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2039ー2043 相馬智律
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その日は売店に行くことを迷っていた。前日に行った際、リツがポケット菓子の新商品について話したからだ。
「相馬さんが好きそうなチョコクッキーの新作が出たんですよ。キャラメル味。明日出ますから、ぜひ寄って下さいね」
菓子好きな常連客へのセールス。
すまないが、私には素直に受け取ることができないのだよ、リツ。
常に疑え。仲間こそ疑え。近づいて来る相手はなおさらに疑え。
なにも日頃の全てを疑ってかかっているわけではない。警戒心は他人に伝わりやすいし、勝手な思い込みが判断を誤らせることもある。そうではなく、特に意識もしない中に現れるわずかな違和感こそを逃さず確実に掴むのだ。
本能が警戒している。これは肉体ではなく、魂の警鐘だ。
「明日」も「ぜひ」もリツから聞くのは初めてだった。
作為。背後にある意図。
想像しても今の私にはNH社の外の世界がわからない。ともかく面倒ごとに巻き込まれる可能性があるなら避けるべきだ。
行かない方がいい。何事もなければ、明後日行っても問題はないだろう。
だが。行かなければならないと心の内から激しい欲望が湧き上がる。
抗えないほどに強く、その誘惑に手を伸ばす衝動が抑えられない。
呼ばれている。
シキ……
魂が絡め取られていく。
シキ……俺はいつでもお前を見ている……
幻聴だ。わかっている。
リツが私を誘う声が、私の名を呼ぶ声に重なる。
私は呼ばれている。
私を呼ぶのはやつしかいない。
「所長、これから売店ですか?」
「はい、ちょっと……」
早川は、私を一瞥すると無言で去った。
なんだろう。緊張の気配があった。
早川は研究棟内の監視はしても上層幹部ではないから、上からの情報は入って来ないだろう。見張りを強化せよとでも命令されたのか。
売店周囲や中央門付近の警備は普段どおりだった。警備員は、売店に近づく私を視認してそのまま他の場所に視線を移す。
わずかに間を置いて無線連絡するのは初めてだな。
外から見える店内には、リツがいた。そしてもう一人。背広姿の男がレジ近くに立っていた。NH社の職員ではないだろう。
ぞくりと背筋に冷たいものが走った。この感覚を私は知っている。
やはりキャラメル味のチョコクッキーはお預けか。
懐かしい緊張感が気持ちを高ぶらせている。
私は待っていたのか?
過剰なほどの生きている実感。与えられる恐怖と快楽。
倒錯した欲と期待。
窓ガラスに映る相馬の顔は笑っていた。
店に入るのにためらう気持ちは皆無だった。
「いらっしゃいませ。あ、相馬さん、来てくれたんですね」
リツはいつもと変わらない笑顔で私を迎えた。
君は何を知っているのか。どこまで関わっているのか。
いや、これは単なる疑問だ。謀られたとか裏切られたとか、そんな親しみの感情は初めから持ち合わせていない。
背広姿の男を見据える私にリツは言った。
「あの、こちらは笠原です。売店の……本部の人なんです」
どうやら嘘だとわかっているらしいな。
笠原と紹介された男は黙って私を見ていた。
遠藤が死刑になった直後に生まれたなら、今は四十八歳か。神経質で気難しそうな細身の姿は、似た人間を過去にも見てきた。強い視線も相変わらずだ。死神自身の性質と酒が肉体に反映されているに違いない。
なにやら余計に甘い物が欲しくなってきた。
「リツ君が言っていたキャラメル味のチョコクッキー。先に買っておきたいのだが」
「先? え……と、はい、取ってきます」
リツは菓子の棚に向かった。
「甘党か。酒はやらないのか?」
静かに問う低い声は、夕闇を誘う落日を思わせた。黒い影がまとわりつく錯覚に足がすくむ。
「初めまして。お前は相変わらず酒で生きているのか?」
笠原は私を上から下までまじまじと見つめると、わずかに口角を上げた。
「ずいぶんと若くなったものだ。これに邪魔をされたのか」
大村の死の直前、天を見上げた私を呼び止めたのは相馬だ。
「安らかな最期を逃して残念だったな。次は、ないぞ」
「お前が心配する必要はない」
もとより安らかな死を迎えられるとは思っていない。
「相馬さんが好きそうなチョコクッキーの新作が出たんですよ。キャラメル味。明日出ますから、ぜひ寄って下さいね」
菓子好きな常連客へのセールス。
すまないが、私には素直に受け取ることができないのだよ、リツ。
常に疑え。仲間こそ疑え。近づいて来る相手はなおさらに疑え。
なにも日頃の全てを疑ってかかっているわけではない。警戒心は他人に伝わりやすいし、勝手な思い込みが判断を誤らせることもある。そうではなく、特に意識もしない中に現れるわずかな違和感こそを逃さず確実に掴むのだ。
本能が警戒している。これは肉体ではなく、魂の警鐘だ。
「明日」も「ぜひ」もリツから聞くのは初めてだった。
作為。背後にある意図。
想像しても今の私にはNH社の外の世界がわからない。ともかく面倒ごとに巻き込まれる可能性があるなら避けるべきだ。
行かない方がいい。何事もなければ、明後日行っても問題はないだろう。
だが。行かなければならないと心の内から激しい欲望が湧き上がる。
抗えないほどに強く、その誘惑に手を伸ばす衝動が抑えられない。
呼ばれている。
シキ……
魂が絡め取られていく。
シキ……俺はいつでもお前を見ている……
幻聴だ。わかっている。
リツが私を誘う声が、私の名を呼ぶ声に重なる。
私は呼ばれている。
私を呼ぶのはやつしかいない。
「所長、これから売店ですか?」
「はい、ちょっと……」
早川は、私を一瞥すると無言で去った。
なんだろう。緊張の気配があった。
早川は研究棟内の監視はしても上層幹部ではないから、上からの情報は入って来ないだろう。見張りを強化せよとでも命令されたのか。
売店周囲や中央門付近の警備は普段どおりだった。警備員は、売店に近づく私を視認してそのまま他の場所に視線を移す。
わずかに間を置いて無線連絡するのは初めてだな。
外から見える店内には、リツがいた。そしてもう一人。背広姿の男がレジ近くに立っていた。NH社の職員ではないだろう。
ぞくりと背筋に冷たいものが走った。この感覚を私は知っている。
やはりキャラメル味のチョコクッキーはお預けか。
懐かしい緊張感が気持ちを高ぶらせている。
私は待っていたのか?
過剰なほどの生きている実感。与えられる恐怖と快楽。
倒錯した欲と期待。
窓ガラスに映る相馬の顔は笑っていた。
店に入るのにためらう気持ちは皆無だった。
「いらっしゃいませ。あ、相馬さん、来てくれたんですね」
リツはいつもと変わらない笑顔で私を迎えた。
君は何を知っているのか。どこまで関わっているのか。
いや、これは単なる疑問だ。謀られたとか裏切られたとか、そんな親しみの感情は初めから持ち合わせていない。
背広姿の男を見据える私にリツは言った。
「あの、こちらは笠原です。売店の……本部の人なんです」
どうやら嘘だとわかっているらしいな。
笠原と紹介された男は黙って私を見ていた。
遠藤が死刑になった直後に生まれたなら、今は四十八歳か。神経質で気難しそうな細身の姿は、似た人間を過去にも見てきた。強い視線も相変わらずだ。死神自身の性質と酒が肉体に反映されているに違いない。
なにやら余計に甘い物が欲しくなってきた。
「リツ君が言っていたキャラメル味のチョコクッキー。先に買っておきたいのだが」
「先? え……と、はい、取ってきます」
リツは菓子の棚に向かった。
「甘党か。酒はやらないのか?」
静かに問う低い声は、夕闇を誘う落日を思わせた。黒い影がまとわりつく錯覚に足がすくむ。
「初めまして。お前は相変わらず酒で生きているのか?」
笠原は私を上から下までまじまじと見つめると、わずかに口角を上げた。
「ずいぶんと若くなったものだ。これに邪魔をされたのか」
大村の死の直前、天を見上げた私を呼び止めたのは相馬だ。
「安らかな最期を逃して残念だったな。次は、ないぞ」
「お前が心配する必要はない」
もとより安らかな死を迎えられるとは思っていない。
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