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第二十四話 自覚 -1
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深緑色の鱗が冬の朝日に照らされて艶やかに輝いていた。
昨日と同様、雪の降らない朝だった。分厚い灰色の雲から降り注ぐ仄かな白い光が、開け放った竜舎の窓から差し込んでいる。竜は僅かな日光を浴びて、気持ちよさそうに目を細めていた。
けれどもその広い背中にある鱗のいくつかは禿げ、血が滲んでいる。おそらく、敵の竜に噛みつかれた痕だ。
包帯は必要ない程度の傷ではあるが、近くに触れると多少は痛むらしい。ほとんど塞がった傷を庇うように、その竜はルインに向かってぐるぐると唸った。
それでも噛みつかないのは、彼がルインに全面的な信頼を寄せているからだ。傷にたっぷりと化膿止めの軟膏を塗って、ルインは竜の背中を宥めるように撫でた。
「ルイン、そっちはどうだ」
「怪我もほとんど昨日のうちに塞がってるみたいですね。みんな元気ですよ」
竜舎の反対側を回っていたグスタフが、ルインに声をかけた。
昨日の戦闘終了後、すぐさま重症の竜の処置にかかったルインは、その他の竜の状態を確認できていなかった。リアムと担当の騎士たちだけで軽傷の竜には応急処置が施されていたが、それも適切に行われたようだった。もとから丈夫な体躯を持つ竜の傷は、切り傷程度ならば一晩で塞がってしまう。
「夜はどうでしたか?」
「まぁ、大きな問題はなかったな。傷は痛むようだが暴れる様子もねぇし、このまま二、三日様子を見て大丈夫そうなら空も飛べるだろ」
「よかった」
昨日、怪我をした竜たちは無事に夜を越したらしい。
念のため今日まで夜の番をして様子を見ることになったが、それ以降は竜たちの治癒力に任せて大丈夫だろう。
激しい戦闘から一頭も欠けずに戻って来た竜を労うために、ルインは木桶を抱えた。戦闘の後処理が忙しくなると、彼らの騎士たちは竜舎を訪れることが難しくなるのだ。騎士の代わりに鱗を磨き、爪を削り、その牙を撫でてやるのは竜師の仕事だ。
重たいものを持つと、腰が妙な感じに軋んだ。鈍い痛みとともに小さく呻くと、隣にいたリアムが不思議そうな顔をする。それに曖昧に笑って、ルインは黙々と作業をした。
昨夜、ルインはシグルドに抱かれた。
優しく慈しむような手に与えられた、溺れそうな快楽と激しい愉悦。
朝起きてそれが夢ではなかったと思えたのは、身体中がひどく痛んだからだ。
あれほど丁寧に拓かれた身体には、それでもそれ相応の負担がかかっていたらしい。開きっぱなしだった股関節は強張ったままだったし、シグルドを受け入れた後ろはひりひりと擦れたような痛みがあった。
けれども、それ以外は全てがいつも通りだった。
目が覚めたとき、シグルドはいつもと変わらず同じ寝台の上にいた。
昨夜のことについて何も言わないその態度に、彼が努めて普段通りにしようとしていることが分かった。そんな彼を見て、ルインも昨夜のことを言及することはやめたのだ。
騎士であるシグルドにとって、ああやって戦闘後に誰かを抱くことはよくあることなのだろう。今回相手をしたのが、たまたま商売女ではなかっただけで、そこに意味を持っては駄目なのだと思った。
想いを告げられたわけでも、告げたわけでもない。
あれはただ強い孤独感に苛まれたシグルドを慰めるためだけの行為だった。
そう自分に言い聞かせ、何も言わないルインにシグルドは何を思ったのだろうか。なかったことにしたがったくせに、何か言いたげな視線だけを投げてくるシグルドを無視して、ルインは立ち上がろうとした。
そのとき、よろめいてしまったのは不覚としか言いようがない。思ったよりも力が入らなかった両脚は、ルインの体重を支えることが出来なかったのだ。
そのまま寝台に倒れ込もうとしたルインを支えてくれたのはシグルドだった。逞しい腕がルインの腹に回って、しっかりと抱え込んでくれた。近づいたことで触れ合った布越しの肌も、感じた体温も昨日の熱を十分に思い出させるもので、ルインの心をひどく狼狽えさせた。
すぐに離れてしまった彼の手のひらは、けれども相変わらず優しかった。
仕事に行くのか、と問われて、ルインは行く、と答えた。
何を当たり前のことを聞くのかと思った。昨日の戦闘で砦全体が忙しなく、仕事はいくらでもあるだろう。夜通し瓦礫の撤去作業をしていた部隊だってあるくらいなのに。
助けてくれたアーベントの鱗のひとつでも磨いてやらないと、と真顔で言えば、シグルドはいつものように苦笑してルインの前髪を乱した。そっと耳朶を撫でられたことには気づかないふりをした。
昨日と同様、雪の降らない朝だった。分厚い灰色の雲から降り注ぐ仄かな白い光が、開け放った竜舎の窓から差し込んでいる。竜は僅かな日光を浴びて、気持ちよさそうに目を細めていた。
けれどもその広い背中にある鱗のいくつかは禿げ、血が滲んでいる。おそらく、敵の竜に噛みつかれた痕だ。
包帯は必要ない程度の傷ではあるが、近くに触れると多少は痛むらしい。ほとんど塞がった傷を庇うように、その竜はルインに向かってぐるぐると唸った。
それでも噛みつかないのは、彼がルインに全面的な信頼を寄せているからだ。傷にたっぷりと化膿止めの軟膏を塗って、ルインは竜の背中を宥めるように撫でた。
「ルイン、そっちはどうだ」
「怪我もほとんど昨日のうちに塞がってるみたいですね。みんな元気ですよ」
竜舎の反対側を回っていたグスタフが、ルインに声をかけた。
昨日の戦闘終了後、すぐさま重症の竜の処置にかかったルインは、その他の竜の状態を確認できていなかった。リアムと担当の騎士たちだけで軽傷の竜には応急処置が施されていたが、それも適切に行われたようだった。もとから丈夫な体躯を持つ竜の傷は、切り傷程度ならば一晩で塞がってしまう。
「夜はどうでしたか?」
「まぁ、大きな問題はなかったな。傷は痛むようだが暴れる様子もねぇし、このまま二、三日様子を見て大丈夫そうなら空も飛べるだろ」
「よかった」
昨日、怪我をした竜たちは無事に夜を越したらしい。
念のため今日まで夜の番をして様子を見ることになったが、それ以降は竜たちの治癒力に任せて大丈夫だろう。
激しい戦闘から一頭も欠けずに戻って来た竜を労うために、ルインは木桶を抱えた。戦闘の後処理が忙しくなると、彼らの騎士たちは竜舎を訪れることが難しくなるのだ。騎士の代わりに鱗を磨き、爪を削り、その牙を撫でてやるのは竜師の仕事だ。
重たいものを持つと、腰が妙な感じに軋んだ。鈍い痛みとともに小さく呻くと、隣にいたリアムが不思議そうな顔をする。それに曖昧に笑って、ルインは黙々と作業をした。
昨夜、ルインはシグルドに抱かれた。
優しく慈しむような手に与えられた、溺れそうな快楽と激しい愉悦。
朝起きてそれが夢ではなかったと思えたのは、身体中がひどく痛んだからだ。
あれほど丁寧に拓かれた身体には、それでもそれ相応の負担がかかっていたらしい。開きっぱなしだった股関節は強張ったままだったし、シグルドを受け入れた後ろはひりひりと擦れたような痛みがあった。
けれども、それ以外は全てがいつも通りだった。
目が覚めたとき、シグルドはいつもと変わらず同じ寝台の上にいた。
昨夜のことについて何も言わないその態度に、彼が努めて普段通りにしようとしていることが分かった。そんな彼を見て、ルインも昨夜のことを言及することはやめたのだ。
騎士であるシグルドにとって、ああやって戦闘後に誰かを抱くことはよくあることなのだろう。今回相手をしたのが、たまたま商売女ではなかっただけで、そこに意味を持っては駄目なのだと思った。
想いを告げられたわけでも、告げたわけでもない。
あれはただ強い孤独感に苛まれたシグルドを慰めるためだけの行為だった。
そう自分に言い聞かせ、何も言わないルインにシグルドは何を思ったのだろうか。なかったことにしたがったくせに、何か言いたげな視線だけを投げてくるシグルドを無視して、ルインは立ち上がろうとした。
そのとき、よろめいてしまったのは不覚としか言いようがない。思ったよりも力が入らなかった両脚は、ルインの体重を支えることが出来なかったのだ。
そのまま寝台に倒れ込もうとしたルインを支えてくれたのはシグルドだった。逞しい腕がルインの腹に回って、しっかりと抱え込んでくれた。近づいたことで触れ合った布越しの肌も、感じた体温も昨日の熱を十分に思い出させるもので、ルインの心をひどく狼狽えさせた。
すぐに離れてしまった彼の手のひらは、けれども相変わらず優しかった。
仕事に行くのか、と問われて、ルインは行く、と答えた。
何を当たり前のことを聞くのかと思った。昨日の戦闘で砦全体が忙しなく、仕事はいくらでもあるだろう。夜通し瓦礫の撤去作業をしていた部隊だってあるくらいなのに。
助けてくれたアーベントの鱗のひとつでも磨いてやらないと、と真顔で言えば、シグルドはいつものように苦笑してルインの前髪を乱した。そっと耳朶を撫でられたことには気づかないふりをした。
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