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第40話

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「そうだったの。泣かないで、秋子。とってもおめでたいことなんだから」
「でもそれ、相手の人も知ってるんでしょうか?」

 柔らかく京哉が訊くも秋姫は泣くばかりで、つまり一の宮に伝えていないようだ。

「けど最低限、相手の男には言わないと」
「だめ、だめよ……入内したわたくしに東宮様以外の殿方のおややが出来たなんて、知られたらお父様は官位を剥奪されかねないわ……絶対にだめ――」

 秋姫には『名乗らない男君』が一の宮だという事実は未だ伝えていなかった。もし何があろうと一の宮が自身の言葉通り秋姫を無視する気なら、却ってつらい想いをさせるからだ。

「だがこうなれば話は別だろう」
「そうね。どうあっても東宮様には責任を取って貰わないといけないわ」

 やっと秋姫を寝かしつけ、霧島と京哉に有子は御座所で額を突き合わせていた。

「では一の宮を呼ぶしかないな」
「分かったわ。なら文を出しましょう」

 まどろっこしいことながら、この世界では必要なことらしい。

 有子は墨をすり霧島たちには読めないミミズが這ったような文字で紙に何事かを書きつける。そして出来上がったものを塗りの箱に収めると玉枝に託した。ガチガチに緊張した玉枝はうやうやしく文を捧げ持ち、出来の悪いロボットの如き歩みで東宮御所方面へと消える。

 初めての東宮御所との往復は難儀だったらしく、玉枝が戻ってくるまで随分と時間が掛かった。仕方ない、既に日も暮れていて廊下の人通りも殆ど途絶えているのだ。
 廊下には例のカンテラ風の明かりが灯ってはいるが、間遠な光を頼りに少なくなった住人を捕まえて順路を訊くのも容易ではあるまい。

 使われる身とはいえ女性ながら天晴れである。

 おまけに戻ってきた玉枝はまた文を携えていた。貴人の間ではその場で返事が貰えるなど滅多にないことらしい。これは期待できると踏んだ有子は目を輝かせて手紙を読む。

「今晩ここに東宮一の宮様がいらっしゃるわ。ただ正式のお渡りとなると『嫁入り相手への訪問』、つまり三日連続で通う正式の婚姻の初日になってしまうわ」
「それで構わないのではないのか? 大体、本当に秋姫は一の宮の嫁だろう?」
「建前上はそうだけれど、もし本気で通うのなら三日続けて吉日になる時を陰陽寮に占わせたり、とにかく面倒で今すぐって訳にはいかないものなのよ」

 なるほど、偉くなればなるだけ面倒なのは千年前から同じらしい。

 だが三日連続で一緒に寝て最後の朝に餅を食うだけ、それも通い婚が罷り通る世界で三日連続も何も馬鹿馬鹿しいしきたりだと霧島は思う。東宮ともなれば別かも知れないが、貴族階級でも通い婚の最初の三日間はしっかり行為を致しておいて、周囲は気付かないふりなのだ。

 それで最初の三日が明けた朝、枕元に婚姻成立の証しに餅が出現しているという。

 かなり笑えるシチュエーションだが、それより今は有子が手にした手紙の内容だ。

「今すぐ動けない東宮様が秋子に会いに来てくれるのは誠意の表れよ。だから向こうの条件である『密やかな訪問』にすることと、秋子を訪ねる男君が一の宮という事実を秋子本人には内密にする、このふたつは護らなきゃいけないわね」

「誠意には誠意で対応すると言いたいのは分かるが、何故訪ねてくるのが東宮一の宮であることまで内密にしなければならないんだ? 東宮妃として東宮の子供を妊娠したんだろう、めでたいことじゃないのか? 誰かが『孕んだら勝ち』と言っていただろう」

「確かにそうだけれど東宮様にも思うところがあるんでしょう。それをきちんと聞いてからじゃないと、勝手な真似をして東宮様の思惑をわたしたちが壊してしまう訳にはいかないでしょう。あとあと秋子の生活と幸せが懸かっているんだから」
「そうですね。無視する宣言を翻してでも会いに来るんだから、いい傾向ですよね」

 じれったいほど緩やかに、とろとろと溶けるように時間は過ぎた。そうして子の三刻、零時半頃になって女房が一人、燭台を手にやってきた。

「我が主がお渡りになります。ですがくれぐれもこのことは他言されませぬよう」
「あい、承知いたしましてございます」

 ここでも取り次ぎといって口を利くのは玉枝の役目だ。本当なら今は同じく女房役である、京哉以外の誰でも良いのだが何せ皆が似非女房で慣れていない。
 それはともかく姫様生活というのは、まどろっこしい上に喋ってもならないという窮屈さで先人を思うと気の毒である。尤も秋姫を演じる京哉は喋る訳にもいかないのだが。

 やがて一旦女房は消え、今度こそ東宮が共に現れる。

「秋姫は……秋子は無事なのだろうか?」

 入ってくるなり東宮は他の誰も目に入らぬ風情で訊いた。答えを待たず奥の間へと踏み入って寝床へと駆け寄る。ここでは誰も逢瀬の邪魔はせず、ふすまを閉めて遠慮した。実際、東宮の嫁の寝所に現れた超怪しい男という設定だが仕方ない。

「本当に心配で、居てもたってもいられなかったって感じでしたね」
「確かに無理を押してでも会いたかった風ではあったな」
「取り敢えず、これで姫が落ち着いてくれたらいいんだけれど」
「姫様、きっと大丈夫ですわ。あの東宮様のご様子、愛に満ちておりましたもの」

 何を何処まで知っているのか分からない東宮付きの女房がふすま一枚を隔て廊下に座っているので、皆で雑談をする際も京哉と秋姫が入れ替わっていることや、霧島までが女房のふりをして混じっていることなどがバレないよう、ほんの小さな囁き声で気を使う。

 それなら黙っていればいいのだが、基本的に黙っていられない面子ばかりが集まっているので、ふすまの向こうを気にしながらもボソボソと喋りつつじっと待った。

 長い時間が過ぎ、ようやく東宮が出てくる。

 ふすまを開けて廊下の女房に合図した玉枝は、京哉を促して畳の御座所から皆と同じ位置に降ろすと東宮に譲らせた。
 東宮は静かに腰を下ろしてあぐらをかき、その場の面々を見渡す。
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