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第三話 発情期の訪れ

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 砦の街に建つヴァリエール家の広い屋敷には、リュカの部屋が用意されていた。
 温かく清潔な寝具と美しい調度たち。品がよく整えられた部屋はどうやら正しく館の女主人の部屋のようで、隣がクロヴィスの書斎になっているようだった。

 しかし、クロヴィスとは結婚式以来顔をあわせていない。
 嫌われて避けられているのもあるだろう。しかし、まったく顔を見られないのはそれだけが理由ではないらしい。どうやら彼は本当にひどく忙しいらしく、リュカが起きる前に仕事に行き、寝入ってから帰ってくる。
 絵に描いたようなすれ違い生活である。

 しかし主人に愛されていない上に、下賤の生まれであるリュカを、使用人たちは激しく嫌悪した――ということもなかった。意地悪をされるでもなく、暮らしは穏やかそのものだ。
 貴族の家に仕える使用人は、騎士爵以下の下級貴族か裕福な商家や豪農の出身であることが多い。紹介状があるか、もしくはよほどしっかりとした実家のある者でなければ、勤めることすら出来なかった。高価な装飾品や家財がそこかしこにある屋敷の中に、身元の怪しい者を入れられないからだ。

 つまり、女中も侍従もみなリュカより育ちが良くて、身分が高い家の出だった。
 そんな彼らに男娼上がりのオメガの世話など矜持が許さないのではないか。リュカはそう思っていたし、実際、彼らはいきなり自分たちの主人と結婚した平民のオメガ――つまり、リュカをどう扱っていいのか考えあぐねているようだった。

 彼らからしてみれば、たぶんリュカは得体のしれないオメガでしかなかった。
 ある日突然主人が連れて来て、何故か冷遇している見知らぬオメガを「主人の伴侶」として扱えと言われた。
 しかも、当の主人はオメガには見向きもしない。それどころか会うことすらしないのだ。そんな状況、誰だって戸惑うに決まっている。

 けれども、リュカは元男娼である。それも王都で一、二を争うほどの高級店の売れっ子だったのだ。
 そんなリュカにとって相手の顔色を見て、相手の欲しい言葉をあげ、その心に入り込むことなど、赤子の手をひねるよりも簡単なことだった。しかも相手は使用人たちだ。娼館に来る百戦錬磨の変態アルファどもとは違って、砦の街出身の彼らはみんな純朴で素直だった。

 幸いなことにリュカはオメガらしく見た目が良かったから、効果は絶大だった。
 客が綺麗だと繰り返し褒めてくれた月光を溶かし込んだような淡い金髪に、春の晴れた空のような青い瞳。大きな双眸は宝石のように煌めき、薄く小さな唇は薔薇のように赤く蠱惑的だ。その容姿の美しさを利用することを、リュカはよく知っていた。

 掃除をしてくれる女中に「ありがとう」と微笑んだり、食事を用意してくれる給仕の名前を憶えて呼んだり。それだけで、彼らは少しずつ心を開いていく。
 結婚式を挙げて一か月もする頃には、リュカはすっかり使用人たちと打ち解けて親しくなっていた。
 よく小説であるような食事を質素なものに替えられたり、掃除をしてもらえないなんてこともなく、リュカは美味しいご飯を食べて清潔な衣服を着て整えられた部屋で過ごしていた。

 平和だった。本当に穏やかで静かな生活をしていた。
 リュカの持ってきた男娼時代の私服が少し、いやたいぶ露出過多で家令のクレマンに苦言を呈されたことくらいしか問題はなかった。――まぁ、夫であるクロヴィスが帰って来ないという大問題はあったけれども。

 しかし、どれほど平和でどれほど穏やかな生活をしていても、リュカはオメガだった。
 時期が来れば発情期が訪れるし、抗うことは出来ない。それは自然の摂理であり、リュカのオメガとしての「仕方がない」と諦めた部分だった。



 結婚式を挙げてから、一か月が過ぎた頃だった。
 その日は何だが身体が熱くて、頭がぼんやりとしていた。息が上がって、視界が涙で滲む。
 それはリュカにとって馴染み深い感覚で、その原因はすぐに思い当たった。――発情期だ。
 リュカは迷うことなく持っていた抑制剤を飲んだ。

 男娼だったころから何度も世話になったそれは、避妊薬としての効果もあるもので、発情期に湧き上がるどうしようもない性衝動をある程度の抑え、妊娠まで予防してくれる素晴らしい薬だ。
 王都に流通している中でも最高級品。リュカはこれ以上、いい抑制剤を知らない。
 しかし、それでも発情の疼きは完全にはなくならなかった。腹の奥に小さな熾火が燻るように灯っている。
 それが苦しくて、ひどく辛い。

 自室の寝台の上で身悶えながら、リュカは必死で何とかその熱を逃そうと何度も寝返りを打った。
 抱いて欲しい。誰に。もちろん、アルファに。
 でもただのアルファじゃ嫌だ。抱いて欲しい。誰に。そんなの番に決まっている。

 普段はクロヴィスの不在に思うところなんかなかった。いなくても別に困らないし、好きなことをして楽しく過ごしている。
 けれども、発情期だけは話が違っていて、他でもないリュカが一番戸惑っていた。番持ちのオメガの発情期が、これほど番を求めるものだとは思わなかったのだ。

 けれど、番であるクロヴィスはここにはいない。まったく顔をあわせない番は、当然発情期に帰って来てくれるような気遣いをしてはくれなかった。
 もちろん、リュカだってクロヴィスに期待していたわけではない。むしろ、彼はリュカの発情期の知らせを聞けば、よりいっそう帰宅しないのではないかと思っていた。
 だから、それなりの覚悟はしていたはずだったけれど。こんなのは予想外だ。

 抑制剤を飲んでいても残る疼きや漏れ出るフェロモンの香りは、男娼にとっていい「売り物」になる。料金が普段より高くなるし、客たちもこぞって発情期のオメガを抱きたがった。
 これまでのリュカにとって発情期はいい稼ぎどきという感覚しかなかった。客たちは喜んでたくさんの金を落すし、自分も普段よりもセックスが気持ちいい。一石二鳥。発情期って素晴らしい。
 ずっとそう思って、過ごしてきた。実際、抱いてくれる相手のいない発情期は生まれて初めてだったのだ。

 リュカは清潔な匂いのする敷布を握りしめた。敷布は女中たちが毎日、新しいものに替えてくれるからいつだって石鹸のいい香りがする。しかし、今のリュカが求めているのはこんなものではない。
 握りしめた手に力を入れれば、敷布には深い皺が寄った。普段のリュカは使用人たちが丁寧に伸ばしてくれた敷布を、こんな乱暴に扱ったりはしない。しかし、今この時はそうしてどこかに力を入れていないと頭が狂いそうだったのだ。
 それと同時に、怒りに満ちた心を何とか往なそうとゆっくりと息を吐く。
 発情期の熱に翻弄されながらも、リュカは腹を立てていた。

 だって、腹が立つだろう。
 番であるクロヴィスは、リュカに「責任を取る」と言ったのだ。だからリュカだってクロヴィスの求婚を承諾したのだし、住み慣れた王都――というか娼館だけど――から引っ越して、こんな国境付近にある砦の街にやって来たのだ。

 それなのに、クロヴィスは番としての最も重要な責任を放棄したのだ。

 ――結婚したんなら、発情期の相手くらいしろよ……!

 声にならない声で、リュカはそう叫んだ。
 そもそも番とは一蓮托生――もとい、お互いを唯一無二として支え合う関係のはずだ。それが、どうして自分だけが苦しまなくてはならないのだ。

 突然発情期になったのは確かにリュカだが、項を噛んだのはクロヴィスだ。
 自分たちが番になった経緯には、お互いにそれぞれの責任があり、一方、つまりリュカだけがその付けを払うのは実に不公平である。

 おそらく、よく小説や歌劇に出てくるようなか弱いオメガであれば、このまま大人しくひとりで耐えるのだろう。帰って来ない番を想って、枕を濡らすこともあるかもしれない。
 しかし、リュカはただ夫に冷遇されるだけの哀れなオメガではなかった。むしろ、雑草のように逞しい根性を持っていた。そうでなければ貧困街では生きていけないし、男娼なんてやっていられない。

 ――せっかくの発情期、お裾分けしてやろうじゃねぇか。

 そう強く思ってリュカは気力を振り絞った。力の入らない身体を何とか起こすと、ふらりと立ち上がって隣の部屋を目指した。


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