レーヌ・ルーヴと密約の王冠

若島まつ

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 オルフィニナがいない。――と気づいたスリーズは泣き出さんばかりの勢いでクインに取り縋った。
「どどどうしましょう!ニナさまがいらっしゃいません!」
「騒ぐな」
 クインは冷静だ。
 オルフィニナが化粧室から姿を消した原因として考えられるのは、中で敵襲があったか、自ら出口ではない場所から出ていったかだ。前者であれば、オルフィニナは確実に合図をする。それがないから、敵襲ではないと考えていい。であれば、後者だ。そしてその理由は、クインには何となく読めている。
「おおかた、設備でも観察してるんだろう」
 クインは小さく息をついた。物心つく前から誰よりも近くにいたクインには、彼女の考えはわかっている。しかし、何だか嫌な胸騒ぎがする。
「化粧室の中に作業用の通路や階段はあったか」
「あったと思います。小さい扉が…」
 と、ここまで言ってスリーズは顔面を蒼白にした。
「あいつのことだから見たいものを見てすぐに戻るだろう。あんたは先に戻っていい」
「わ、わたしが通路から追いかけます」
「あんたは戻れ。五分で戻らなければルキウス・アストルに報せろ」
 クインの厳しい口調に、スリーズはこくこくと頷いた。
「あの、多分、もし設備をご覧になるなら、北側の従業員用の通路かと…」
「助かる」
 クインはスリーズの頭を幼い子供にするようにポンポンと撫で、化粧室へ入っていった。幸い、他に人はいない。高貴な貴婦人用の化粧室だから、その他一般の婦人たちは出入りできない場所だ。
 オルフィニナが王太子妃になった利点を、クインは初めて見出した。

 言葉を発することを忘れた。
 オルフィニナにとっては珍しいことだ。目の前の男が本物かどうかを考えるために、脳が激しく働いている。
 仰々しい白の軍服の上に竜の紋章が銀糸で縫い取られた深緑のマントを翻すその男は、オルフィニナの記憶にあるイェルク・アドラーの声を発した。
「きれいになったな」
 イェルクは薄い唇をゆったりと引き伸ばして優しく微笑み、両手を小さく広げた。幼い子がその腕に飛び込んでくるのを待つような仕草だ。
 オルフィニナは動かなかった。おおよそ十年ぶりの兄との再会は、それを嬉しく思う感情とは別の領域で、もはや歓迎すべきものではなくなってしまった。
「なぜいる」
 とは訊かない。イェルクが本物だと認識した時から、もうわかっている。
「頭が高い。ゾルガ将軍」
 権高な調子で言った。イェルクの表情は変わらない。
「これは、失礼した。オルフィニナ王太子妃殿下・・・・・・
「イェルク・ゾルガ」
 跪き、オルフィニナの手を取ろうとしたイェルクを、嘲笑するような声色で拒絶した。
「エマンシュナの王太子妃としてヴァレル大公の賓客を歓迎するべきだが、アミラ女王としては叛逆に加担するお前を捕らえなければならないかな」
「わたしが叛逆者なら、そうだろう」
 イェルクの表情は相変わらず穏やかだ。しかし、オルフィニナはその淡い灰色の目の奥に鈍い輝きを見た。
 敵意。――
 と認識した瞬間、胃がぐにゃりと歪んだ。兄と慕っていた男から初めて向けられる敵意に、想定外のショックを受けている自分がいる。
「女王から王位を簒奪しようとするのが、叛逆ではないというのか」
「お前は女王と認められていない」
「お前とお友達のフレデガルにか?ゾルガ将軍・・・・・
「もちろん、他にもいるさ。多くのものが歓迎しない」
「それはわたしの聞いている話とは違うな。庶民の支持で言えばわたしの方に分がある」
 多少、ハッタリだ。しかしイェルクが僅かばかり苦々しげに唇を結んだのを、オルフィニナは見た。あながちフレデガル派の見解も外れていないのだろう。
「だが、ニナ」
 イェルクが言った。この期に及んで殿下とも陛下とも呼ばないつもりだ。主君や王族として扱うつもりはないと、その意志を示している。
「イゾルフとミリセント前王妃はお前のそばにいないだろう」
「…なんと、浅ましい男になったものだ。弟とその母の命を盾にわたしを脅そうなど――」
 オルフィニナは奥歯を噛んだ。失望と情けなさで胸が詰まる。
「お前にはがっかりした。ルッツ・アドラーの息子ともあろうものが、いつからそんな卑怯な男になった」
「何と言われようが、目的のためには構わない。だが、これだけは覚えておけ。お前がわたしの最も大切な存在であることに変わりはない。命を無駄にしないで欲しいだけだ。お前がこの政争で命を落としたら、お前を慕うものは一体どうなる?」
「わたしが今王位を棄てれば、それこそ命の無駄になる」
「相変わらず、高潔だな。ニナ」
 イェルクが優しく目を細めた。家族を思う慈しみが、その目にある。オルフィニナの心を傷つけるには、十分過ぎるほどだ。
「そういう者たちの背を見て育った」
「それなら尚更、賢明な判断をしろ。これは、イゾルフの安全と、王国と、何よりお前のためだ。わたしと来い、ニナ」
 イェルクが右手を差し出した。
 オルフィニナはなおも動かない。その代わりに、頭の中は忙しなく回転している。
 万が一武力行使を余儀なくされた場合に、果たして一人でこの男を制圧できるか。
 今頃クインが既に動き出していることは確実だ。化粧室に入ってから、あまりに時間が経っている。この場所も間も無く分かるだろう。が、それまで時間を引き延ばさなければならない。
 だが相手はイェルクだ。オルフィニナの兵法は全てイェルクが教えたものだ。攻撃を仕掛ければ読まれる。
 ただ一つ、イェルクが読めないとすれば、オルフィニナがもはやイェルクに従順な妹ではないという一事だろう。
「イェルク・ゾルガ。お前はなぜフレデガルを王にしたい。あれが国王になればエマンシュナとの戦争が始まるとわかっているだろう。男たちだけじゃない。女も、子供たちも大勢死ぬことになるんだぞ。悪魔に魂を売ってでも手に入れたい物は一体何だ。出世か?たかだか、爵位などという古臭い身分を手に入れるだけのために、国と家族を裏切るのか。身勝手で、薄汚い、己の小さな野心のために」
 イェルクの顔から表情が消えた。――と思った一瞬のことだった。オルフィニナの身体はその腕の中にある。
 振り解けないのは、力のせいだけではない。
「全部お前のためだ、ニナ。わたしがお前を守ると誓う。女王ではなく、オルフィニナとしてのお前を」
 オルフィニナは淡い灰色の目を見上げたまま、動けなくなった。今目にしている男の顔は、かつての兄のものではなかった。胸に溢れたのは、激しい怒りと、失望と、自己嫌悪だった。
 爪が手のひらに食い込むほど拳を握りしめた。――その時だ。
「ニナ!」
 背後から聞こえた声は、夫のものだった。
 腕を後ろに引かれると同時に、イェルクの腕が離れた。その背後に、剣先を頸に向けるクインの姿がある。オルフィニナがルキウスの姿をその目に認めた瞬間、オルフィニナはルキウスの腕に導かれるまま、その中に身体ごと収まった。
「俺の妻に、気安く触るな」
「俺の女王に気安く触るな」
 ルキウスとクインが同時に言った。二人とも猛犬のように怒っている。いつものオルフィニナなら息の合った二人に双子みたいだなどと軽口を叩くところだが、生憎そのような余裕はない。
「ステファン・ルキウス王太子殿下。膝を折らずご尊顔を拝す無礼を許されたい。弟に首を狙われているもので」
 イェルクは爽やかに笑った。
「弟と似ていないな。クイン・アドラーは気に食わないが、君と比べると可愛く思えてくる」
 ルキウスの声は憎しみに満ちている。
「仲良くしてくださっているようで、兄として感謝申し上げます。王太子殿下」
「誰が兄だ。この売国奴が」
 クインが牙を剥くと、イェルクは柔らかく笑った。まるで普通の兄弟の会話をするような軽快さだ。
「相変わらず口が悪いなぁ」
「今ここでこいつを殺せと命じろ、ニナ」
 オルフィニナはルキウスの腕に包まれたまま、小さく息をついた。いつかその日が来るとしても、それは今ではない。今のイェルクは、王族が招いた賓客だ。
「…剣を下ろして、クイン」
 クインが舌を打って剣を収めると、イェルクはルキウスに向かって恭しく手を胸に当てて敬礼をした。
「王太子殿下、王太子妃殿下。話したいことは山ほどありますが、この場では相応しくないようです。また日を改めましょう」
「俺は話すことはない」
「いいえ。必要になるはずです」
 イェルクはルキウスに笑いかけると、振り返って弟の肩をポンと叩いた。クインは反射的にイェルクの腕を掴もうと手を翻した。しかしイェルクは目にも止まらぬ速さでクインの手首を握り、ミシミシと骨が軋むほどに捻り上げた。
「チッ、薄汚い裏切り者」
「わたしは誰を裏切ったこともない。変わったとすれば、お前たちだ。あまりいい影響を受けているとは――」
 イェルクは犬歯を覗かせて威嚇するルキウスと、表情を殺してその腕の中に身を預けるオルフィニナを一瞥した。どこか、軽蔑するような眼差しだ。
「――言えないな」
「‘ニナがあいつの言いなりになってるとでも言いてぇのかよ’」
 クインは苛立ちのあまり、マルス語で話すことを忘れた。ルキウスが不明な言語を不快に思おうが、もはや関係ない。
「‘少なくとも、ニナは自分から女王になろうなどしない’」
 クインが腕を引くと同時に、イェルクもその手を離した。
「‘甘く見られたものだ’」
 オルフィニナが言った。
「会話は済んだな」
 ルキウスは冷淡に言うとオルフィニナの肩を抱き寄せ、イェルクに背を向けた。オルフィニナも黙ってそれに従い、初めてルキウスに対して自ら弱い部分を晒した。
「…帰りたい」
「いいよ。帰ろう」
 オルフィニナはこの時、無意識のうちにルキウスと暮らすレグルス城を自分の帰る場所と定めていることに気付いていない。
 ルキウスはオルフィニナを力一杯抱きしめたい衝動に駆られた。が、今は早く馬車に戻る方を優先すべきだ。いつもなら歩きにくいなどと言ってさっさと腕を振り解くだろうに、今ばかりは大人しく肩を抱かれたまま隣を歩いている。顔はまっすぐ前を見据えているが、ルキウスには彼女が今にも泣き出しそうに見えた。
 抱きしめる代わりに頭ひとつ分低い位置にあるオルフィニナの髪にキスをして、ルキウスはいつになく傷ついた様子の彼女を愛しんだ。
 ただひとつ、その原因があのイェルク・ゾルガであるということだけは叫び出したくなるほど気に入らない。
 よくも我が妻を――。という思いとは少し違う。オルフィニナの人生における‘初めての男’が、いまだにその言動によってオルフィニナの心に傷を付けられるほど大きな存在であるというその事実が、ルキウスの憎悪を深いものにした。
(あの男を消せば、気が晴れるか)
 いや、だめだ。それではオルフィニナの心からイェルク・ゾルガを追い出すことはできない。
 オルフィニナの気持ちを自分に向けるには、自らに向けて行動するしかないのだ。
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