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第39話

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 翌日は晴天の下、大江在良の娘・秋子はつつがなく東宮入内の儀を終わらせた。

 入内行列は身分も踏まえて控えめなものであったが、それでも京の都の人々は華やかな行列を眺めては感じ入ったように深々と溜息を洩らした。

 内裏に着くと現在の東宮御所である梨壺からの出迎えが門前に参じており、それを見た霧島は無事到着かと安堵の溜息をついたが、そこから賜った部屋の桐壺までがまた遠かった。

 だが何の事件も起こらず大イヴェントをひとつクリアしたのは僥倖である。

 東宮御所の置かれた梨壺に桐壺は近い。だが入内したからといって即、東宮一の宮が訪れるといったものではないらしく、皆がそれぞれ自分の場所に落ち着くと、殆どの者が痛む足を庇って却って静かになるという現象も目の当たりにした。

 そんな中で十二単とかもじには参ったものの、普段から鍛えているのでこのくらい何でもない霧島は、桐壺の新しい主がおわす昼の御座所にさっさと向かった。そこには本物の秋姫も女房姿の十二単で座していて、小さな躰に唐衣が可哀相なくらい重々しい。

 一方で京哉だけは白絹の着物に袴、袿という普段着に着替えて畳に座っている。
 
「早くかもじのない生活に戻らんと、後頭部がハゲそうで怖いのだがな」
「忍さんも頭髪量を気にするお年頃ですもんね、男性ホルモン出過ぎだし。でも誰が聞いてるか分からないし、貴方の低い声はよく通りますから、少し音量を落として下さいね」

「だが今日はこれで終わりなのだろう?」
「ええ、予定終了らしいですよ。今夜から動きますか?」
「当然だ、何のためにこんな格好までしたと思っている」

 そこに女房装束の有子が入ってくる。銀髪を黒く染めたので雰囲気が違った。

「向こうからきてくれれば有難いけれど、望み薄らしいわね」

 見た目の雰囲気は違っても冷静かつはっきりした物言いは変わらない。対して聞いていた霧島と京哉が挙動不審で女性陣が笑う。
 もう皆が女装二人組には火桶が必要だと認識していた。有子が女房に申しつけると救世主・玉枝が火桶を何処からか調達してくる。

 出入り口から見えないよう几帳の陰で二人は隠れ煙草しながら囁き合った。

「特別任務が下った日を入れて今日でもう四日目だ、拙いな」
「忍さんが僕を見つけた時点で任務完了じゃないんですか?」
「いや、任務はお前を【原状復帰させよ】だからな。帰れないのかも知れんが、可能性は捨てきれん。できればあと三日以内にここでの件は片を付けたい」

「そっか。そうするとかなりタイトですよね」
「やってみるしかないだろう」
「まあ、そうなんですけど。ところで忍さん、昨日のお風呂はどうでした? 気持ち良かったですか?」
「ゲホゲホゲホ……ゴホッ!」
「ちょっと、いきなり何なんですか」

 涙目になりながら霧島は慌てて煙草を消した。

「いいなあ、僕もお風呂に入りたいなあ。誰に頼めばいいんでしょうね?」
「い、いや、やめておけ、ここの風呂はやめておけ」

 まさかと思うがここでうっかり京哉に十一人の子供を作られては敵わない。不審そうな京哉の視線を避けてもう一本煙草に火を点けスパスパと吸った。
 京哉はゆっくりと紫煙を味わっている。そして残り一箱ずつを温存すべく几帳の陰から二人は出た。

 すると京哉が定位置に就くなり見かけない女房が一人、音もなく入ってくる。女房はその場に端座すると捧げ持っていた足つきの台をうやうやしく差し出した。

「我が主の東宮一の宮様からの差し入れにございます」

 菓子台の上には饅頭のような菓子が綺麗に積み上げられていた。

「かたじけのう、ありがとう存じます」

 独特の言い回しで礼を述べたのは玉枝、女房が去って溜息の合唱となる。

「わあ、本当に何処に耳があるか分からないですね」
「ああ、かなりの神経戦になりそうだ」

 言いつつ霧島は手を伸ばし無造作に饅頭をひとつ掴むと大口を開けて噛みついた。

「あの男もこういう気遣いはできるのだな」
「ったく、貴方の自意識のなさには呆れますよ」
「毒見だ、毒見。旨いぞ、みんなも食え。疲れた時は糖分が効くぞ」

 久々の甘味が旨くて霧島はふたつめに手を出している。皆も手を伸ばした。甘いものを摂って疲れを癒すと気の利く玉枝が何処からか今度は白湯を持ってきてくれた。
 菓子台が空になると続けて夕食だった。なりゆきで玉枝を除く四人が膳を並べた。祝い膳らしく食事の内容はかなり豪華だった。

 だが本当の主人公である秋姫は相変わらず食が進まない。心配した姉の有子が声をかけるも、秋姫は黙って首を横に振るばかりだ。
 ここ数日ずっと傍で様子を見てきた京哉も声を掛け、霧島も幼い姫を心配する。

「ねえ、秋姫。貴女、本当に顔色が悪いですよ?」
「そういやそうだな。歩き慣れないのに徒歩移動だ、疲れすぎたんじゃないのか?」
「……いいえ、大丈夫です……うっ!」

 ふいに秋姫は口元を袖で押さえると同時に立ち上がろうとし、よろけて霧島に支えられた。ただごとでない様子に霧島がそっとその場に寝かせる。
 すると既に秋姫の華奢な躰は完全に力を失ってしまっていた。京哉がでバイタルサインを確認したが異様に脈が速く冷たい汗をかいていた。

 急いで霧島が奥の間の御帳台に秋姫を抱き運んで寝かせる。

 重い女房装束を脱がせて着替えさせるまで男二人は手前の部屋で暫し待ち、玉枝の合図で寝室に再び踏み入って御帳台の傍に近寄った。秋姫は意識を取り戻していた。

「ここに医者は呼べないのか?」
「医者って薬師のこと? そりゃあ呼べると思うけれど誰に言えばいいのかしら?」
「だめ……薬師は呼ばないで……お願い」

 皆で説得するも、秋姫は消え入りそうなか細い声で抵抗を続ける。

「秋子、どうして? 薬師に診て貰わないと。こんなに冷たい汗をかくのは変よ」
「お願い、姉様……薬師は嫌」

 その場の皆が困惑する中、秋姫の様子を黙って見ていた京哉が口を開いた。

「もしかして秋姫、貴女、妊娠してるんじゃないですか?」
「えっ……?」

 皆の視線が御帳台の秋姫と京哉を往復する。妹姫から最近になって恋人の男君について切羽詰まった様子の手紙で相談を受けていた姉が事実を知るべく訊いた。

「まさか秋子、貴女、赤ちゃんが……本当なの?」

 もはや秋姫は両手で顔を覆って泣き出していた。それは肯定したも同然だった。
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