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第二話 事故の経緯

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 リュカが初めてクロヴィスに会ったのは、クロヴィスが赴任していた国境の大きな砦でのことだ。
 その日、王都で高級男娼をしていたリュカは、赴任している騎士のために砦に慰問に訪れていた。

 国境を警護する砦には、数百の兵士と三十人ほどの騎士たちが常に配備されている。近隣に街もあるし娼館もあるが、貴族出身の騎士たちが利用することはない。
 業務上色々なしがらみがある騎士たちは、彼らの口から国家機密が漏れることを危惧して、国に決められた娼館しか使えないからだ。リュカはそんな数少ない高級娼館で、公娼として働くオメガだった。

 国境の砦への慰問は定期的に行われていた。リュカが参加するのは初めてであったが、やることは王都にいるときと何も変わらない。ただアルファに選ばれ、その相手と肌をあわせる。それだけだ。
 そこに好きとか嫌いとか、そんな感情は一切なかった。アルファに抱かれるのはリュカにとって仕事でしかなくて、明日のパンを手に入れるための手段に過ぎない。
 その日だって一緒に慰問に訪れたオメガたちと同じように、何度も繰り返してきたただの一日になるはずだった。

 馬車で数日かけて訪れた砦は、大きな石造りの要塞だった。
 長年、戦争をしてきた隣国との最前線。数年前に停戦条約が締結し、ここ最近は争いがないと言っても、決して配置された人員が減ることはない。ここはこの国きっての危険地帯で、普段は常にぴりぴりとした緊張感が漂っているらしい。

 しかし、その日は一か月に一度の慰問の日だ。騎士たちはそのほとんどが浮足立っており、威厳の欠片もない。一様にそわそわと到着したばかりのリュカたちを見ていた。
 本当なら、公娼たちはそこから広間に異動して騎士たちと対面する。そして騎士が気に入ったオメガを選んで夜をともにするのだ。
 しかし、リュカだけはそうならなかった。広間に行くことすら出来なかったのだ。
 砦内の通路を歩いているときに、クロヴィスとすれ違ったからだ。

 本当にすれ違っただけだった。
 灰色の髪と紫の瞳。遠目から見ても長身の彼は、一目でアルファだと分かった。
 騎士服を着て、クロヴィスは手元の書類を見ながら歩いていた。リュカはそれを横目でちらりと見た。
 整ったクロヴィスの顔を見て、あ、この人アルファだなぁ、なんて思った気がする。

 それは、今日はいい天気だな、とか、庭の花が咲いたな、とかと同じ感覚で、何の感情も籠らないものだった。ただ、そこにある事象を認識しただけ。
 それなのに、リュカはふと顔を上げたクロヴィスと目が合った瞬間に発情してしまったのだ。

 リュカたち公娼は慰問に訪れるにあたり、発情抑制剤を飲んでいる。それは突発的な発情でアルファを惑わさないためであり、フェロモンに誘発され凶暴化したアルファから自分たちの身を守るためでもあった。
 それなのに、リュカは発情した。そんなことは初めてで、たぶん近くにいた同僚たちも驚いていた。

 たぶん、自分とクロヴィスの相性が異常なまでによかったのだ。
 世間で言われる「運命の番」。そんな不確かで曖昧なものが実際に存在しただなんて知らなかった。フェロモンとフェロモンが溶け合って、ひとつになる感覚があって、リュカは自分に向かって伸ばされた手を取った。その全てが衝動的で、無意識の行動だった。

 正直、発情中の記憶はほとんどない。
 気が付いたら知らない部屋で、横になっていた。
 隣には見知らぬアルファがいて、頭を抱えている。身体中が痛くて、あちこちに噛み痕と鬱血痕があった。

 そして、リュカは自分がその見知らぬアルファと番になってしまったことを知った。
 アルファとオメガは、発情期のオメガの項をアルファが噛むことで「番」という関係になることが出来る。番とはお互いを唯一無二の存在とする関係で、結婚などよりもよほど肉体的にも精神的にも強い繋がりだと言われているものだった。

 だからこそ、リュカはしっかりと項を保護するための首環をつけていた。それなのに、リュカを守ってくれるはずのそれは呆気なく外されており、こんな名前も知らぬアルファと番になってしまった。
 そのことに、リュカは少なからず衝撃を受けた。

 リュカは孤児だった。母親はおそらくどこかの娼館の娼婦で父親は分からない。
 貧民街にある小さな教会に捨てられて、物心がつくまではそこで育てられた。十を過ぎた頃に娼館に引き取られ、発情期を迎えるよりも早く男娼となった。

 小さい頃はいつも空腹だった。リュカを育ててくれた教会はひどく貧しく、子どもたちみんなを満足させられるだけの食事を用意出来なかったのだ。
 娼館でも下働きの頃は質素な食事しか与えられなかった。そのせいか、もう十九になるというのに少女のようにがりがりで、身長だってまったく伸びなかった。
 それでも自分で客を取るようになって、その評判から公娼として今の娼館に移ることが出来た。ようやく、ひもじい思いをしないでいい程度には稼げるようになったというのに。

 アルファと番ったままでは、リュカは客が取れない。番のいるオメガは自らの番以外に触れられると、強い拒絶反応が出るためだ。だから、番がいるまま男娼を続けることは不可能で、そうすると娼館に住み込みのリュカは家も仕事も失ってしまう。また飢えた生活に逆戻りだ。

 しかし、リュカは慌てなかった。だってリュカの首を噛んだのは、王国を守護する騎士だ。つまり、相手はお貴族様でアルファ様。
 小汚い男娼と結んだ番関係なんて、すぐに解消するだろうと思ったのだ。
 番を解消されれば、リュカはまた昨日までと同じように客を取れる。噛み痕はなくならないから、ずっと隠しておかなければいけないけれど、それだって今までしていた首環と同じだろう。
 発情期の熱に浮かされて、ついうっかり番になってしまったらしいが、すぐに解消すれば何の問題もない。

 けれども、顔を真っ青にしたままの騎士は、掠れた声で「責任は取る」と言った。
 それにリュカは小さく笑うしかなかった。

 ――だって、責任だなんて。

 娼館で聞く「責任」という言葉が、羽根よりも軽いことなんて、まだ客を取る前の子どもだって知っていることだ。
 貴族のアルファたちにとって娼館のオメガなど、戯れに触れることが出来る愛玩動物のようなもので、到底その一生を背負うようなものではない。閨では「責任」だなんて言葉を神妙な顔で口にするくせに、夜が明ければそれはなかったことになる。

 信じてはいけない。信じたら自分が傷つくだけなのだ。
 それなのに、その騎士――つまり、クロヴィスはリュカと結婚すると何度も繰り返し言った。
 クロヴィスの言葉を話半分に聞いていたリュカだったが、クロヴィスが娼館から一緒に来たお目付け役の世話係にリュカの身請けを打診したあたりから首を傾げ始めた。

 この騎士はどうして目付け役と身請けの相談をしているのだろうか。
 どうして、いつまでも番を解除しないのだろうか。

 すぐに解除されると思っていた番契約は、リュカの予想を裏切っていつまでも解除されなかった。
 そして、砦から王都に戻るときにクロヴィスに言われた言葉にリュカはひどく驚いた。

 ――君を身請けできるように手配したから。色々な処理が終わったら結婚しよう。

 そして、クロヴィスは休みのたびに王都に戻り、まだ娼館にいたリュカと面会した。彼の言う「色々な処理」というものの詳細は分からなかったが、番になって二か月後には結婚式を挙げていた。おまけに国から正式に「婚姻をした」と認めてもらう婚姻証明書までもらってきたらしい。その徹底ぶりには苦笑するしかなかった。

 クロヴィスはクソ真面目なことに、本当に「責任」を取ってくれたのだ。
 というのも、一生に何度も相手を変えて番えるアルファとは違い、オメガは一生に一度しか番を作れない。番を解消すれば他のアルファに抱かれることは可能だが、新たに番になることは叶わないのだ。
 おまけに、番を失ったオメガは弱って死ぬこともあるという。

 リュカは自分がそんな繊細な性格をしていないことを知っていたが、会ったばかりのクロヴィスにそんなことが分かるわけもない。そういうオメガの特性をクロヴィスは知っていて、簡単に番を解消することが出来なかったのだろう。

 そして、今に至る。

 ――あれほど自分を嫌うのならば、別に番を解消して放り出してくれて構わなかったのに。

 ついそう思ってしまうのは、これまでリュカが誰の力も借りずにたったひとりで生きて来たからだろうか。実際、番になったことを知ったときだってリュカは、一瞬衝撃を受けたがやっちまったなぁ程度でしかなかった。

 それなのに、クロヴィスはリュカと結婚してくれて、三食食べさせてもらえるうえに、閨の相手もしなくていいと言われた。
 つまり、リュカは息をするだけでご飯を食べさせてもらえるのだ。そんな怠惰なこと、これまでの人生で許されたことは一度だってない。

「それって最高なのでは……?」

 リュカはふかふかの寝台に寝転がったまま、ここ数日会っていない夫に盛大に感謝したのだった。



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