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第四話 お裾分け

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 リュカの使っている寝室は、夫婦の寝室だ。寝室を挟むように左右に主人とその妻の自室があり、それぞれが扉で直接繋がっている。しかし、寝室からクロヴィスの書斎へ繋がる扉には常に鍵がかかっていた。嫌味なことに、わざわざ施錠してあるのだ。
 これは間違いなく、書斎に入るな、というリュカに対する明らかな拒絶だった。

 しかし、リュカは知っている。この屋敷は廊下から部屋へと繋がる扉には、よほどのことがないと鍵をかけない。クロヴィスの書斎に入りたければ、一度廊下に出ればいいのだ。案の定、書斎は施錠されておらず、簡単に入ることが出来た。
 書斎に一歩足を踏み入れた途端、思わずリュカは足を止めた。初めて入るその部屋に、圧倒されたように動けなくなったのだ。

 書斎は他の部屋と同じように藍色の絨毯張りの床に、白い壁の品のいい部屋だった。白い窓枠も、壁にある洋燈の形も寝室やリュカの部屋と同じで、調度も色や形が揃えられている。
 しかし、他の部屋とは大きな違いがあった。入り口扉の正面にある大きな窓を囲むように、寝室にはない天井まで続く本棚が並んでいて、上から下までぎっしりと分厚くて難しそうな本が並んでいた。
 その圧倒的な質量に、リュカは思わず熱い息を吐いた。

 窓の前には大きな執務机があり、机上にはたくさんの書類が積み重なっていた。揃えて置かれたペンとインク壺は一目見て高級品だと分かる代物だ。
 きっちりと整頓された書斎は、クロヴィスの生真面目な性格を表しているようだった。
 たったそれだけのことが、発情期中のリュカにはひどく魅力的に思えた。その上、部屋の中はクロヴィスの匂いで満ちている。

 大量の本や書類から香る乾燥した紙の匂いと、インクの匂い。室内に飾られた花は小ぶりな百合で、白い花瓶にたっぷりと生けられていた。それらの様々な匂いに混ざって、間違いなくアルファの香りがする。
 発情期の熱に支配されたリュカは、ふらふらとその匂いの元に向かった。

 書斎には衣裳部屋が隣接しており、そこは小さな仮眠室にもなっているようだった。リュカが屋敷にやって来て寝室を使えなくなったから、慌てて簡易の寝台を運び込んだのだろう。
 リュカは迷いなく衣裳部屋の扉を開け、その中に飛び込んだ。衣裳部屋に仕舞ってあるのは、クロヴィスの衣装だ。

 いい匂いがする、と思った。
 オメガにとってアルファのフェロモンは往々にしていい匂いがするものだ。威圧的なフェロモンには確かに恐怖を覚えるが、彼らの纏う匂いはオメガを魅了しその発情を促す。
 クロヴィスのことはいけ好かないが、彼のフェロモンは眩暈がするほどいい香りなのだ。

 リュカはとりあえず、と最も匂いが強いシャツを数枚手に取った。おそらく、これらのシャツはいつもクロヴィスが出勤するときに着ている王国騎士の制服のシャツだ。
 騎士はその格好のまま動き回るから、きっとたくさん汗もかく。洗濯されたシャツは石鹸の匂いが邪魔をするが、それでもひどく情欲が刺激される匂いだった。

 ――でも、やっぱりここだな……。

 シャツだけでは足りなくて、両腕いっぱいにクロヴィスの衣服を抱えたリュカは、一気にその衣類を簡易の寝台の上にぶちまけた。適当に放られた衣服は小さな山になる。その中に、よいしょとリュカは潜り込んだ。

 寝台からも自分を囲む衣服からもクロヴィスの匂いがする。
 これはオメガの巣作りという行動だ。発情期中のオメガは番や意中のアルファの匂いが付いた物を集めて、それを巣材にして巣を作る。そして番の匂いに囲まれた巣の中で発情期を過ごすのだ。
 これまで特定の相手がいたことがないリュカは、このとき生まれて初めて「巣」を作った。我ながらいい出来だ、と思った。

 本来であれば、そうして作った巣の中に番のアルファを招き入れて巣作りは完成だ。しかし、ここに番であるクロヴィスはいないし、いつ帰ってくるのかもわからない。
 そのことに虚しさや寂しさを感じないわけではなかった。何度も言うが、普段はクロヴィスの不在なんてリュカは全く気にしていない。毎日楽しくのびのびと暮らしている。

 けれども、やはり発情期に番に放っておかれたという事実は、リュカの鋼の心にほんの少しのひっかき傷をつけた。所詮、発情期の感傷に過ぎないとはいえ、それなりに孤独感を覚えてしまうのはオメガとして仕方のないことだった。

 ――早く帰って来て欲しい。

 リュカのオメガ性がそう訴えるのに、理性ではきっと帰って来ないだろうと分かっていた。
 一緒に暮らし始めてたった三か月。その上、会話をした回数など数えるほどだ。しかし、リュカには確信があった。

 結果として、クロヴィスはリュカの発情期が終わるまで帰って来なかった。抑制剤を飲みながら七日間。リュカは疼き続ける身体を何とか慰めて、たったひとりで発情期を終えた。
 もちろん、その間中クロヴィスからは何の連絡もなかった。



 ようやく発情期が終わりかけ、リュカがまともに動けるようになった頃のことだ。
 静かな月明かりが差し込む寝室で、リュカは薬草茶を飲んでいた。
 発情期中のオメガは、まともな食事がとれなくなる。全ての欲求が性欲に変換されるからだ。
 水と僅かな食事だけをとって、発情が終わるまで延々と交わり続ける。それがアルファとオメガの発情期の一般的な過ごし方だ。

 もちろん、ひとりで発情期を耐え抜いたリュカも、七日の間水だけしか取れていなかった。そのときに消耗した体力を補うのが、この薬草茶だった。
 素晴らしく薄いティーカップには繊細な透かし模様が入れられており、淡い色の薬草茶にはよく似合っていた。用意されたクッキーを齧りつつ、少し苦みのある薬草茶を流し込む。

 すっかり痩せた身体を回復させるほど栄養価の高いその薬草茶は、お世辞にも美味しいとは思えない。むしろ、まずい。妙な甘さと苦みが、絶妙に混ざり合って酷い味になっている。
 しかし、クレマンが全部飲めと言ったから、リュカは頑張って飲み進めた。クレマンはあのいけ好かないクロヴィスの右腕のような存在ではあるが、リュカ自身も世話になっている。無口で鉄面皮のベータであるが、そこそこ信頼していた。

 その彼がリュカの身体のことを考えてリュカのために持ってきてくれたお茶だ。飲んで悪いものではないだろう。まぁ、ティーカップ一杯の値段が、金貨一枚だと聞かされなかったら飲まなかったけれども。
 金貨一枚、金貨一枚、と唸りながらなんとかリュカは薬草茶を飲んだ。そして、ようやくあと一口、というところで扉が大きな音を立てて開いた。
 それも書斎と寝室を繋ぐ、あの扉が、である。

 ほとんど三か月ぶりに開いたであろうその扉を開けたのは、もちろんクロヴィス本人だ。
 いつもきっちりと撫でつけられている髪がひどく乱れており、紺色の騎士服も飾緒が外れている。どうやらものすごく狼狽しているらしい。

「お前……! 俺の部屋でいったい何をした!?」

 第一声がこれである。
 しかも、久しぶりに顔をあわせた発情期明けの番への言葉が、だ。
 今帰ったとか、体調はどうだとか、発情期を一緒に過ごせなくてすまなかったとか、ごめんとか、申し訳なかったとか。他にも言うことは山ほどあるだろうに。

 しかし、リュカは穏やかな気持ちで微笑むことが出来た。何故ならば、どうしてクロヴィスがこれほどまでに取り乱しているのかの理由を知っていたからだ。クロヴィスが恐慌状態に陥っているのは、たぶん、というか絶対、リュカの「仕掛け」が原因だ。

「何って、発情期のときにあなたの寝台と衣服を借りただけですけど。オメガの巣作り、ってご存じないですか。番や意中のアルファの匂いが付いた衣服を使って、オメガは巣を作るんです」

 あなたが帰って来ないので、勝手に使いました。
 にっこりと笑ってそう言えば、クロヴィスがぐっと唇を噛んだ。薄くて形のいい唇が、今は悔しそうに歪められている。

 しかし、文句は返って来なかった。どうやらクロヴィスにも一応、発情期の番のオメガを放置したという罪悪感が多少はあるらしい。気まずそうに咳払いをして、着ていた騎士服の襟元を寛げた。

「つ、使うのは構わないが、何故片付けていない」
「アルファに抱かれない発情期は初めてだったので、いつ発情が終わるかまったく分からなかったんです。片づけるのは発情が完全に終わってからにして欲しいと使用人たちに頼みました」

 リュカは白い手を額に当てながら、さも困っているように息を吐いた。
 これは半分は本当で、半分は嘘だ。
 発情期はもうほとんど治まっているが、巣はわざと片づけなかった。
 そう、クロヴィスが大いに狼狽し、リュカに詰め寄っているのはこれだ。

 リュカは発情期に使ったクロヴィスの衣服を、そのままにしておいたのだ。つまり、クロヴィスの寝台の上にこんもりと作ってある巣はそのままで、それらの衣服には当然、発情期のオメガの「匂い」がたっぷりとついている。

 何も知らないクロヴィスは、普段通り帰宅してまっすぐに自室に向かった。扉を開けて、さぞや驚いたことだろう。
 だって部屋の中には濃厚な番のフェロモンで満ちていたのだから。
 リュカの企みどおり、フェロモンに煽られて反応したクロヴィスは、柳眉を歪めてひどく苦しそうな顔でリュカを睨んでいる。その視線だけでぞくぞくと背筋が粟立つようだった。

「発情期ってとっても苦しいんですよ。俺、ひとりで寂しかったな。――だからお裾分けです」

 耐えきれず床に膝をついたクロヴィスからは、とてもいい匂いがした。アルファのフェロモンの香りだ。発情期の間、ずっと嗅いでいた匂いを改めて嗅いで、リュカの身体がじんわりと綻んでいく。

 元々、目が合っただけで発情するほど相性がいいのだ。発情期は終わったとはいえ、アルファに抱かれたわけではない。薬を使って無理やり治めたようなものだ。
 番のフェロモンの中にいて、反応しないほど満たされたわけではなかった。むしろ、待ちに待った番の香りにリュカのオメガの身体が熱を上げた。

「お前、わざと……」
「俺ばっかり苦しいのは、不公平だろ」

 伸ばされた手を受け入れながら、リュカは笑った。
 寝室で、発情したアルファとオメガがふたりきり。しかも、ふたりは番であるときた。
 これだけの条件が揃えば、これから何が起こるのかなんて想像するのは容易いことだ。
 クロヴィスの端正な顔が、苦しそうに歪む。それを見て、リュカは盛大に舌打ちしてやりたくなった。

 ――そんなに、俺を抱くのが嫌かよ。

 リュカだって、自分をここまで嫌う相手に抱かれるなんて、まっぴらごめんだった。これまでセックスは仕事だと思って生きてきたけれど、それでも自分を求めてくれる相手としか寝たことはない。
 こんな嫌々抱かれるなんて、王都でも売れっ子の男娼だったリュカにとって、屈辱以外の何物でもなかった。

 しかし、リュカの番はクロヴィスだけだ。
 番を解消されない限り、リュカはクロヴィスしか受け付けない。他のアルファには触れられることすら出来ないのだ。

 身体は久しぶりに番に会えたことが嬉しいのだろう。治まったはずの発情期が明らかにぶり返していて、まだ指一本触れられていないのに後ろがじゅわりと蜜を滴らせていた。


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