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1部 5章
巨大バエ討伐の剣が最期のひと振り 1
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《ストラク》を発ったオレとディパルさんは、《プレッドス大湿原》へと向かっている。
ディパルさん曰く、ブゼルデスという蟲は湿度が極めて高く陽の射さない場所に巣を作るようで、近隣で最も該当する地域は大湿原のどこか~ということだった。
……あの森の向こうに広がるのが、大湿原か。
必死に栗毛を操って、《ストラク》へ向かっている間よりも随分と駆け足な灰馬に縋りつきながら、前方に見えてきた森の奥に広がる景色を想像する。
《ブレッドス大湿原》
名前と簡単な知識だけは、学舎で学んだことがあるから知っている。
自分たち人間族の統治するこの《バイナンクリプト皇国》と。
妖精族の統治する、隣国《プルデンラルタ共同体》との。
国境として横たわっている大湿原だ。
水が生命を産み、育み、湿気は独特な変化をもたらすという摂理によって、そこら一帯は皇国の他地域ではまったく観察されないような生態系が構築されているという。
常時、そこで生活しているような人間はおらず。
圧倒的とも言えるほどの強い個性を備えた獣や蟲――とくに蟲の楽園だとか。
……考えると、緊張してきたな。
ただでさえ、これまで一度だって《コテキ》からも遠出したことがなかったんだ。
それが、人生で初めて別の村へと行ったかと思えば、今度は国境の大湿原だなんて。
大冒険にもほどがある。
……いや、冒険じゃない。これからは、日常になっていくんだ。
もう、絶対に自分を守ってくれる安息の地はない。
なんの心配もなく日々を過ごせる場所は、もう失われたんだ。
これから先は、様々な困難が待っていて、幾つもの挑戦をしなければならないだろう。
生きていくために。
つまりこれは試練――最初の試練らしい試練、ということだ。
ビビっている場合ではない。
攫われた子どもたちの命だってかかっているんだ。
森との距離が縮まるにつれ、ディパルさんが愛馬の速度を落とした。
オレも手綱を引く。
緩やかな速度となり、灰馬が森のすぐ傍で足を止めた。オレも栗毛を止める。
「ここから馬に乗ったまま森を行きます。私でもそれほど速度は出せませんが、それでも出せる限りの速度は出します。アクセルは無理しない程度でついてきてください。たとえ私の姿が見えなくなっても、とにかく真っ直ぐ馬を操るように。いいですか」
「はいっ、わかりましたっ」
「では、行きましょう」
ディパルさんの指示で、再び灰馬が踏み出す。オレも栗毛を前進させる。
鬱蒼とした森だ。《コテキ》傍の森よりもジメジメしているし、緑の臭気が濃い。
大湿原が近いからだろうか。でも、《コテキ》傍の森だって、すぐそこを《イツミ川》が流れていた。湿原というのは、見たことがないが、言ってしまえば水の集まりだろう? 川か湿原かで、それほど変わるものなのか。
いや、変わるのだ。
事実、今こうして感じているものが、まるで異なるのだから。
頭上を覆う分厚い枝葉の天井によって陽射しはほぼ遮られ、視界はかなり暗い。それでも陽光の力というものはやはり絶大なもので、完全に遮断されているわけではないから、灯りをともさなくても視野は保てている。
地面は随分な荒れ模様。でも、これがここの平常。人間である自分にとっては荒れているけれど、ここは人間のためにある場所ではない。ここは、自然。大自然。ここの生態系にとっては、これが当たり前なのだ。
……クッソ、操るのが大変だっ。
凹凸の激しい地面を歩くたび、身体が右に左に傾く。どこの木からか伸びている太い……太すぎる根を超えるとき、臀部が鞍に叩きつけられる。それでも手綱を懸命に操り、栗毛が進む先を迷ってしまわないようにしなければならない。経験したことのない大変さだ。
それでも、ディパルさんはぐんぐんと進んで行ってしまう。
一秒でも惜しいのだ。
当然だ。人の命が、幼馴染の娘の命がかかっているのだから。
オレも落馬しないように自らの身体も操りながら、懸命に追いすがった。
※
だいぶ離れたところ。
拳大となったディパルさんが止まっている。
そこは、頭上を遮るものがないのか、かなり明るい。
森を抜けたのだ。
あそこまで行けば、森を抜けられるのだ。
もうしばらくは馬に乗りたくないと思うくらい心身ともに痛めつけられたが、ついてきたのは自分の意思。つい芽生えてしまう弱音を意識的に払拭しながら進んでいく。
そして――ディパルさんの横へと、オレは並ぶことができた。
「わぁ……」
眼前の光景に、思わず声が漏れた。
《ブレッドス大湿原》は、今まで自分が生きてきた環境とは、まるで異なるものだった。
どろりとした、液体でもあり個体でもあるようなその一帯は、対岸が視認できないくらいに広く。
そこを多種多様な生物が蠢いていることは、馬上から見ても明らかだ。
見たことのない獣。
見たことのない蟲。
見たことのない草花。
ちょっと、いや正直に言ってだいぶ、怖さを覚えるほど様々な命で溢れている。
かなり衝撃的な光景だ。
――ズオオオォォォォォォォオ!
突如として響いた轟音。
灰馬と栗毛が揃って嘶きながら、前脚を持ち上げる。
「うっ、ちょっ」
オレは振り落とされないようなんとか身体のバランスを保ちながら、右手は手綱を強く握り、左手は栗毛の首に掌を押し付けるようにして支えとする。
「落ち着きなさい。大丈夫、大丈夫だから」
隣では、ディパルさんの宥める声。慌てふためくオレに言っているかと思ったが、自らの愛馬にかけた言葉だろう。まあ、オレも愛馬も栗毛も込みで、かもしれないが。
轟音が止む。
少しして、二頭も落ち着きを取り戻した。
「ディパルさん、今のは一体」
「この湿原のヌシの活動音ですよ。生物としての歴然とした力量差に、この子たちも怖がってしまったのです」
「ヌシって、魚か何かですか?」
「……妖精の創作物です」
妖精の。
創作物?
「えっと、それって、どんな」
さっぱりわからなかった。
「私も、確かなことは知りません。ただあれは自然に産まれたものでなく、妖精族が国境を守護するために造り放った存在だと、子どもの頃に教えられました」
「それって……オレたち人間は、何か対抗してるんです?」
「……軍人として、そういった話は聞いたことがないですね」
「そうなんですか……いいんですかね、何もしなくて」
「そこは政治的な問題ですから」
ですから。
そこに続く言葉は、自分たちのような者が考えても意味はない、的なことだろう。
「行きましょう。今は自分たちのやれることをやる。いいですね」
「は、はいっ」
その通りだ。
国境問題とか。
政府のこととか。
今、ここで頭を使うことではない。
自分たちには、もっと切実な問題がある。
「その、ブゼルデス?の巣穴、簡単に見つかるんですか?」
「……答えにくい疑問ですね。どちらとも言えない、が誠実でしょうか」
「簡単でもあるし、困難でもある、と?」
「はい。ブゼルデスは、個体差はあれど、基本的にはなかなかな巨体です。その巨体が安息地にできる出入り口があって、尚且つ、陽の射さない場所となれば、この湿原においても数え切れるほどしかないでしょう。ハーナから貰った最新版の地図で、目星をつけます」
そういえば、ディパルさんは丸められた紙を受け取っていたっけ。
あれが地図……この辺りの地図、なのか。
ん~、地図かぁ……。
「ハーナさんは、どうしてこの辺りの地図なんて持ってるんでしょう」
「それは、この辺りの観察が、あの村の収益源だからです」
「観察が、収益?」
「情報は金に、食い扶持に変わるということです」
あ。
思い浮かんだのは、グレンさんの顔。
グレンさんも、同じようなことを言っていたっけ。
情報は金になる、と。
……大事なこと、なんだな。
ディパルさんが、腰紐に挿し込んでいたらしいその地図を抜き取り、広げる。
「……なるほど。向こうにある地底窟に行きましょう。そこが最も怪しいです」
愛馬の向く先を変え、ディパルさんが離れていく。
オレも返事をし、栗毛を操った。
横目で見る、大湿原。
……え?
そこに、巨大な島ができていた。
先ほどまで、あそこにあんなものはなかったのに。
……ああ。あれが、ヌシ。妖精族の放った国境を守る存在、か。
島は動いている。オレたちが進む方角とは反対側へと。
動いているから、生物だとわかった。
オレはいつの間にか溜まった唾を飲み、ぶんぶんと強く頭を振る。
今は地底窟、地底窟だっ!
気を引き締めろ。国境のこと、そこにいるヌシのことなんて、無視だ無視。
地底窟だって、オレにとっては、未踏の地。
そして、そこにいるかもしれない、ブゼルデスという巨大蟲。
集中しなきゃ、ディパルさんの足手まといにしかならないぞ!
自分に喝を入れ、手綱を強く握り締めた。
ディパルさん曰く、ブゼルデスという蟲は湿度が極めて高く陽の射さない場所に巣を作るようで、近隣で最も該当する地域は大湿原のどこか~ということだった。
……あの森の向こうに広がるのが、大湿原か。
必死に栗毛を操って、《ストラク》へ向かっている間よりも随分と駆け足な灰馬に縋りつきながら、前方に見えてきた森の奥に広がる景色を想像する。
《ブレッドス大湿原》
名前と簡単な知識だけは、学舎で学んだことがあるから知っている。
自分たち人間族の統治するこの《バイナンクリプト皇国》と。
妖精族の統治する、隣国《プルデンラルタ共同体》との。
国境として横たわっている大湿原だ。
水が生命を産み、育み、湿気は独特な変化をもたらすという摂理によって、そこら一帯は皇国の他地域ではまったく観察されないような生態系が構築されているという。
常時、そこで生活しているような人間はおらず。
圧倒的とも言えるほどの強い個性を備えた獣や蟲――とくに蟲の楽園だとか。
……考えると、緊張してきたな。
ただでさえ、これまで一度だって《コテキ》からも遠出したことがなかったんだ。
それが、人生で初めて別の村へと行ったかと思えば、今度は国境の大湿原だなんて。
大冒険にもほどがある。
……いや、冒険じゃない。これからは、日常になっていくんだ。
もう、絶対に自分を守ってくれる安息の地はない。
なんの心配もなく日々を過ごせる場所は、もう失われたんだ。
これから先は、様々な困難が待っていて、幾つもの挑戦をしなければならないだろう。
生きていくために。
つまりこれは試練――最初の試練らしい試練、ということだ。
ビビっている場合ではない。
攫われた子どもたちの命だってかかっているんだ。
森との距離が縮まるにつれ、ディパルさんが愛馬の速度を落とした。
オレも手綱を引く。
緩やかな速度となり、灰馬が森のすぐ傍で足を止めた。オレも栗毛を止める。
「ここから馬に乗ったまま森を行きます。私でもそれほど速度は出せませんが、それでも出せる限りの速度は出します。アクセルは無理しない程度でついてきてください。たとえ私の姿が見えなくなっても、とにかく真っ直ぐ馬を操るように。いいですか」
「はいっ、わかりましたっ」
「では、行きましょう」
ディパルさんの指示で、再び灰馬が踏み出す。オレも栗毛を前進させる。
鬱蒼とした森だ。《コテキ》傍の森よりもジメジメしているし、緑の臭気が濃い。
大湿原が近いからだろうか。でも、《コテキ》傍の森だって、すぐそこを《イツミ川》が流れていた。湿原というのは、見たことがないが、言ってしまえば水の集まりだろう? 川か湿原かで、それほど変わるものなのか。
いや、変わるのだ。
事実、今こうして感じているものが、まるで異なるのだから。
頭上を覆う分厚い枝葉の天井によって陽射しはほぼ遮られ、視界はかなり暗い。それでも陽光の力というものはやはり絶大なもので、完全に遮断されているわけではないから、灯りをともさなくても視野は保てている。
地面は随分な荒れ模様。でも、これがここの平常。人間である自分にとっては荒れているけれど、ここは人間のためにある場所ではない。ここは、自然。大自然。ここの生態系にとっては、これが当たり前なのだ。
……クッソ、操るのが大変だっ。
凹凸の激しい地面を歩くたび、身体が右に左に傾く。どこの木からか伸びている太い……太すぎる根を超えるとき、臀部が鞍に叩きつけられる。それでも手綱を懸命に操り、栗毛が進む先を迷ってしまわないようにしなければならない。経験したことのない大変さだ。
それでも、ディパルさんはぐんぐんと進んで行ってしまう。
一秒でも惜しいのだ。
当然だ。人の命が、幼馴染の娘の命がかかっているのだから。
オレも落馬しないように自らの身体も操りながら、懸命に追いすがった。
※
だいぶ離れたところ。
拳大となったディパルさんが止まっている。
そこは、頭上を遮るものがないのか、かなり明るい。
森を抜けたのだ。
あそこまで行けば、森を抜けられるのだ。
もうしばらくは馬に乗りたくないと思うくらい心身ともに痛めつけられたが、ついてきたのは自分の意思。つい芽生えてしまう弱音を意識的に払拭しながら進んでいく。
そして――ディパルさんの横へと、オレは並ぶことができた。
「わぁ……」
眼前の光景に、思わず声が漏れた。
《ブレッドス大湿原》は、今まで自分が生きてきた環境とは、まるで異なるものだった。
どろりとした、液体でもあり個体でもあるようなその一帯は、対岸が視認できないくらいに広く。
そこを多種多様な生物が蠢いていることは、馬上から見ても明らかだ。
見たことのない獣。
見たことのない蟲。
見たことのない草花。
ちょっと、いや正直に言ってだいぶ、怖さを覚えるほど様々な命で溢れている。
かなり衝撃的な光景だ。
――ズオオオォォォォォォォオ!
突如として響いた轟音。
灰馬と栗毛が揃って嘶きながら、前脚を持ち上げる。
「うっ、ちょっ」
オレは振り落とされないようなんとか身体のバランスを保ちながら、右手は手綱を強く握り、左手は栗毛の首に掌を押し付けるようにして支えとする。
「落ち着きなさい。大丈夫、大丈夫だから」
隣では、ディパルさんの宥める声。慌てふためくオレに言っているかと思ったが、自らの愛馬にかけた言葉だろう。まあ、オレも愛馬も栗毛も込みで、かもしれないが。
轟音が止む。
少しして、二頭も落ち着きを取り戻した。
「ディパルさん、今のは一体」
「この湿原のヌシの活動音ですよ。生物としての歴然とした力量差に、この子たちも怖がってしまったのです」
「ヌシって、魚か何かですか?」
「……妖精の創作物です」
妖精の。
創作物?
「えっと、それって、どんな」
さっぱりわからなかった。
「私も、確かなことは知りません。ただあれは自然に産まれたものでなく、妖精族が国境を守護するために造り放った存在だと、子どもの頃に教えられました」
「それって……オレたち人間は、何か対抗してるんです?」
「……軍人として、そういった話は聞いたことがないですね」
「そうなんですか……いいんですかね、何もしなくて」
「そこは政治的な問題ですから」
ですから。
そこに続く言葉は、自分たちのような者が考えても意味はない、的なことだろう。
「行きましょう。今は自分たちのやれることをやる。いいですね」
「は、はいっ」
その通りだ。
国境問題とか。
政府のこととか。
今、ここで頭を使うことではない。
自分たちには、もっと切実な問題がある。
「その、ブゼルデス?の巣穴、簡単に見つかるんですか?」
「……答えにくい疑問ですね。どちらとも言えない、が誠実でしょうか」
「簡単でもあるし、困難でもある、と?」
「はい。ブゼルデスは、個体差はあれど、基本的にはなかなかな巨体です。その巨体が安息地にできる出入り口があって、尚且つ、陽の射さない場所となれば、この湿原においても数え切れるほどしかないでしょう。ハーナから貰った最新版の地図で、目星をつけます」
そういえば、ディパルさんは丸められた紙を受け取っていたっけ。
あれが地図……この辺りの地図、なのか。
ん~、地図かぁ……。
「ハーナさんは、どうしてこの辺りの地図なんて持ってるんでしょう」
「それは、この辺りの観察が、あの村の収益源だからです」
「観察が、収益?」
「情報は金に、食い扶持に変わるということです」
あ。
思い浮かんだのは、グレンさんの顔。
グレンさんも、同じようなことを言っていたっけ。
情報は金になる、と。
……大事なこと、なんだな。
ディパルさんが、腰紐に挿し込んでいたらしいその地図を抜き取り、広げる。
「……なるほど。向こうにある地底窟に行きましょう。そこが最も怪しいです」
愛馬の向く先を変え、ディパルさんが離れていく。
オレも返事をし、栗毛を操った。
横目で見る、大湿原。
……え?
そこに、巨大な島ができていた。
先ほどまで、あそこにあんなものはなかったのに。
……ああ。あれが、ヌシ。妖精族の放った国境を守る存在、か。
島は動いている。オレたちが進む方角とは反対側へと。
動いているから、生物だとわかった。
オレはいつの間にか溜まった唾を飲み、ぶんぶんと強く頭を振る。
今は地底窟、地底窟だっ!
気を引き締めろ。国境のこと、そこにいるヌシのことなんて、無視だ無視。
地底窟だって、オレにとっては、未踏の地。
そして、そこにいるかもしれない、ブゼルデスという巨大蟲。
集中しなきゃ、ディパルさんの足手まといにしかならないぞ!
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