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1部 4章
平穏村の異常事態 2
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ハーナさんの家にやってきたオレたちは、二頭の馬を玄関扉傍に立つ太めの柱に括り付けて停め、歓迎されるがままに中へと入って行った。
一軒家であるぶん広々としているが、素朴な空気に満ちた室内は、どこかマークベンチ家のものと似ている。粗雑な調度品とか、隅々に溜まっている土埃とか。
「セオ、横になったほうがいいわよね。あっちの部屋に寝台があるわ」
「ううん、大丈夫。それより……何かあったの?」
ディパルさんが、早速、話を切り出した。
落ち着いてからゆっくり、とならなかったのは、ずっと気になっていたからだろう。
ハーナさんは、何も答えない。お腹の前で組んだ指をモジモジさせている。
明らかだった。
答えないのは、答えを知らないからではないことは。
悩んでいるのだ、言うべきかどうか。
ハーナさんが、笑みを浮かべる。
左頬が引き攣ったその笑顔は、そういう笑い方が自然体な人も世の中にはいるだろうが、大半の人からすれば『無理をしているんだろうな』と思うであろうものだった。
「何も。何もないわよ」パンッと、カノジョが手を合わせた。「それよりもっ、セオっ、あなたは大丈夫なの? 何か、深刻な病気なの? それに、この子どもたちは?」
矢継ぎ早に繰り出された質問は、どれも気になっていることで間違いないだろうが、この状況というかこの流れにおいては、ディパルさんの言葉を封じているようでしかなかった。
「……病気なの。もう、先は長くないわ。だから帰ってきたの。この村で死にたくて。それで、この子たちだけど……まあ、ワケあって連れてくることになったの」
ワケあって連れてくることになった。
それは何も間違ってはいないけれど、あまりにも曖昧すぎやしないだろうか。
とはいえ、ここでオレが自分たち兄妹について……「コテキが魔族の襲撃を受けて、逃げている最中に野盗に襲われたところ、ディパルさんに助けていただいて。その恩返しで何か手伝えやしないかとついてきました」なんて説明するのは、空気が読めていない気もする。
……うん。
とりあえず黙っていることにした。
「先は長くないって、それ、もう治しようがないってことなの?」
「ええ。皇都の医師にそう診断されたのだから、間違いないと思うわ」
《皇都 サイベルフォン》
この皇国の中心であるそこは、最大の都市に相応しくあらゆる知識や富が集積しているとか。当然、そこにいる……いることができる医師となれば、極めて有能なはずだ。
そんな医師の診断であれば、間違いないと受け入れてしまうのは、自然なことだろう。
「そう。その……そう……」
俯く、ハーナさん。
そう、と繰り返したのは、それしか言葉が出てこなかったからだろう。
……とても親しい関係なんだろうな。
こうして家に招かれているわけだから、それは考えるまでもないのだろうが。
ハーナさんの反応を目にして、オレは確信をもった。
「それより、ハーナ。隠し事はやめて」
俯いていたハーナさんが顔を上げる。
「一体、村に何が起きているの? なぜこうも静かなの? 役場で何を話し合っていたの? それに、子どもたちは? ナーナは? 元気にしているの?」
ナーナ。
ディパルさんにとって特別な人であることは間違いない。
「ナーナは……ナーナ……ッ」
ハーナさんの目から、ぽろぽろと涙が溢れた。
それはあまりにも急なことで。
だからこそ、ずっと思い詰めていたというか、緊迫した状況にあったのだと伝わってきた。
「ハーナ。話して」
「……ナーナは……ナーナは、攫われたわ。ブゼルデスに」
ブゼルデス。
初めて聞く言葉だ。
攫われたということは、誰かの名前なのだろうか。
ディパルさんを見れば、眉間に皺ができているほど険しい顔をしていた。
出会ってから初めて見る、強い感情の露わになった表情。
「探しに行くわ。この辺りだと、巣穴は大湿原のどこかよね」
言うが早く、ハーナさんに背を向けるディパルさん。
「ま、待って!」
踏み出したディパルさんの左手首を、ハーナさんが掴む。
顔だけで振り返るディパルさん。
「病気なんでしょ? 無茶をしちゃダメ。命を削ってしまうわ」
「……どうせ短い命よ。幼馴染の娘が救えるなら、有意義な使い方だわ」
「セオ……」
そうか。
幼馴染なのか、この二人は。
……ネル。
……モエねぇ。
「時間が惜しいわ。早く見つければ見つけるだけ、助かる可能性は高いの」
「……でも……ううん……お願い、セオ」
ディパルさんの命を案じる強い思いは、ハーナさんの中に確かにある。
けれど、自分の娘を救って欲しい思いのほうが上回った。
いや、その言い方は正しくない。
娘を救いたいという幼馴染の思いこそ、尊重した。
そう言うべきだろう。
離れたハーナさんの手。
歩き出すディパルさん。
ハーナさんが、すぐに傍へ寄り添った。
家の主がいなくなるのだから、オレたちだけで留まるわけにはいかない。見れば、フィニセントさんも追って歩き出した。シルキアの手を握り、ついていく。
「攫われたのは、いつ頃なの?」
「ナーナは一週間前。最初の被害者である子どもは、三週間ほど前よ」
「一週間なら、まず、生きているわ。三週間だと、相手が一匹でもギリギリね」
外に出て、馬の傍に立つ。
ディパルさんが手綱を解き始める。
「ブゼルデスについて詳しいの?」
「基本的な生態についてわね。あの巨大バエは雑食で、人を含む大半の生物を捕食する。とはいえ臆病な性質だから、脅威と感じた相手は獲物にしないわ。被害者は子どもだけ?」
「ええ、今のところは。夜の散歩中、村長も狙われたそうだけれど、懐に仕込んでいた短剣を振り回したら逃げていったそうよ」
「そう。村長は幸運だったわね。ブゼルデスは神経毒の針を持っていて、子どもや老人の免疫力だと、刺されたら一分もしないうちに動けなくなるから」
「……ナーナは、ほかの子たちは、本当に大丈夫なの?」
「ナーナは、まず間違いなく生きているわ。ブゼルデスは、捕獲した獲物を自らの体液で作った貯蔵庫のようなものに閉じ込め、時間をかけて体液を啜るの。さっき言ったとおり臆病な性質だから、できるだけ長く、時間をかけて啜るのよ。一度の捕獲で得た獲物で、少しでも長く自分が生きるために。ただ……私が知っている限り、長くても一ヵ月ほどで、どんな獲物であっても栄養を吸い切ってしまうとされているから。三週間だと、ギリギリ。それも、一ヵ月というのは一匹の場合でだから……一人目の被害者については運次第ね」
「四人、攫われているわ。一ヵ月も経たずに四人だから、それはつまり、四匹いるの?」
「そうとは限らわないわ。臆病だからこそ、獲物を貯める性質もあるの。一匹が、一人目が上手くいったことに味をしめて、短い間隔で続けただけかもしれない。そこは、相手は蟲だから、こういう生態だと言っても個体差は当然あるし、断言はできないわ」
と、手綱が解けた。
手綱を掴み、灰色愛馬を引くディパルさん。
「誰かもう探しには行っているのよね?」
「それが……」
俯くハーナさん。沈痛な面持ちだ。
「行っていないのね」
「ちょうど今、いい加減に覚悟を決めようと、話し合っていたところなの」
「そう。まあ、二次被害になる危険性のほうが高かったでしょうから、悩むことを責めはしないわ。この村は一度、過ちを犯しているしね」
「……そうね」
「……戻ってきたら、ヘルスの墓参り、行かせてね」
「もちろんよ。夫も喜ぶわ」
「とはいえ、ブゼルデスは私が対処するとしても、子どもたちを一度に全員運んでしまいたいから、一人、できれば二人、若い人手を連れて行きたい。あの子たち、ククリ、アシューカ、ハンスの悪ガキどもはいる? もしかしてその子たちも攫われてしまった?」
「その三人は、村にいないわ。兵士になると言って、つい四日ほど前、村を発ったの」
「兵士……」
「三人とも、セオさんみたいな凄い人になるんだって、そう笑っていたわ」
「……そう……なら、今この村にいる若いのは……」
「私が最年少よ。あとは、エンゼさんやジーガさんもいるけれど……」
「腕力はあっても、腰や膝を痛めていたら、足手まといだわ」
「そうよね……」
「……いいわ。一人で行く。みんなには、私が行くから待機していてと、伝えておいて」
「セオ。本当に大丈夫なの? 一人で、あなたの身体は……」
「私は皇国軍で騎士団長にまで上り詰めたのよ? 心身の酷使は、日常だわ」
「酷使って、そんなの聞いたら……いえ……どうか、どうか、子どもたちをお願い」
本当は行かせたくない。
その気持ちは強く強く伝わってくる。
けれど、頼るしかない。
ならば、言葉を呑み込むしかない。
ディパルさんが鞍に跨る。
……いいのか?
想いが湧く。
一人で行かせてもいいのか、と。
ディパルさんはあんな身体なのに。
恩を返すために、何か手助けするために、オレは一緒に来た。
まだ、まだ何も返せていない。
でも。
怖い。
ブゼルデスという名の蟲。会話を聞いた限りでは、どうやら巨大なハエらしいが。
見たことないけれど、間違いなく、オレなんかよりは強者だ。
ついて行ったとして、何ができる? できることなんてあるのか?
それどころか足手まといになってしまったら?
ついて行ったせいで、ディパルさんが危機的状況に陥ってしまったら?
怖い。
……でも。
「ディパルさん!」
今にも馬を走らせようとしていたカノジョを呼び止めた。
馬上からこちらを見遣るディパルさん。
「……ディパルさん。オレも一緒に行きます」
僅かに、ディパルさんの両瞼が上がった。
まったく予期せぬ発言だったようだ。
「何を言っているのです? ダメに決まっているでしょう」
「……確かに、オレには戦える力はありません。でも、荷物運びならやれます。助けた人たちを運ぶのだって、できますっ」
必死にアピールする。
「ですが……いえ、わかりました。時間も惜しいです。早く馬を連れてきてください」
「はいっ!」
「ま、待って!」
ハ―ナさんの家へ駆け出そうとしていたオレを、ハ―ナさんの声が止めた。
「キミは村の人間ではないでしょ? そんな子に命を懸けさせるわけにはいかないわ」
「……確かに、オレは村人じゃないです。でも。ディパルさんは恩人なんです!」
そう言ってもう、オレは会話打ち切りの意思を示すため、家へと走り出した。
「――お兄ちゃん」
手綱を解いていると、ついてきたシルキアに呼ばれた。
「ん?」手を止めず、顔も結び目から外さず、声だけで返す。
「本当に行っちゃうのぉ? 危ないところなんでしょ?」
「多分な。でも、恩を返すために来たんだ。今がそのときだ」
「……だったら一緒に行くっ」
「ダメ。シルキアはお留守番」
「嫌っ。お兄ちゃんと一緒がいいっ」
解けた。手綱を握り、栗毛を引く。
膨れっ面のシルキアと目が合った。
「シルキア。もし二人で行ったら、それはディパルさんの迷惑になっちゃうよ」
「なんでぇ?」
「オレ一人なら守れても、オレとシルキア二人になったら守れないかもしれないからだ。ディパルさんの足を引っ張って、ディパルさんがやられちゃうかもしれない。な?」
理解できない妹ではない。
「むぅぅぅぅぅう」
「な? オレが行くから、今回はお留守番、しててくれ」
「……約束っ」
「ん?」
「絶対絶対ぜぇ~ったい、帰ってこなきゃダメだからねっ」
「もちろん」シルキアの黒紫色の髪を優しく撫でる。
納得はできていないだろうが、妹は引き下がってくれた。
ディパルさんたちのところに戻ってきて、すぐに栗毛に跨る。
「キミ、本当に行くの? 危険なのよ?」
「ハーナ、問答はやめましょう。この子の意思は固いわ」
「でも、セオ……」
「大丈夫、この子も、ナーナも、村の子も、私が連れて帰るから」
「……わかった、わかったわ。あなたを信頼する」
「この子たちのこと、お願いね」
シルキアとフィニセントさんのことだ。
「任せて。セオ、必ず無事に帰ってきて」ディパルさんに向いていたハーナさんの顔が、オレに向く。「キミは、絶対にセオの言うことを守るのよ?」
「はい、もちろんです」
「……では、アクセル、行きましょう」
灰馬を走らせたディパルさん。
オレもすぐに栗毛を駆る。
「お兄ちゃん! ディパルさん! 帰ってきてねぇぇぇえ!」
背中に浴びる、シルキアの声。
何度も何度も、一生懸命に身を案じ励ましてくれる。
が、その声は徐々に小さくなり、音の断片となり、やがて聞こえなくなった。
一軒家であるぶん広々としているが、素朴な空気に満ちた室内は、どこかマークベンチ家のものと似ている。粗雑な調度品とか、隅々に溜まっている土埃とか。
「セオ、横になったほうがいいわよね。あっちの部屋に寝台があるわ」
「ううん、大丈夫。それより……何かあったの?」
ディパルさんが、早速、話を切り出した。
落ち着いてからゆっくり、とならなかったのは、ずっと気になっていたからだろう。
ハーナさんは、何も答えない。お腹の前で組んだ指をモジモジさせている。
明らかだった。
答えないのは、答えを知らないからではないことは。
悩んでいるのだ、言うべきかどうか。
ハーナさんが、笑みを浮かべる。
左頬が引き攣ったその笑顔は、そういう笑い方が自然体な人も世の中にはいるだろうが、大半の人からすれば『無理をしているんだろうな』と思うであろうものだった。
「何も。何もないわよ」パンッと、カノジョが手を合わせた。「それよりもっ、セオっ、あなたは大丈夫なの? 何か、深刻な病気なの? それに、この子どもたちは?」
矢継ぎ早に繰り出された質問は、どれも気になっていることで間違いないだろうが、この状況というかこの流れにおいては、ディパルさんの言葉を封じているようでしかなかった。
「……病気なの。もう、先は長くないわ。だから帰ってきたの。この村で死にたくて。それで、この子たちだけど……まあ、ワケあって連れてくることになったの」
ワケあって連れてくることになった。
それは何も間違ってはいないけれど、あまりにも曖昧すぎやしないだろうか。
とはいえ、ここでオレが自分たち兄妹について……「コテキが魔族の襲撃を受けて、逃げている最中に野盗に襲われたところ、ディパルさんに助けていただいて。その恩返しで何か手伝えやしないかとついてきました」なんて説明するのは、空気が読めていない気もする。
……うん。
とりあえず黙っていることにした。
「先は長くないって、それ、もう治しようがないってことなの?」
「ええ。皇都の医師にそう診断されたのだから、間違いないと思うわ」
《皇都 サイベルフォン》
この皇国の中心であるそこは、最大の都市に相応しくあらゆる知識や富が集積しているとか。当然、そこにいる……いることができる医師となれば、極めて有能なはずだ。
そんな医師の診断であれば、間違いないと受け入れてしまうのは、自然なことだろう。
「そう。その……そう……」
俯く、ハーナさん。
そう、と繰り返したのは、それしか言葉が出てこなかったからだろう。
……とても親しい関係なんだろうな。
こうして家に招かれているわけだから、それは考えるまでもないのだろうが。
ハーナさんの反応を目にして、オレは確信をもった。
「それより、ハーナ。隠し事はやめて」
俯いていたハーナさんが顔を上げる。
「一体、村に何が起きているの? なぜこうも静かなの? 役場で何を話し合っていたの? それに、子どもたちは? ナーナは? 元気にしているの?」
ナーナ。
ディパルさんにとって特別な人であることは間違いない。
「ナーナは……ナーナ……ッ」
ハーナさんの目から、ぽろぽろと涙が溢れた。
それはあまりにも急なことで。
だからこそ、ずっと思い詰めていたというか、緊迫した状況にあったのだと伝わってきた。
「ハーナ。話して」
「……ナーナは……ナーナは、攫われたわ。ブゼルデスに」
ブゼルデス。
初めて聞く言葉だ。
攫われたということは、誰かの名前なのだろうか。
ディパルさんを見れば、眉間に皺ができているほど険しい顔をしていた。
出会ってから初めて見る、強い感情の露わになった表情。
「探しに行くわ。この辺りだと、巣穴は大湿原のどこかよね」
言うが早く、ハーナさんに背を向けるディパルさん。
「ま、待って!」
踏み出したディパルさんの左手首を、ハーナさんが掴む。
顔だけで振り返るディパルさん。
「病気なんでしょ? 無茶をしちゃダメ。命を削ってしまうわ」
「……どうせ短い命よ。幼馴染の娘が救えるなら、有意義な使い方だわ」
「セオ……」
そうか。
幼馴染なのか、この二人は。
……ネル。
……モエねぇ。
「時間が惜しいわ。早く見つければ見つけるだけ、助かる可能性は高いの」
「……でも……ううん……お願い、セオ」
ディパルさんの命を案じる強い思いは、ハーナさんの中に確かにある。
けれど、自分の娘を救って欲しい思いのほうが上回った。
いや、その言い方は正しくない。
娘を救いたいという幼馴染の思いこそ、尊重した。
そう言うべきだろう。
離れたハーナさんの手。
歩き出すディパルさん。
ハーナさんが、すぐに傍へ寄り添った。
家の主がいなくなるのだから、オレたちだけで留まるわけにはいかない。見れば、フィニセントさんも追って歩き出した。シルキアの手を握り、ついていく。
「攫われたのは、いつ頃なの?」
「ナーナは一週間前。最初の被害者である子どもは、三週間ほど前よ」
「一週間なら、まず、生きているわ。三週間だと、相手が一匹でもギリギリね」
外に出て、馬の傍に立つ。
ディパルさんが手綱を解き始める。
「ブゼルデスについて詳しいの?」
「基本的な生態についてわね。あの巨大バエは雑食で、人を含む大半の生物を捕食する。とはいえ臆病な性質だから、脅威と感じた相手は獲物にしないわ。被害者は子どもだけ?」
「ええ、今のところは。夜の散歩中、村長も狙われたそうだけれど、懐に仕込んでいた短剣を振り回したら逃げていったそうよ」
「そう。村長は幸運だったわね。ブゼルデスは神経毒の針を持っていて、子どもや老人の免疫力だと、刺されたら一分もしないうちに動けなくなるから」
「……ナーナは、ほかの子たちは、本当に大丈夫なの?」
「ナーナは、まず間違いなく生きているわ。ブゼルデスは、捕獲した獲物を自らの体液で作った貯蔵庫のようなものに閉じ込め、時間をかけて体液を啜るの。さっき言ったとおり臆病な性質だから、できるだけ長く、時間をかけて啜るのよ。一度の捕獲で得た獲物で、少しでも長く自分が生きるために。ただ……私が知っている限り、長くても一ヵ月ほどで、どんな獲物であっても栄養を吸い切ってしまうとされているから。三週間だと、ギリギリ。それも、一ヵ月というのは一匹の場合でだから……一人目の被害者については運次第ね」
「四人、攫われているわ。一ヵ月も経たずに四人だから、それはつまり、四匹いるの?」
「そうとは限らわないわ。臆病だからこそ、獲物を貯める性質もあるの。一匹が、一人目が上手くいったことに味をしめて、短い間隔で続けただけかもしれない。そこは、相手は蟲だから、こういう生態だと言っても個体差は当然あるし、断言はできないわ」
と、手綱が解けた。
手綱を掴み、灰色愛馬を引くディパルさん。
「誰かもう探しには行っているのよね?」
「それが……」
俯くハーナさん。沈痛な面持ちだ。
「行っていないのね」
「ちょうど今、いい加減に覚悟を決めようと、話し合っていたところなの」
「そう。まあ、二次被害になる危険性のほうが高かったでしょうから、悩むことを責めはしないわ。この村は一度、過ちを犯しているしね」
「……そうね」
「……戻ってきたら、ヘルスの墓参り、行かせてね」
「もちろんよ。夫も喜ぶわ」
「とはいえ、ブゼルデスは私が対処するとしても、子どもたちを一度に全員運んでしまいたいから、一人、できれば二人、若い人手を連れて行きたい。あの子たち、ククリ、アシューカ、ハンスの悪ガキどもはいる? もしかしてその子たちも攫われてしまった?」
「その三人は、村にいないわ。兵士になると言って、つい四日ほど前、村を発ったの」
「兵士……」
「三人とも、セオさんみたいな凄い人になるんだって、そう笑っていたわ」
「……そう……なら、今この村にいる若いのは……」
「私が最年少よ。あとは、エンゼさんやジーガさんもいるけれど……」
「腕力はあっても、腰や膝を痛めていたら、足手まといだわ」
「そうよね……」
「……いいわ。一人で行く。みんなには、私が行くから待機していてと、伝えておいて」
「セオ。本当に大丈夫なの? 一人で、あなたの身体は……」
「私は皇国軍で騎士団長にまで上り詰めたのよ? 心身の酷使は、日常だわ」
「酷使って、そんなの聞いたら……いえ……どうか、どうか、子どもたちをお願い」
本当は行かせたくない。
その気持ちは強く強く伝わってくる。
けれど、頼るしかない。
ならば、言葉を呑み込むしかない。
ディパルさんが鞍に跨る。
……いいのか?
想いが湧く。
一人で行かせてもいいのか、と。
ディパルさんはあんな身体なのに。
恩を返すために、何か手助けするために、オレは一緒に来た。
まだ、まだ何も返せていない。
でも。
怖い。
ブゼルデスという名の蟲。会話を聞いた限りでは、どうやら巨大なハエらしいが。
見たことないけれど、間違いなく、オレなんかよりは強者だ。
ついて行ったとして、何ができる? できることなんてあるのか?
それどころか足手まといになってしまったら?
ついて行ったせいで、ディパルさんが危機的状況に陥ってしまったら?
怖い。
……でも。
「ディパルさん!」
今にも馬を走らせようとしていたカノジョを呼び止めた。
馬上からこちらを見遣るディパルさん。
「……ディパルさん。オレも一緒に行きます」
僅かに、ディパルさんの両瞼が上がった。
まったく予期せぬ発言だったようだ。
「何を言っているのです? ダメに決まっているでしょう」
「……確かに、オレには戦える力はありません。でも、荷物運びならやれます。助けた人たちを運ぶのだって、できますっ」
必死にアピールする。
「ですが……いえ、わかりました。時間も惜しいです。早く馬を連れてきてください」
「はいっ!」
「ま、待って!」
ハ―ナさんの家へ駆け出そうとしていたオレを、ハ―ナさんの声が止めた。
「キミは村の人間ではないでしょ? そんな子に命を懸けさせるわけにはいかないわ」
「……確かに、オレは村人じゃないです。でも。ディパルさんは恩人なんです!」
そう言ってもう、オレは会話打ち切りの意思を示すため、家へと走り出した。
「――お兄ちゃん」
手綱を解いていると、ついてきたシルキアに呼ばれた。
「ん?」手を止めず、顔も結び目から外さず、声だけで返す。
「本当に行っちゃうのぉ? 危ないところなんでしょ?」
「多分な。でも、恩を返すために来たんだ。今がそのときだ」
「……だったら一緒に行くっ」
「ダメ。シルキアはお留守番」
「嫌っ。お兄ちゃんと一緒がいいっ」
解けた。手綱を握り、栗毛を引く。
膨れっ面のシルキアと目が合った。
「シルキア。もし二人で行ったら、それはディパルさんの迷惑になっちゃうよ」
「なんでぇ?」
「オレ一人なら守れても、オレとシルキア二人になったら守れないかもしれないからだ。ディパルさんの足を引っ張って、ディパルさんがやられちゃうかもしれない。な?」
理解できない妹ではない。
「むぅぅぅぅぅう」
「な? オレが行くから、今回はお留守番、しててくれ」
「……約束っ」
「ん?」
「絶対絶対ぜぇ~ったい、帰ってこなきゃダメだからねっ」
「もちろん」シルキアの黒紫色の髪を優しく撫でる。
納得はできていないだろうが、妹は引き下がってくれた。
ディパルさんたちのところに戻ってきて、すぐに栗毛に跨る。
「キミ、本当に行くの? 危険なのよ?」
「ハーナ、問答はやめましょう。この子の意思は固いわ」
「でも、セオ……」
「大丈夫、この子も、ナーナも、村の子も、私が連れて帰るから」
「……わかった、わかったわ。あなたを信頼する」
「この子たちのこと、お願いね」
シルキアとフィニセントさんのことだ。
「任せて。セオ、必ず無事に帰ってきて」ディパルさんに向いていたハーナさんの顔が、オレに向く。「キミは、絶対にセオの言うことを守るのよ?」
「はい、もちろんです」
「……では、アクセル、行きましょう」
灰馬を走らせたディパルさん。
オレもすぐに栗毛を駆る。
「お兄ちゃん! ディパルさん! 帰ってきてねぇぇぇえ!」
背中に浴びる、シルキアの声。
何度も何度も、一生懸命に身を案じ励ましてくれる。
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初夜に「君を愛するつもりはない」と夫から言われた妻のその後
澤谷弥(さわたに わたる)
ファンタジー
結婚式の日の夜。夫のイアンは妻のケイトに向かって「お前を愛するつもりはない」と言い放つ。
ケイトは知っていた。イアンには他に好きな女性がいるのだ。この結婚は家のため。そうわかっていたはずなのに――。
※短いお話です。
※恋愛要素が薄いのでファンタジーです。おまけ程度です。
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