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15 月の宴
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日が暮れる頃、屋敷のあちこちに吊り下げられた釣り燈籠に明かりが灯る。淡いその光と月明かりが屋敷全体を幻想的な雰囲気へとかもし出していた。
(本当に月の宴に参加することになるなんて……)
主の言葉に半信半疑だったリトスは、使用人の猫族に「ご用意を」と促され本当だったのだとようやく理解した。用意された裾の長いゆったりとした服に着替え、頭には同じく用意されたベールを被る。垂れ耳を隠すことはできるものの、薄い布では頭の側面の盛り上がりを隠すことはできない。
(兎族が見れば垂れ耳だとわかってしまう)
それでもリトスに拒否することはできなかった。ただの兎族でしかないリトスが、狼族の長と同じくらい偉いのだという主の言いつけに逆らうことはできない。
用意が済んだリトスに、クシフォスは「うんうん、よく似合う」と喜んだ。そうして「さぁ、行こう」と促した。
(どうかばれませんように)
いつもと違う裾や袖の長い服を纏ったクシフォスの後を、同じように裾の長い服を着たリトスがついていく。そうしてたどり着いた大広間は、まさに夢のような美しさだった。
中央の天井には大きな天窓があり、そこから満月の光がこれでもかと降り注いでいる。部屋のあちこちに吊り下げられた釣り燈籠はほのかなオレンジ色で、それが螺鈿細工の施された柱や扉をゆらゆらと照らしていた。
大広間の奥には舞台のように一段高くなった場所があり、床には鮮やかな刺繍が入った銀色の布が敷かれていた。その上にクシフォスが優雅に座った。クシフォスの背後にはアスピダが控え、リトスは主の斜め後ろに座るように促される。
(この位置だと顔が見えてしまうんじゃ……)
名前を呼ばれた花嫁候補たちは順番にクシフォスの前に進み出て挨拶をするのだと聞いた。つまり、すぐ側にいるリトスの前に立つということだ。
(顔は見えなくても垂れ耳には気づかれてしまうかもしれない)
どうしようと焦るリトスをよそに、クシフォスの前に金色に揺れる満月型の有明行燈が置かれた。それを合図に四方の扉が開き続々と参加者たちが入って来た。青い布を敷いた向かって右手側には狼族が、赤い布を敷いた左手側には着飾った兎族が次々と座っていく。
「おい、あれはまさか」
「おそらくは」
「今回参加できてよかったな」
壇上を見た狼族がざわついている。リトスは一瞬、アフィーテだとばれたのかと焦った。しかし非難するような声は聞こえず、オレンジ色の目はただ熱心に壇上を見ているばかりだ。
「大丈夫」
クシフォスの囁く声にハッとした。伸びてきた手がポンポンとリトスの膝を叩く。
(大丈夫……)
いつも口にしていた言葉だが、いまのリトスに効果はない。膝に置いた両手をグッと握り締め、何事もなく時間が過ぎますようにと願う。
(早く終わりますように……何も起きませんように……)
祈るように目を伏せたリトスは、決して兎族を見ないようにと俯いた。ルヴィニの姿を目にしないように、握り締めた自分の手をじっと見つめる。
そんなリトスの耳に美しい弦楽器の音が聞こえてきた。月の宴の始まりを告げるように美しい音色が大広間に響き渡る。
ポーン、ポン、ポーン。
弦の音が止まると、兎族の名前を呼び上げる声が聞こえて来た。呼ばれた兎族が立ち上がったのかシャラシャラと飾りが揺れる音がする。
(挨拶が始まったんだ)
名前を呼ばれた兎族が次々とクシフォスの前に立った。言葉を交わすことはなく、頭を下げる兎族を見たクシフォスが手元の紙に何かを書き記している。それを受け取った白服の狼族が、右手側に座る狼族に次々と届けていく。
リトスは視線を上げることなく人が動く気配に息を殺していた。兎族の名前が呼ばれるたびに手に力が入り、段々と呼吸が苦しくなっていく。
「次の花嫁候補、ルヴィニ」
名前が呼ばれた瞬間、リトスの鼓動が一際大きく跳ね上がった。ドクドクとした音がこれでもかとうるさくなる。
(早く、早く通り過ぎて)
ただそれだけを願いながら目を閉じた。膝の上の拳は白くなるほど力が入り、額には脂汗が滲み始める。
「この匂いは……なるほど」
クシフォスの囁く声が耳に入った。意味がわからないのに肩が震え、そのせいでベールがほんの少し揺れてしまう。たったそれだけだったのに、ルヴィニの足がぴたりと止まった。
「リトス?」
まさかの声にリトスは飛び跳ねるほど驚いた。焦る背中を嫌な汗がつーっと流れ落ちる。
「どうしてここに」
小さいながらも、ルヴィニの声がはっきりと聞こえた。
(どうしよう、どうしよう)
ルヴィニに気づかれたということは、きっと他の兎族にも知られてしまうに違いない。どうしていいのかわからず頭がぐちゃぐちゃになっていく。
(どうか、これ以上何も言わないで)
リトスは必死に祈った。後でいくら罵倒してもいいから、このまま通り過ぎてほしい。そう願ったもののルヴィニは立ち止まったままだ。
「どうしてリトスがここに……っ」
小さな叫び声にベールがビクッと震えた。立ち去らないルヴィニの様子に兎族がざわつき始める。狼族も何事かと壇上に視線を向けた。
(最悪な状況になってしまった)
リトスは手のひらに爪が食い込むほどの力で拳を握りしめた。情けなくも愚かな自分を責めながらギュッと目を瞑る。
「静まれ、月の宴の席だぞ」
凜と響いたアスピダの声に、ざわついていた兎族が一斉に口を閉じた。狼族は変わらず静かに壇上に視線を向けている。
「ここにいる兎族は、わたし自らが選定した花嫁候補だ」
アスピダに続いたクシフォスの言葉に、今度は狼族のほうから「やっぱり」という声が上がった。兎族たちからは困惑するような囁き声が広がる。
「今宵集まった狼族の中から特別な花嫁の番が選ばれる」
狼族たちがざわっと色めき立った。「ぜひに」という言葉や「わたしこそが」という声が次々と上がる。
「静粛に。剣の言葉を遮るな」
アスピダの言葉に興奮気味の狼族たちが口をつぐんだ。それでもギラギラした眼差しを壇上に向け続ける。
ぞわっとするような気配に、リトスは思わず目を開いた。ベール越しにも一斉に視線を向けられているのがわかる。その光景に酒場でのことが蘇った。値踏みするよりずっと熱い視線に尻尾の毛が逆立ち垂れ耳まで震え出す。
「今宵、特別な花嫁を得るのはバシレウスだ」
クシフォスの言葉に狼族がざわざわと揺れた。「今夜は辞退したと聞いたぞ」という声や「やっぱりか」という囁きが上がる。
それを打ち消すかのように扉が開き、漆黒の服を着たバシレウスが靴音を立てながら入ってきた。憧れの狼族の突然の登場に、今度は花嫁候補たちが一斉に色めき立った。「蒼灰の君だ」と囁き「なんて美しいんだろう」とため息を漏らしながら熱い視線を送る。
(バシレウス、様)
バシレウスは真っ直ぐに壇上へと向かって歩いていた。月明かりを浴びて金色に輝く目に射すくめられたような気がしたリトスは、慌てて視線を落とす。
(何がどうなっているんだ)
リトスには何が起きているのか理解できなかった。この場にいるのは昨夜の罰を受けるためだと思っていた。ところが自分はなぜか花嫁候補になっていて、しかもバシレウスの番になるのだという。
「特別な花嫁は黄金の瞳を持つバシレウスの番に」
「ありがたく頂戴する」
再びの言葉に兎族がざわついた。「ルヴィニが選ばれるはずじゃ?」という囁き声も聞こえてくる。
「だから出て行けと言ったのに」
不意に聞こえてきた声にリトスの肩が震えた。慌てて視線を向けると、バシレウスの斜め後ろに立つルヴィニがじっとリトスを見ている。ベールではっきりとは見えないものの、睨みつけるような雰囲気はリトスにも十分感じられた。
「バシレウスの花嫁は、わたしが選定した特別な花嫁と決まった。異論や異議は認めない」
クシフォスの言葉に頷いたバシレウスが壇上に上がった。そのまま呆然としているリトスを抱き上げ、ざわつく兎族や狼族には目もくれず大広間を後にする。
(ルヴィニの邪魔をしてしまった……)
後悔の念に苛まれていたリトスは、呆けたようにバシレウスに運ばれていった。
(本当に月の宴に参加することになるなんて……)
主の言葉に半信半疑だったリトスは、使用人の猫族に「ご用意を」と促され本当だったのだとようやく理解した。用意された裾の長いゆったりとした服に着替え、頭には同じく用意されたベールを被る。垂れ耳を隠すことはできるものの、薄い布では頭の側面の盛り上がりを隠すことはできない。
(兎族が見れば垂れ耳だとわかってしまう)
それでもリトスに拒否することはできなかった。ただの兎族でしかないリトスが、狼族の長と同じくらい偉いのだという主の言いつけに逆らうことはできない。
用意が済んだリトスに、クシフォスは「うんうん、よく似合う」と喜んだ。そうして「さぁ、行こう」と促した。
(どうかばれませんように)
いつもと違う裾や袖の長い服を纏ったクシフォスの後を、同じように裾の長い服を着たリトスがついていく。そうしてたどり着いた大広間は、まさに夢のような美しさだった。
中央の天井には大きな天窓があり、そこから満月の光がこれでもかと降り注いでいる。部屋のあちこちに吊り下げられた釣り燈籠はほのかなオレンジ色で、それが螺鈿細工の施された柱や扉をゆらゆらと照らしていた。
大広間の奥には舞台のように一段高くなった場所があり、床には鮮やかな刺繍が入った銀色の布が敷かれていた。その上にクシフォスが優雅に座った。クシフォスの背後にはアスピダが控え、リトスは主の斜め後ろに座るように促される。
(この位置だと顔が見えてしまうんじゃ……)
名前を呼ばれた花嫁候補たちは順番にクシフォスの前に進み出て挨拶をするのだと聞いた。つまり、すぐ側にいるリトスの前に立つということだ。
(顔は見えなくても垂れ耳には気づかれてしまうかもしれない)
どうしようと焦るリトスをよそに、クシフォスの前に金色に揺れる満月型の有明行燈が置かれた。それを合図に四方の扉が開き続々と参加者たちが入って来た。青い布を敷いた向かって右手側には狼族が、赤い布を敷いた左手側には着飾った兎族が次々と座っていく。
「おい、あれはまさか」
「おそらくは」
「今回参加できてよかったな」
壇上を見た狼族がざわついている。リトスは一瞬、アフィーテだとばれたのかと焦った。しかし非難するような声は聞こえず、オレンジ色の目はただ熱心に壇上を見ているばかりだ。
「大丈夫」
クシフォスの囁く声にハッとした。伸びてきた手がポンポンとリトスの膝を叩く。
(大丈夫……)
いつも口にしていた言葉だが、いまのリトスに効果はない。膝に置いた両手をグッと握り締め、何事もなく時間が過ぎますようにと願う。
(早く終わりますように……何も起きませんように……)
祈るように目を伏せたリトスは、決して兎族を見ないようにと俯いた。ルヴィニの姿を目にしないように、握り締めた自分の手をじっと見つめる。
そんなリトスの耳に美しい弦楽器の音が聞こえてきた。月の宴の始まりを告げるように美しい音色が大広間に響き渡る。
ポーン、ポン、ポーン。
弦の音が止まると、兎族の名前を呼び上げる声が聞こえて来た。呼ばれた兎族が立ち上がったのかシャラシャラと飾りが揺れる音がする。
(挨拶が始まったんだ)
名前を呼ばれた兎族が次々とクシフォスの前に立った。言葉を交わすことはなく、頭を下げる兎族を見たクシフォスが手元の紙に何かを書き記している。それを受け取った白服の狼族が、右手側に座る狼族に次々と届けていく。
リトスは視線を上げることなく人が動く気配に息を殺していた。兎族の名前が呼ばれるたびに手に力が入り、段々と呼吸が苦しくなっていく。
「次の花嫁候補、ルヴィニ」
名前が呼ばれた瞬間、リトスの鼓動が一際大きく跳ね上がった。ドクドクとした音がこれでもかとうるさくなる。
(早く、早く通り過ぎて)
ただそれだけを願いながら目を閉じた。膝の上の拳は白くなるほど力が入り、額には脂汗が滲み始める。
「この匂いは……なるほど」
クシフォスの囁く声が耳に入った。意味がわからないのに肩が震え、そのせいでベールがほんの少し揺れてしまう。たったそれだけだったのに、ルヴィニの足がぴたりと止まった。
「リトス?」
まさかの声にリトスは飛び跳ねるほど驚いた。焦る背中を嫌な汗がつーっと流れ落ちる。
「どうしてここに」
小さいながらも、ルヴィニの声がはっきりと聞こえた。
(どうしよう、どうしよう)
ルヴィニに気づかれたということは、きっと他の兎族にも知られてしまうに違いない。どうしていいのかわからず頭がぐちゃぐちゃになっていく。
(どうか、これ以上何も言わないで)
リトスは必死に祈った。後でいくら罵倒してもいいから、このまま通り過ぎてほしい。そう願ったもののルヴィニは立ち止まったままだ。
「どうしてリトスがここに……っ」
小さな叫び声にベールがビクッと震えた。立ち去らないルヴィニの様子に兎族がざわつき始める。狼族も何事かと壇上に視線を向けた。
(最悪な状況になってしまった)
リトスは手のひらに爪が食い込むほどの力で拳を握りしめた。情けなくも愚かな自分を責めながらギュッと目を瞑る。
「静まれ、月の宴の席だぞ」
凜と響いたアスピダの声に、ざわついていた兎族が一斉に口を閉じた。狼族は変わらず静かに壇上に視線を向けている。
「ここにいる兎族は、わたし自らが選定した花嫁候補だ」
アスピダに続いたクシフォスの言葉に、今度は狼族のほうから「やっぱり」という声が上がった。兎族たちからは困惑するような囁き声が広がる。
「今宵集まった狼族の中から特別な花嫁の番が選ばれる」
狼族たちがざわっと色めき立った。「ぜひに」という言葉や「わたしこそが」という声が次々と上がる。
「静粛に。剣の言葉を遮るな」
アスピダの言葉に興奮気味の狼族たちが口をつぐんだ。それでもギラギラした眼差しを壇上に向け続ける。
ぞわっとするような気配に、リトスは思わず目を開いた。ベール越しにも一斉に視線を向けられているのがわかる。その光景に酒場でのことが蘇った。値踏みするよりずっと熱い視線に尻尾の毛が逆立ち垂れ耳まで震え出す。
「今宵、特別な花嫁を得るのはバシレウスだ」
クシフォスの言葉に狼族がざわざわと揺れた。「今夜は辞退したと聞いたぞ」という声や「やっぱりか」という囁きが上がる。
それを打ち消すかのように扉が開き、漆黒の服を着たバシレウスが靴音を立てながら入ってきた。憧れの狼族の突然の登場に、今度は花嫁候補たちが一斉に色めき立った。「蒼灰の君だ」と囁き「なんて美しいんだろう」とため息を漏らしながら熱い視線を送る。
(バシレウス、様)
バシレウスは真っ直ぐに壇上へと向かって歩いていた。月明かりを浴びて金色に輝く目に射すくめられたような気がしたリトスは、慌てて視線を落とす。
(何がどうなっているんだ)
リトスには何が起きているのか理解できなかった。この場にいるのは昨夜の罰を受けるためだと思っていた。ところが自分はなぜか花嫁候補になっていて、しかもバシレウスの番になるのだという。
「特別な花嫁は黄金の瞳を持つバシレウスの番に」
「ありがたく頂戴する」
再びの言葉に兎族がざわついた。「ルヴィニが選ばれるはずじゃ?」という囁き声も聞こえてくる。
「だから出て行けと言ったのに」
不意に聞こえてきた声にリトスの肩が震えた。慌てて視線を向けると、バシレウスの斜め後ろに立つルヴィニがじっとリトスを見ている。ベールではっきりとは見えないものの、睨みつけるような雰囲気はリトスにも十分感じられた。
「バシレウスの花嫁は、わたしが選定した特別な花嫁と決まった。異論や異議は認めない」
クシフォスの言葉に頷いたバシレウスが壇上に上がった。そのまま呆然としているリトスを抱き上げ、ざわつく兎族や狼族には目もくれず大広間を後にする。
(ルヴィニの邪魔をしてしまった……)
後悔の念に苛まれていたリトスは、呆けたようにバシレウスに運ばれていった。
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