さみだれの初恋が晴れるまで

める太

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大学生編

甘夏③*

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 大体の者たちが覚束無い足取りで、何名かは引き摺られるようにして店の外に出る。夏の夜らしく気温もそれなりに高いはずなのに、アルコールが巡回する体は涼しく感じてしまう。

「はーい、二次会行く人~!」

 誰かの呼び掛けに対して芯が抜けた手がちらほら挙がる。つられて挙げようとした手は、伊織の隣の男に掴まれてしまった。

「ええ、早月くん行かないの~?」
「なら私も行かなーい」
「うわっ、現金な奴ら!」

 どこか遠いところで同期たちの会話を聞きながら、伊織は自らの手を取った男を見上げる。なんで、と洩らした不満は声になっていたか不明だが、環は首を横に振ってみせた。
 そんな環の頬もほんのりと赤い。他の者たちの顔は茹で蛸のようにしか見えない。それが環となると少々重たくとろみを帯びた瞳といい、血の巡りが良くなった鮮やかな唇といい、なんだか艶めかしくて困ってしまった。

「浅葱、帰るよ」
「うん……」

 腕を引かれる。伊織は素直に頷いた。
 去り際に振り向いて、伊織と同じかそれ以上に顔を真っ赤にした面々に大きく手を振る。
 三分の二ほどは二次会に行くらしい。伊織たちは集団に背を向けることになる。
 賑やかな声が遠ざかっていくのがなんだか物寂しく、強請るように環を見上げるたが、「だめ」と短く却下されてしまった。
 二次会のカラオケ、結構行きたかった。

 飲み会をしていたのは大学近くの店である。十五分ほど歩けば学生寮に辿り着く。

「ひとりでかえれるよー……」
「んなわけないだろ」

 環が呆れたように言う。
 本当に一人だって帰ることはできる、と思う。しかし逃してしまうのは惜しかった。もう伊織は言い返さなかった。
 歩く伊織の体がふらりふらりと左右に揺れていた。時折横を通り過ぎて行く車や蛾が集っている街灯を眺める。こんな時間にわざわざ徒歩で出歩く人もいまい。
 だから伊織の右手は環と繋がったままで、体温が手のひらからじんわりと伝わってくる。暑いし、自分の手汗は気になるが、言葉の通り手離せない。
 その時、唐突に繋いだ手を引っ張られた。伊織はそこで初めて自分の体が傾いていたことに気が付く。

「調子に乗って飲みすぎ。何杯飲んだんだよ」
「…………分かんない」
「だろうな」

 記憶はある。みかんサワーは美味しかったし、その後にレモンサワーも飲んだ。やっぱりみかんが口恋しくて、もう一度頼んだあたりから急に眠くなってきたと思う。
 今も睡魔が傍にいる。店を出た時は涼しいと感じたが、よくよく考えなくても冷房の効いた店内の方が良いに決まっていた。頬を撫でる生温い風では眠気覚ましにもならない。
 いつの間にか交互に絡んでいた指に力を込める。力を入れたり抜いたりを繰り返して遊んでいると、環が擽ったそうに笑った。

「どうした?」
「……分かんない」

 頭がぼんやりしている。まるで霞がかかったようだ。体がふわふわ浮いていて、まるで雲の上を歩いているような感覚だった。

「分かんないか」

 環は伊織の言葉を繰り返した。柔らかく包み込むような声だった。少し低くて落ち着いていて、環の声も好きだ。でも、もっと甘ったるく呼んで欲しい。
 それきり二人の間に静寂が訪れる。
 じっとりと肌に纏わりつく蒸し暑さ。自分から薫り立つアルコールの匂い。そこに混ざるほのかな柑橘系の香り。絡み合う長い指の形。
 半袖からぬるりと伸びる腕にぶつかって、汗ばんだ肌が吸い付くのが何故かそれほど不快ではない。
 伊織は再び口を開いた。

「……カラオケいきたかった」
「まだ言う? どうせそんなんじゃすぐ寝るだろ」
「ねないよ」 
「絶対寝る。……今度行く?」 
「いく。早月が歌で、俺がタンバリンね」
「自分は歌わねえのかよ」

 高校生時代は龍成と優斗の四人でよく行ったものだ。環は歌も上手かった。今の十八番はどの曲だろう。それを確かめる術はない。カラオケに行きたいという気持ちは気まぐれで、きっと明日には忘れている。
 学生寮は周りの建物よりも高さがあるので、先程から既に二人の視界に姿を現していた。
 さっさと歩けばすぐの距離だ。しかし何故か伊織も環も亀のような速度で歩いている。

 煌々と光る自販機の前を通り過ぎようとした時、環がぽつりと呟いた。

「喉、乾いたな」

 そのまま環は立ち止まって、伊織の手をするりと解いてしまった。離れていった温もりが寂しい。
 少し迷った後、環はサイダーを選んだ。気持ちは分かる。じめっとした熱気が鬱陶しくて、口の中でパチパチ弾ける泡の爽快さが欲しくなる。
 自販機が吐き出したペットボトルのキャップを捻る。その瞬間、炭酸が抜けていく軽快な音が響いた。
 自販機の無機質な光が、ペットボトルを傾ける環の横顔を照らしている。白い喉が微かに鳴って、液体を嚥下していく。
 ペットボトルからゆっくりと離れた唇を、伊織はぼんやりと眺めていた。少し濡れている。

「飲む?」
「うん」

 物欲しそうな目をしていたのだろう。環が伊織にペットボトルを差し出した。伊織はそれを受け取って躊躇うことなく口をつけた。
 舌の上を冷たい液体が滑り、砂糖のくどさを隠すように炭酸が刺激しきて快い。
 環が二人で中身を半分ほどにしたペットボトルを、そっと伊織の手から抜き取った。キャップを固く閉めている。少しでも炭酸が抜けるのを遅らせるために。
 ペットボトルを握る環の手の甲に伊織の指が触れた。浮き出た骨と血管を肌の上から擽る。夜空を覗くように、上目がちに環の瞳を窺った。
 サイダーで冷やされた体の芯もすぐに熱くなる。夏ってそういうところがある。
 環は伊織に何も聞かなかった。言葉の代わりに長いまつ毛が幾度か瞬いて、その瞳に浮かぶを星を小さく輝かせた。
 環が身動ぎをした。星がだんだん近付いてきて、伊織は逸る気持ちを抑えるように環の手を握った。

 唇にしっとりと柔らかいものが触れる。砂糖の甘さを感じる暇もなく、それはすぐに離れていった。その玉唇が吐息を洩らすところを目に映す。
 環は囁くような声で伊織に尋ねた。

「…………酔ってる?」
「酔って、ないよ」

 酔ってなんかいないと伊織は思った。確かに頭の回転はいつもより鈍い気がするし、少々舌っ足らずではあるが、前後不覚になるほどには酔ってはいない。

「ならいいけど」

 ならいいんだ。
 静やかに微笑んだ環の科白は少し不思議だった。
 環はペットボトルを持っていない方の手で伊織の指を絡め取る。歩き出した環の横顔を見つめながら、伊織は頬を緩ませた。もう寂しくなかった。


 学生寮の伊織の部屋は六階に移動した。直樹の部屋も同じ階にある。夜型人間なので恐らくまだ起きているだろう。しかし起こす気は毛頭ない。
 環は伊織の部屋まで付き添ってくれた。
 流石に寮の中まで手を繋いで歩くのは躊躇われて、伊織からその手を離してしまった。伊織が感じた寂しさを、環も同じように感じてくれたら良いと思った。

 部屋の扉を開けて玄関に入る。伊織は振り返った。環が部屋の境界線の向こうで立っている。相手が何かを言う前に、伊織がそれを遮ってしまった。

「靴……、脱げない」
「マジ?」

 環は呆れた顔をする。伊織も咄嗟に口走った不出来な文句が恥ずかしい。
 伊織が奥に進むと同時に、環も境界線を跨ぐように玄関に入ってくる。その背後で扉が閉まる音が響いた。

「次飲む時は気を付け、……んっ」

 環が身を屈めようとしたところを狙う。そのつもりだったけれど、かなり外れて滑らかな頬に伊織の唇が押し当たった。
 至近距離で環が驚いたように瞬きをするのが見える。そしてその口角が緩やかに吊り上がっていった。

「全部下手くそだな」
「うるさいなあ……」

 自覚はあった。首まで更に熱くなる。環が揶揄うように火照った頬に触れるので、伊織は思わず目を伏せた。爽やかで甘い匂いが濃くなる。

「浅葱」
「何、っ………ん、ぅ」

 名前を呼ばれて顔を上げた。
 今度は、しっかりと唇が重なった。しかもそれだけでは終わらない。
 驚いて生まれた綻びを狙い、隙間から生暖かいものがぬるりと潜り込んでくる。舌先で上顎を擽られて、伊織は小さく震えた。逃げようとしても、後頭部を手のひらがしっかりと押さえ込んでいるからかなわない。
 それをいいことに、環は奥に引っ込んだ伊織の舌を器用に絡めて吸い上げる。ちゅう、と吸われる度に背骨がびりびりと震えて、体から強制的に力が抜けていってしまう。環の胸元に縋ると、呼吸をまるごと奪い取ろうとするかのように口付けが深まった。
 脳みそがふやけて、環のこと以外考えられなくなりそうだった。
 たっぷりと咥内の粘膜を愛撫された後、ちゅぷ、と泡が潰れる音と共に唇が離れていく。
 伊織の視界が生理的な涙で揺らいでいる。平然としたふりはできず、乱れた呼吸をなんとか整えようとした。

「……っ、はぁ……う、上手いの、これ……」
「さあ、知らない。まあでも……浅葱よりは上手いだろ」
「……むかつく」

 経験の少なさを揶揄されることも経験の豊富さを醸し出されることも、どっちも腹が立つ。
 斜めになった機嫌を取るかのように環の親指が伊織の眦を撫でた。甘やかすような触れ方は嫌いではない。曲がった口元が徐々に緩んでいく。
 結局、伊織は環にかなわないのだ。
 全身を包む気だるさが甘い。その手に頬を擦り寄せながら、つい伊織は聞いてしまった。

「……あのさ」
「何?」
「泊まってく? ……もう、遅いし」

 やっぱり、まだ酔っているのかもしれない。
 そうでなければ、うっかり口が緩んでこんな大胆なことは言えないのだから。
 環は何やら思考を巡らせているようだった。それは伊織を不安にさせるほどの時間ではなく、やがてゆっくりと頷いた。
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