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16 花嫁
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大広間から出たバシレウスは、長い廊下を何度か曲がり奥の部屋へと入った。そうして体を強張らせているリトスをソファに下ろし、そっとベールを外す。混乱していたリトスは、ようやく自分が昨夜の部屋に連れて来られたことに気がついた。
同時にますます困惑した。どういう状況かわからず、なぜ自分が花嫁候補になり、こうして部屋に連れて来られたのかもわからない。
「リトス」
名前を呼ばれてハッとした。目の前にいるバシレウスを見て「ルヴィニは」とつぶやいたが、再び「リトス」と名前を呼ばれて口をつぐむ。
「リトス、どうか俺の花嫁になってほしい」
「……それは、」
そんなことできるはずがない。そもそも狼族が兎族を番に選ぶのは子を残すためだ。アフィーテの自分は劣勢種で子を孕むことは難しい。昨夜そう説明したはずなのに、どうして「花嫁になってほしい」なんて言うのだろうか。
(それに、蒼灰の君の花嫁候補はルヴィニだ)
選ばれなかったルヴィニはどうなってしまうのだろう。故郷にいる両親も残念がるに違いない。
リトスは自分のことよりも家族のことが気になって仕方がなかった。全部自分のせいだと目頭が熱くなる。
「リトス、俺の話を聞いてくれ」
「僕は、狼族の番にはなれません」
「リトス、」
「番になったら駄目なんです。アフィーテだから、きっと子どもはできないから、」
「花嫁は子が生まれなくても一生大事にされる」
それはリトスも知っている。しかし、大事にされるのは新しい花嫁を迎えれば済むからだ。名家の狼族なら何人の花嫁を迎えても、その家族ごと養うことができる。
(バシレウス様は、きっとすぐに新しい花嫁を迎えるだろう)
そう思うと胸が苦しくて仕方なかった。自分は花嫁になれないとわかっているのに、いま肩に触れている手が別の兎族にも優しく触れるのだと思うだけで胸が苦しくなる。矛盾した気持ちにリトスの目からぽろりと涙がこぼれた。
「リトス、泣かないでくれ。……もしかして、泣くほど俺の花嫁になるのは嫌なのか?」
そんなことは絶対にない。そう思っていてもリトスには答えることができなかった。これはただの憧れで、そんな気持ちを抱くのは間違っている。
(アフィーテの僕が狼族に憧れるなんて、そんなの駄目に決まってる)
しかも相手は名家中の名家、狼族の長の息子だ。アフィーテが近づいていい相手ではない。
リトスは唇を噛み締めた。これ以上余計なことを考えたら、また涙が出てしまいそうだ。それではますます困らせてしまう。
グッと唇を噛み、膝に乗せた手にググッと力を入れる。何とかしなくてはと思っていると、扉が開いてクシフォスが入ってきた。
「こら、バシレウス。大事な花嫁を泣かせるんじゃない」
「……クシフォス」
「まったく、これだからろくに恋をしたことのない雄は駄目だというんだ」
「クシフォス!」
バシレウスの声にクシフォスが麗しい笑みを浮かべた。「図星か」と告げた口元はニヤニヤと笑っている。
俯き加減のリトスに「リトス」とクシフォスが声をかけた。バシレウスとはまた違う優しい手に肩を撫でられ、目尻が少しだけ濡れたのがわかった。
「リトス、きみは今夜蒼灰の君の花嫁になった。バシレウスの番になったんだ」
「……でも、僕は花嫁候補じゃありません」
「たしかに兎族が選んだ候補の中には入っていなかった。でも、きみは僕が選んだ特別な花嫁候補だ」
「特別な花嫁……」
視線を上げると、にこりと微笑んだクシフォスが「僕は特別な花嫁を選ぶことができるんだよ」と口にした。
「そういえば、僕がどうして長と同じくらい高い地位にいるのか教えてなかったね」
「……はい」
「僕には狼族の子を孕む可能性が高い兎族を嗅ぎわける力がある。月の宴ではこの力を使って匂いを嗅ぎわけ、相性のよい狼族に娶せるのが僕の役目なんだ」
言われて「そういえば」と思い出した。初めて会ったとき「いい匂いがする」と言われた。そのあと「僕がずっと探していた匂いだ」とも言われた。
「それじゃ、あのとき匂いがすると言ったのは……」
「きみから狼族の子を孕む匂いがしたんだ」
「それは変です。僕は劣勢種で、アフィーテは子を孕みにくいんです」
「それはどうかな。兎族同士のことはわからないけど、少なくとも狼族の子は十分孕むと思うよ。まぁ、リトスが僕の力を信じてくれたらの話だけど」
「僕のこと、疑うかい?」と麗しい顔に覗き込まれ、慌ててフルフルと頭を振った。自分を騙したところで狼族の誰も得をしないし騙す理由もない。
「僕が持つ嗅ぎわける力は絶対に間違わない。だから長と同じ高い地位にある。そんな僕が特別に選ぶ花嫁候補は狼族にとって最上の花嫁だ。だから狼族はざわついた。みんなきみがほしくて仕方がなかったのさ」
「僕を……」
まさかと思ったものの、あの場で感じた熱い視線にリトスの背中がぞわりとした。
「今回の決定に狼族が異議を唱えることはない。たとえ兎族が何か言ってきても覆ることもない。それが月の宴の決まりだ」
クシフォスの力強い言葉に、それでもリトスは不安を感じていた。
「あの……バシレウス様は本当にそれでいいんですか?」
いくら月の宴の決まりだと言っても、バシレウスが本当にリトスを花嫁にしたいのかわからない。それが役目だと思っていても、アフィーテがどんな存在か詳しく知れば嫌になるはずだ。何よりかつて兎族たちにされてきたことを知れば絶対に嫌になる。
(そうだ、アフィーテの僕は汚い)
おそるおそるバシレウスに視線を向けた。何を言われてもいいように覚悟を決め、じっと見つめる。するとリトスの視線から逃れるように金色の目が逸れた。浮かんでいる何ともいえない表情に「やっぱり」とリトスが眉を下げる。
なおも視線を逸らしたままのバシレウスに「おいおい、まさか本当に初恋じゃないだろうな」とクシフォスが呆れ顔になった。
「初恋じゃない! いや、恋をしたことはあったが……こういうのが恋というなら、初恋かもしれない」
「……まさか本当に? 未来の長が二十歳もとうに過ぎてから初恋?」
「う、うるさい! 一目惚れなんだ、仕方ないだろう! それに、綺麗な紺碧の目で見られるとおかしなことを口走りそうでどうしようもないんだ。甘いいい匂いもするし、匂いを嗅ぐと自分を見失いそうになるというか……あぁ、くそっ」
「やれやれ、我が弟は急に口が悪くなるな」
笑いながらもクシフォスの瞳は優しくバシレウスを見ている。
「ま、半分はわたしと同じ血を引いているんだ。多少匂いを嗅ぎわけることができても不思議じゃない。それにリトスの匂いはアスピダにもしっかり着くほど強い。本能が刺激されても不思議じゃないさ」
バシレウスが複雑そうな表情を浮かべるなか、腰を屈めたクシフォスがリトスの顔を覗き込んだ。
「さてリトス、もう一度確認しよう。きみはバシレウスの花嫁に選ばれた。だけど僕としては無理強いするつもりはない。きみは僕の可愛いお世話係だからね。できれば愛すべき弟の花嫁になってほしいと思ってはいるけど、どうしても嫌だというならこのまま連れて帰ろう」
「クシフォス……!」
「バシレウスは黙ってて」
「……っ」
唇を噛むバシレウスの様子に、リトスは胸がトクンと高鳴るのを感じた。
(本当に、僕のことを花嫁にと願ってくれているんだろうか)
月の宴の決まりで仕方なくではなく、本当に望まれているとしたら……そう思うだけで少しずつ鼓動が早まっていく。
(……でも、僕はアフィーテだ)
どうしてもそれが頭から離れない。それに過去のことを知られるのも怖い。揺れるリトスにクシフォスが「それなら、こうしようか」と提案した。
「一旦、僕の屋敷に戻ろう。事前に何も伝えなかった僕にも責任がある。屋敷に戻って、しばらくじっくり考えればいい」
「クシフォス、」
「おっと、ここで急ぐのは悪手だよ。初恋の君と無事に初夜を迎えたいのなら、僕の言うとおりにすることだ」
初夜という言葉にバシレウスは顔をしかめ、しばらくしてリトスの頬もうっすらと赤くなった。
同時にますます困惑した。どういう状況かわからず、なぜ自分が花嫁候補になり、こうして部屋に連れて来られたのかもわからない。
「リトス」
名前を呼ばれてハッとした。目の前にいるバシレウスを見て「ルヴィニは」とつぶやいたが、再び「リトス」と名前を呼ばれて口をつぐむ。
「リトス、どうか俺の花嫁になってほしい」
「……それは、」
そんなことできるはずがない。そもそも狼族が兎族を番に選ぶのは子を残すためだ。アフィーテの自分は劣勢種で子を孕むことは難しい。昨夜そう説明したはずなのに、どうして「花嫁になってほしい」なんて言うのだろうか。
(それに、蒼灰の君の花嫁候補はルヴィニだ)
選ばれなかったルヴィニはどうなってしまうのだろう。故郷にいる両親も残念がるに違いない。
リトスは自分のことよりも家族のことが気になって仕方がなかった。全部自分のせいだと目頭が熱くなる。
「リトス、俺の話を聞いてくれ」
「僕は、狼族の番にはなれません」
「リトス、」
「番になったら駄目なんです。アフィーテだから、きっと子どもはできないから、」
「花嫁は子が生まれなくても一生大事にされる」
それはリトスも知っている。しかし、大事にされるのは新しい花嫁を迎えれば済むからだ。名家の狼族なら何人の花嫁を迎えても、その家族ごと養うことができる。
(バシレウス様は、きっとすぐに新しい花嫁を迎えるだろう)
そう思うと胸が苦しくて仕方なかった。自分は花嫁になれないとわかっているのに、いま肩に触れている手が別の兎族にも優しく触れるのだと思うだけで胸が苦しくなる。矛盾した気持ちにリトスの目からぽろりと涙がこぼれた。
「リトス、泣かないでくれ。……もしかして、泣くほど俺の花嫁になるのは嫌なのか?」
そんなことは絶対にない。そう思っていてもリトスには答えることができなかった。これはただの憧れで、そんな気持ちを抱くのは間違っている。
(アフィーテの僕が狼族に憧れるなんて、そんなの駄目に決まってる)
しかも相手は名家中の名家、狼族の長の息子だ。アフィーテが近づいていい相手ではない。
リトスは唇を噛み締めた。これ以上余計なことを考えたら、また涙が出てしまいそうだ。それではますます困らせてしまう。
グッと唇を噛み、膝に乗せた手にググッと力を入れる。何とかしなくてはと思っていると、扉が開いてクシフォスが入ってきた。
「こら、バシレウス。大事な花嫁を泣かせるんじゃない」
「……クシフォス」
「まったく、これだからろくに恋をしたことのない雄は駄目だというんだ」
「クシフォス!」
バシレウスの声にクシフォスが麗しい笑みを浮かべた。「図星か」と告げた口元はニヤニヤと笑っている。
俯き加減のリトスに「リトス」とクシフォスが声をかけた。バシレウスとはまた違う優しい手に肩を撫でられ、目尻が少しだけ濡れたのがわかった。
「リトス、きみは今夜蒼灰の君の花嫁になった。バシレウスの番になったんだ」
「……でも、僕は花嫁候補じゃありません」
「たしかに兎族が選んだ候補の中には入っていなかった。でも、きみは僕が選んだ特別な花嫁候補だ」
「特別な花嫁……」
視線を上げると、にこりと微笑んだクシフォスが「僕は特別な花嫁を選ぶことができるんだよ」と口にした。
「そういえば、僕がどうして長と同じくらい高い地位にいるのか教えてなかったね」
「……はい」
「僕には狼族の子を孕む可能性が高い兎族を嗅ぎわける力がある。月の宴ではこの力を使って匂いを嗅ぎわけ、相性のよい狼族に娶せるのが僕の役目なんだ」
言われて「そういえば」と思い出した。初めて会ったとき「いい匂いがする」と言われた。そのあと「僕がずっと探していた匂いだ」とも言われた。
「それじゃ、あのとき匂いがすると言ったのは……」
「きみから狼族の子を孕む匂いがしたんだ」
「それは変です。僕は劣勢種で、アフィーテは子を孕みにくいんです」
「それはどうかな。兎族同士のことはわからないけど、少なくとも狼族の子は十分孕むと思うよ。まぁ、リトスが僕の力を信じてくれたらの話だけど」
「僕のこと、疑うかい?」と麗しい顔に覗き込まれ、慌ててフルフルと頭を振った。自分を騙したところで狼族の誰も得をしないし騙す理由もない。
「僕が持つ嗅ぎわける力は絶対に間違わない。だから長と同じ高い地位にある。そんな僕が特別に選ぶ花嫁候補は狼族にとって最上の花嫁だ。だから狼族はざわついた。みんなきみがほしくて仕方がなかったのさ」
「僕を……」
まさかと思ったものの、あの場で感じた熱い視線にリトスの背中がぞわりとした。
「今回の決定に狼族が異議を唱えることはない。たとえ兎族が何か言ってきても覆ることもない。それが月の宴の決まりだ」
クシフォスの力強い言葉に、それでもリトスは不安を感じていた。
「あの……バシレウス様は本当にそれでいいんですか?」
いくら月の宴の決まりだと言っても、バシレウスが本当にリトスを花嫁にしたいのかわからない。それが役目だと思っていても、アフィーテがどんな存在か詳しく知れば嫌になるはずだ。何よりかつて兎族たちにされてきたことを知れば絶対に嫌になる。
(そうだ、アフィーテの僕は汚い)
おそるおそるバシレウスに視線を向けた。何を言われてもいいように覚悟を決め、じっと見つめる。するとリトスの視線から逃れるように金色の目が逸れた。浮かんでいる何ともいえない表情に「やっぱり」とリトスが眉を下げる。
なおも視線を逸らしたままのバシレウスに「おいおい、まさか本当に初恋じゃないだろうな」とクシフォスが呆れ顔になった。
「初恋じゃない! いや、恋をしたことはあったが……こういうのが恋というなら、初恋かもしれない」
「……まさか本当に? 未来の長が二十歳もとうに過ぎてから初恋?」
「う、うるさい! 一目惚れなんだ、仕方ないだろう! それに、綺麗な紺碧の目で見られるとおかしなことを口走りそうでどうしようもないんだ。甘いいい匂いもするし、匂いを嗅ぐと自分を見失いそうになるというか……あぁ、くそっ」
「やれやれ、我が弟は急に口が悪くなるな」
笑いながらもクシフォスの瞳は優しくバシレウスを見ている。
「ま、半分はわたしと同じ血を引いているんだ。多少匂いを嗅ぎわけることができても不思議じゃない。それにリトスの匂いはアスピダにもしっかり着くほど強い。本能が刺激されても不思議じゃないさ」
バシレウスが複雑そうな表情を浮かべるなか、腰を屈めたクシフォスがリトスの顔を覗き込んだ。
「さてリトス、もう一度確認しよう。きみはバシレウスの花嫁に選ばれた。だけど僕としては無理強いするつもりはない。きみは僕の可愛いお世話係だからね。できれば愛すべき弟の花嫁になってほしいと思ってはいるけど、どうしても嫌だというならこのまま連れて帰ろう」
「クシフォス……!」
「バシレウスは黙ってて」
「……っ」
唇を噛むバシレウスの様子に、リトスは胸がトクンと高鳴るのを感じた。
(本当に、僕のことを花嫁にと願ってくれているんだろうか)
月の宴の決まりで仕方なくではなく、本当に望まれているとしたら……そう思うだけで少しずつ鼓動が早まっていく。
(……でも、僕はアフィーテだ)
どうしてもそれが頭から離れない。それに過去のことを知られるのも怖い。揺れるリトスにクシフォスが「それなら、こうしようか」と提案した。
「一旦、僕の屋敷に戻ろう。事前に何も伝えなかった僕にも責任がある。屋敷に戻って、しばらくじっくり考えればいい」
「クシフォス、」
「おっと、ここで急ぐのは悪手だよ。初恋の君と無事に初夜を迎えたいのなら、僕の言うとおりにすることだ」
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