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第5章 この腕に帰るまで
150 忽然と消えた
しおりを挟む僕――アーヴァイン・ヘンリー・ホールは思う。
アールネスト王国がここまで平和になったのは、国を取り囲む大結界があるからこそだ。
いつの時代の誰が造り上げたか分からないが、多くの迷宮を抱えた土地に生まれた王国は、同時に、多くの魔法石を産出する国となっていた。その石を巡って、狂暴な魔物や有象無象の盗賊、他国の兵からもアールネストは狙われ続けて来た。
僕の祖父、ヘンリー・ジョーセフ・ホールが大結界の基礎を構築し、実質この僕が技術を受け継ぎ完成させるまで、長く、アールネストの民は命の危険に晒され続けて来た。
どれだけ頑強な結界を築いても、半永久的に保ち続ける物などありはしない。
強い風雨によって山や川の形が変り、周辺に住む村や街の形も時と共に変化していく。魔物の侵入は阻止しても、渡りをする獣や鳥の動きは妨げないよう……また、他国と完全に交流を断っているわけではないのだから、出入り口となる部分も必要だ。
そうなれば自然と、時と共に綻びが出来ていく。だからこそ年に一度、七夜かけて再構築するのだ。
人が扱うには大きすぎる力を、三人の術者で分担して術を施す。
盾となるメインの結界。結界を破壊しようとするものに対する反撃の仕掛け。その外側に、結界の存在に気づかせないようにする幻視の術を。
そうした役割の違う防御を、土地の地形や周辺に住む人や獣の状況に合わせて細かく調整し、造り上げる。
一夜だけでも術者の負担は大きく、七夜が過ぎたころには半月以上、ゆっくり静養する必要があるほど体力気力ともに消耗する。
――だというのに。
今年……魔法院に所属する、ストルアン・バリー・ダウセットは最初から、力の半分も出していないのでは……というほどにいい加減な態度で臨んでいた。
能力はあるのだ。
おそらくこの国では一、二を争うほどに高い魔力と技術を持っている。
そのストルアンが事前に打ち合わせしていた力を出しきらずにいるため、負担は僕と王子の近衛騎士も務めるナジーム・アトキン・ミレンに重くかかっていた。
一度諫めはしたが、本人は歳を理由にのらりくらりとかわしている。
いくら能力が高いとはいえ、もうこれ以上、奴に国の護りを任せていられない。そう思いはしても代わりになる者がいない以上、ストルアンをこの場に連れ出さなければならない。
少なくとも、今は。
「アーヴァイン、堪えろよ」
朝日が昇り始める中、六夜目を締める呪文の詠唱を終えた僕に、ナジームが囁いた。
目の前にはまだ余裕のある顔のストルアンがいる。今日も力の全てを出さず、片手間に仕事を終えたとでも言うような顔で、儀式の場を後にして行く。
僕は祭壇のに手をつき、ぐらつく身体を支えながらストルアンの背を睨みつけた。
「奴のやりようは全てルーファス王子に……しいては、今こちらに向かっているローランド国王陛下にも報告している。奴に来年は無い」
「当然だ……あんな奴に、もう……国の護りは……任せられない」
肩で呼吸を繰り返す。
魔法酔いの頭痛がひどい。
普段なら、僕専属の治癒魔法師であるジャスパーが、すぐに魔力の巡りの調整を施して、魔法酔いを軽減させるのだが、彼は今このヘイストンにいない。
命を落とす可能性もある流行り病にかかった、幼い娘の元に帰した。
代わりの魔法師はいるが、ジャスパーほどの腕は無い。
昨日の朝、リクがその身体を張って僕を癒さなければ、僕はこの場に立つことすら叶わなかっただろう。
「残り一夜だ。それだけ乗り越えたなら、後始末は全て俺たちがやる」
以前にも言ったように、ナジームは改めて僕に言葉をかけ、軽く肩を叩いた。
怒りは簡単に収まらない。
だからと言って今、自分にできることは魔力の調整を行い、明日の最終夜に挑み大結界を完成させる。ただ、それだけだ。
「ほら、愛し子が迎えに来たぞ」
ナジームの声で顔を上げた。
六夜目を終え、慌ただしく人が行きかう中に、一目見ただけでもわかる黒髪の少年が駆け寄ってくる姿が見えた。
「リク……」
視線が合い、たまらなく愛しい名を唇に乗せる。
儀式を終えざわつく人々の中では、僕の囁き声など届かなかったはずだ。それでも、リクは軽く手を上げ、心からほっとしたような――嬉しくてたまらないという笑顔を僕に向けた。
今日も僕の大切な子が、無事に帰って来た。
ただそれだけで、あれほど苦しかった魔法酔いの痛みすら、癒えていくような気がする。ナジームが笑うように言う。
「あの愛し子以上の薬は無いみたいだな。ゆっくり癒してもらえよ」
「ああ」
頷き、両脚に力を入れて背筋を伸ばす。
リクのそばにいるのは、以前にも見た貴族の子だろうか。妙に険しい顔で護衛のザックがリクのすぐ後ろについている。その違和感――。
「ん?」
マークとクリフォードの姿が見えないが、何かあったのだろうか……。
そう思った時、リクの後方――儀式の場の出入り口付近で叫び声が上がった。
錯乱したかのように喚く騒ぎに気づいたザックが、反射的に後ろを向き、リクを背に守った。その姿が視界の隅に映る。
僕もつられたように騒ぎの元へ視線を移す。
直ぐに近くの兵士に取り押さえられるのを見て、僕はリクの方へと視線を戻した。
「……リク?」
ほんの数歩先にいた、リクの姿が、無い。
たった今。
たった今僕に手を振り、笑みを向けていた。
リクが……忽然と、姿を消していた。
僕は我が目を疑う。
すぐそばに立っていたナジームが「どうした?」と、声をかけ視線の先に目を移す。そして呆けたような声をあげた。
「あれ……今、そこに愛し子が来ていなかったか?」
目を離したのは、ほんの一つか二つ、瞬きした間。
ひと呼吸の間だけ。
一瞬、と呼んでいいほどの、短い時間……。
それなのに、人込みの中にいても一目で分かる、黒髪の青年の姿が……無い。
緊急の危険は無いと判断したのか、ザックがこちら側へと向き直る。そして目の前に自分が守るべき主の姿が無いことに気づき、顔色を失った。
「リク様!」
叫ぶザックの声と同時に、僕は幻視を破り、探索の魔法を繰り出していた。
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