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第38話

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「第一関門の突破、おめでとうございます」
「こんな格好までして失敗したら目も当てられん。だが大雑把なタイプで助かった」
「そうですね。それに野望で歪んでいても乳母として秋姫に愛情はあるみたいですから、入内後の頼もしい女房だと見込まれたのかも……っと、誰か来ますね」

 現れたのは女房二人で、それぞれが膳を捧げ持っていた。これから京哉は食事らしい。奥の間に暫し京哉は消え、戻ってきた時には本物の秋姫を伴っていた。
 秋姫とは昨夜一度会っただけだったが、霧島の顔を遠慮がちに眺めたのち口元を手にした扇で隠しつつ、鈴を転がすような声で軽やかに笑った。

「まあ、大胆なことをなさるのね、霧島の宮様は。でもとっても綺麗だわ」
「勘弁してくれ、参っているんだ。それより私は竜胆だそうだからな」
「竜胆、お似合いね。本当に綺麗。姉の有姫様なら素敵な物語を書きそうなくらい」
「もうとっくにリアルなネタにされている」

 少し小首を傾げたのち、にっこり笑い京哉と向かい合わせになると食事を始める。
 その食事中の秋姫を霧島はやや無遠慮に観察した。

 衣装に埋もれてしまいそうなほど華奢で小さな躰。緩やかにうねる黒髪は豊かで見事な漆黒だ。物腰は優雅というより、おっとりしている風である。小作りの顔に嵌った瞳の色は薄かった。肌も白く、本当に深窓の令嬢は陽の光を直接浴びたことなどないらしい。

 顔立ちは有子の方がはっきりしているが、こちらは美人というより可愛い。確かに男が護ってやりたくなるような、違う言い方をすれば征服欲を刺激されるタイプだ。

 そんなことを考えつつ眺めていると、秋姫は膳の物を三分の二分以上残して静かに箸を置く。恋患いも真っ只中で別れ言葉も聞いたのだ。食が進まないのは当然かも知れない。
 そういう目で見れば、秋姫は僅かにまぶたを赤く腫らしているようにも思われる。

 一方で京哉が綺麗に食べ終えたのを見て霧島は安心した。

「それで今日の予定はどうなっているんだ?」
「僕らは遊んでていいんですよ、霧島の宮様の声を聞かれて正体がバレたりしないよう気を付けさえすれば。それこそ火桶を持って歩いてたらみんな卒倒しますからね」
「ふうん。何で遊べばいいのだろうな?」
「入内のお祝いに主上から素敵な貝合わせのお道具を頂いたの。どうかしら?」

◇◇◇◇

 日がな一日秋姫の遊び相手を務めたのち、霧島と京哉は塗籠の中にしつらえられた寝所で一休みしていた。

 幾ら対外的に京哉が『秋姫』でも、本当は違うことなどこの東北の対に暮らす主要人物は知っている。そんな京哉を寝る時まで丁重に扱ったりしないらしく寝床は畳の上に薄っぺらな茵一枚と衾に固い枕、あとはかもじを入れる御髪箱のみだ。

 霧島も泊まれるよう同じものが二組並んでしつらえられていたが、ここで寝る訳にはいかない。化粧したまま十二単の盛装では眠れない。明日の朝に再び着用する際もこの東北の対の女房に任せてはバレてしまう。西の対に帰らなければならなかった。

 亥の刻二十一時、火桶を灰皿代わりに二人は数時間ぶりの煙草を味わっていた。
 
「明日はお前だけが牛車か。この格好で一時間練り歩くとは、ぞっとするな」
「我慢ですよ。深窓の姫君の秋姫だって女房のふりして歩くんですからね」
「分かっている。だが私が女房とは信じがたいな。一生の汚点になりそうだ」
「汚点だなんて……すっごく綺麗で吃驚しちゃいましたよ」
「お前もあれだけ笑っておいて、今更どの口で言っているんだ。それと京哉、携帯を撃ち壊されたくなければ、お前が今日盗み撮りした私の画像は廃棄しておけ」

 灰色の目に睨まれた京哉は肩を竦めて素直に犯行を認める。

「残念、気付いてたんですか?」
「四枚か?」
「すみません、六枚です」
「怖いな、さすがはスナイパーというところか。知らずに二射も浴びていた」
「僕だけの宝物に……すみません、ちゃんとデリートします。でも本当に男の人には気を付けて下さいね。この時代の男なんてゲットした女性の数を競うケダモノなんですから」
「それ以上言うな、せっかく食った晩飯を無駄にしたくない」

 煙草を消すと霧島は立ち上がった。帰ると告げてあったが京哉は文句を垂れる。

「えーっ、もう帰っちゃうんですか? 本当に?」
「帰ったら玉枝に風呂を恵んで貰う約束だからな」
「それ、いいなあ。僕はここで躰を拭くだけなんだもん」
「お前も抜け出せたらいいが、二晩連続で消えるのも拙い。すまんが我慢してくれ」

 再びしゃがむと羨ましげな京哉の唇と髪にソフトキス、霧島は袴の裾を捌いた。

「缶詰ご苦労。明日も早めに来るから待っていろ」
「ラジャー。おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」

 離れ難くてもう一度ソフトキスを交わして塗籠から出る。チャチな掛け金が掛かる音を待って人の気配の失せた屋敷内を密やかに移動し始めた。
 歩き方のコツが掴め、もう転ぶこともない。一度しか通っていない簀の子の縁を迷いなく歩き夜気を吸う。

 元のフローリングの部屋に戻ると玉枝と女房二人が待っていてくれた。重たい衣装を速攻で脱ぎ捨て、かもじを外されると反動で躰が浮き上がったような気さえした。

 だが気に入る気に入らないはともかく、今日一日を練習だと思って我慢した甲斐はあった。いきなりこれを着せられては、明日は身動きも取れなかっただろう。有子は十四歳の小娘と侮れぬほど有能だった。そうでなくても郷に入っては郷に従えということだ。

 若草色のあこめを着て帯を巻きつけると、心得た玉枝が先導を務めてくれる。待望の風呂はここでは『湯殿』なる名称で、屋敷の中でも奥まった一角を占めていた。
 そこには湯船が据えられ気持ちよさそうな湯気が立っている。ここから汲み出して湯を被るらしい。本来ならここは穢れを祓うために禊ぎをする場所という話だった。

 玉枝先生に依ると、本当の風呂殿は浴室の床下に置いた湯釜で湯を沸かし、湯気を浴びる蒸し風呂方式で、それも湯帷子ゆかたびらなる衣服を身に着けて入るものなのだそうだ。
 だがザバザバと湯を浴びたいというリクエストに玉枝は応えてくれた。礼を言って玉枝を帰し、本当なら浸かることはない湯船にもしっかり浸かって暫し肌を緩める。

 そこで引き戸が開き、霧島付きの女房の一人が入ってきた。名前は覚えていない。

「どうした、何かあったのか?」
「いいえ。囲碁大会で勝って、宮様のお背中をお流しする権利を得たのですわ」

 言うなり薄い単衣だけを身に着けた女房は中まで踏み入ってきて、いきなり霧島の肌を掌で撫で回し始める。事態に対し呆然としていると女房の手は霧島の下半身にまで容赦なく伸びた。女性にまるで欲望を抱かない霧島はドン引きする。

「ちょ、おい、やめろ! そんなサーヴィスは要らん、こら!」
「宮様ったら、意外と慣れていらっしゃらないのかしら?」
「慣れるも何もない! あっ、く、そこは本当に拙い、やめてくれ!」
「いいんですのよ、お背中を流す女は好きになさっても。そういうものですから」

 呆れた倫理観に霧島は脱力……している場合ではなかった。

「うっ、そこは、やめろと言っているだろう!」
「そう仰らずに。照れていらっしゃるの?」
「そうではなくてだな。あああ、もう、頼むから出て行ってくれ!」

 低く唸った声に本気の不機嫌を感じたか、女房は手を止めて霧島を哀しげに見る。

「わたくしがお気に召さないのですね、宮様」
「いや、あんたはたぶん美人でそそるタイプに分類されると思うが、それとこれとは別だ。喩えあんたが男でも私は据え膳を食わん。私にはもう京哉がいるのだからな」
「まあ。やっぱり姫様のおっしゃった通り奇しき恋というのは本当だったのですね」

 そんな女房の薄い着衣は濡れて肌を透かし、おそらく性的嗜好がストレートの男の視覚には非常に心地良いのだろうと思ったが、百歩譲ってもここで背中と一緒に流されてしまう訳にいかない。譲ろうが譲るまいが何れにせよ何事も成立しないと思われるが。

「すまんが出て行ってくれるか?」

 ようやく女房が退出して、霧島は湯船から上がることができた。巨大な溜息をつきながら湯殿から出ると玉枝が置いていった布で躰を拭い、衵と帯を身に巻きつける。
 湯あたり気味の霧島はフローリングの部屋に戻るなり御帳台に倒れ込んだ。
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