいのかおおきな声をあげて笑っている。彼女たちと、一緒にこの道を大学へと向かった記憶が、そっと足元に忍び寄る。そんなに前のことではないのに、ひどく昔のことに思えた。あの場所から離れて、わたしはなにかを得られただろうか。自分のなかを探ってみる。どろどろしたものが身体を埋め尽くして、動けなくなりそうだった。こぶしをぐっと握って、アスファルトの道路を踏みしめる。意識してひとつ、深呼吸をした。彼女たちが歩いていったのとは反対のほうへ足を踏み出す。最近、ずっと天気がいい。雲の多い青空は、胸のなかの澱をより腹の中心へと押しこむような明るさでそこにあった。
すっかり待ち合わせ場所になったちいさな神社の前に、今日も真一郎はいた。その顔を見てほっとする。彼は、わたしのことを待っていてくれた。
「なんかいつもと感じ違うよね」
会うなりそう言って眉をさげた真一郎から、ぎくりとして視線をそらす。いつもなら真一郎と会えばどこかにいってしまう憂鬱が、今日はなぜか消えなかった。理由は、自分でもわかっている。
「感じ違うって」
どういうこと、と問いかけた声が尻すぼみになる。うつむいて、真一郎から顔を背けた。このまま話しだせば、真一郎はきっと聞いてくれるだろう。見あげた彼の瞳は、わたしの言葉をじっと待っていた。
「真一郎は、なんで高校いかないの」
予想外の言葉だったのか、真一郎が眉根を寄せる。これまでわたしたちは、ずっと知らないふりをしていた。わたしたちはふたりとも学生だと自己紹介したのだ。平日の昼間から会うことのできる相手に、疑問を持っていなかったわけがない。たがいに学校へいっていないことになんて、とっくに気づいていたのに。それ以上踏みこまないように、わたしも、そして彼も、慎重に言葉を選んでいたのだ。
うーん、と真一郎がうなる。
「なんでかな。わかんない」
困ったように、真一郎は笑った。その笑顔が本当の迷子のように見えて、なにか言葉を紡ぎたくなる。おおきくひとつ呼吸して、正直な気持ちを声にした。
「そっか。わたしもね、わかんないの」
あたたかいまなざしが次の言葉を待っているのがわかる。スニーカーを履いた爪先で地面をこするように蹴った。
「わかんないって混乱するよね」
それだけだよ。と真一郎を見あげる。応えるように、彼は「それならわかる」と、今度は満面の笑みを浮かべた。わからないことがあるという共通項が、今度は学校にいかない事実の代わりにわたしたちを繋ぐ。
「ちょっと暑いね」
そう言って真一郎は手の甲で額を拭った。高校にはいかなくても、衣替えの時期はきちんと守りたいのだと言う。真面目な横顔が面白くて、高いところにある視線から見えないようにしたを向いて笑うと、彼のおおきなスニーカーが見えた。足が長いから本当は歩幅が広いはずの真一郎は、わたしに合わせて足をひきずるように歩いていて、それがすこしくすぐったい。
「あ」
踏切のそばまできたとき、道の端を覗きこむように真一郎が足を止めた。ねえ、と呼びかける声につられて、わたしも足元を見る。
そこにはコンクリートの塀に張りつくようにヒメオドリコソウが生えていた。
「これ、学校の帰りに蜜吸ったりしなかった?」
「ふふ、したね」
不思議な気分だった。はじめて会った日にわたしが撮ったこのちいさな花を、真一郎も見つけてくれた。
「なんて草だっけ」
オオイヌノフグリは青いやつだよね、と、思い出そうとしているのか斜めうえを見あげながら真一郎がつぶやく。
「ヒメオドリコソウ、だよ」
となりにしゃがみながら答えると、真一郎はそれだ、と叫んでいつもの子どもみたいな表情で笑った。踊り子という名のついたその雑草が、陽射しのなかで踊っているように見えると言ったら、子どものころ友達に否定されたことを思い出す。
「この草、楽しそうだよね。みんなで踊ってるんでしょ」
だから、ちいさな花に触れて笑う真一郎の言葉に口が開くほど驚いた。同じように考えてくれるひとが目の前にいた。真一郎の目には、このちいさな花は踊り子に見えるのだ。びっくりしたまま彼を見ているわたしを促すように、目をあげた真一郎が視線を地面に戻す。
つられるように手に持っていたカメラを持ちあげて、液晶画面を覗いた。真一郎に見える世界を見てみたくてじっと目をこらす。何回かシャッターを切って、写真を確認する。画面に映るヒメオドリコソウは、たしかに、みんなで踊っているように見えた。
「いいの撮れた?」
「うん」
よかった、と、真一郎がうれしそうに笑う。うれしいのはわたしのほうなのに、彼は自分のことのように喜んだ。それを嫌味に感じさせない真一郎に、支えられている気分になる。
踏切の警告音が鳴って、遮断機がおりた。どんどん近づいてくる電車の気配に、わたしも真一郎も無口になる。強い風と一緒に電車が走り抜けていってから、真一郎が口を開いた。
「すこしは元気になった?」
心配そうな瞳を見て、今日会ったとき気落ちしていた自分を思い出した。同級生の姿を見かけたことなんてすっかり忘れていて、恥ずかしくなる。頬が熱い。赤くなっていそうな顔を隠すためにうつむいた。そんなわたしを見た真一郎が面白そうに声を出して笑う。
「忘れてたんならよかった」
そう言って、彼が背を向けて歩きだす。気を遣わせてしまったのだろうか。そんな素振りには見えなかった。相手にそうと悟らせずに気を配るのが上手な子だ。わたし以外と話しているところを見たことはないけれど、きっと誰にでも同じように接しているに違いなかった。わたしが高校生のころ、ほんのすこしのあいだ付き合っていた男の子とはずいぶん違う。わたしも、その彼も、相手を思いやるのが苦手だった。だからこそ、真一郎のそんなところを好ましいと思う。
その日も、真一郎の「帰る?」という言葉が聞こえるまで、わたしたちは街を歩いていた。
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