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53 かわりゆくもの - un fluide -

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 ルキウスは目蓋の裏に感じる陽光を眩しく感じ、目を開けた。腕が痺れているのは、オルフィニナがそこに頭を乗せて寝入っているからだ。
 腕の痺れをこれほどの至福に感じることがあるだろうか。
 窓の向こうから、葉ずれの音が聞こえてくる。今日はやや風が強いらしい。しかし、静まり返った寝室の中には、自分に身体を預けて深く安眠するオルフィニナの穏やかな寝息と、ジャスミンに似たオルフィニナの匂いと、ぴったりくっついた素肌を通じて感じる柔らかな鼓動だけがある。
 ルキウスはごろりと身体を横に向けてオルフィニナを抱きしめ、額に唇で触れた。オルフィニナはわずかに目蓋を震わせたが、長く赤いまつ毛は伏せられ、相変わらず目蓋の下にその淡い影を伸ばしている。
「…君が好きだ、ニナ」
 まるで枝から葉が落ちるように言葉が唇からこぼれた。
 ひどく狼狽えてしまった自分が滑稽に思えた。意図せず言葉を発してしまったのは、寝起きの頭が正常に働いていなかったからだ。ともあれ、当のオルフィニナの耳に入っていないのだから発したことにはならない。そのように処理しようと思った。
 それなのに、乱された心は整わないまま、身体のどこかで絡まり、熱を持って、燻っている。
 出会った時は、身体さえ手に入れれば満ち足りるものだと思っていた。
 白一色だった世界に陽光をもたらした女の身体を開き、快楽を与え、肉体の交歓によって得る高揚でもってこの女を征服したことになるだろうと、夢想していた。
 それなのに、現実はまったく違う。
 互いに何も身につけないまま獣のように交わり、悦楽の果てを共に見た今でさえ、オルフィニナ・ディートリケ・ドレクセンという女を手に入れた気がしない。
 彼女とのことは、初めから何もかもが違っていた。彼女の自由を手に入れたら今度は身体を、身体を手に入れたら彼女の夫という立場を、夫となった今は、心を欲している。
 欲望に際限がない。
 この渇望を、何と呼んだらいいのかはもう分かっている。
 引き寄せられるように手が伸び、つ、と白い頬を撫でた。
 不思議だ。あれほど普段から気を張っているオルフィニナが、裸のまま、顔に触れられても深く眠っている。
 彼女の内側に入り込めたという証だろうか。それとも昨夜の行為で疲れ切っているのかもしれない。
 昨日は互いに朝から多忙を極め、遅い時間に床に入った時には思考も鈍るほど疲労していた。そういう折に珍しくオルフィニナが労わるような仕草でルキウスの髪を撫でたせいで、ルキウスの欲望に火がついたのだ。結局、空が明るくなるまで身体を解放してやることができなかった。
 だが、オルフィニナは自分から誘うようなことがなくてもルキウスとの行為自体はやぶさかではないはずだ。そうでなければ、あんなに可愛い反応は見せてくれないだろう。甘い息遣いで、名を呼ぶことも。――
 とつ、と心臓が大きく動いた。全く、無様なことだ。オルフィニナの内側に触れた感覚を肌が思い出すだけで、身体の内側が締め上げられるように痛くなる。何も知らず、美しい寝顔のまま胸を上下させる女が、どことなく恨めしくもある。
 どこまでしたら目を覚ますか試したくなったのは、ほんの出来心だ。
 ルキウスがそっとオルフィニナの首の下からそっと腕を抜いても、目を覚まさない。ルキウスは毛布の中に潜り込み、オルフィニナに覆いかぶさって首筋にキスをし、強く吸い付いて印を残した。
「んん…」
 オルフィニナが小さく唸って首を横に向けた。目蓋はまだ閉じられたままだ。ルキウスはそっと胸に手を伸ばし、柔らかい丘を這って先端の実を摘んだ。
 オルフィニナは依然として眠りの中にいる。
 次第に硬く立ち上がる先端に唇で柔らかく触れ、ペロリと舌を這わせた。オルフィニナの肌がひくりと震え、小さな呻きが寝息に混じる。
(あ。まずい…)
 と思ったときにはもう遅かった。脚の間が情けないほどに硬く立ち上がっている。オルフィニナの言う通り、まるで獣だ。
 ルキウスは自分の唾液で濡れた胸から顔を上げると、肉置きの薄い腹を唇で辿り、臍の下にキスをして、柔らかい腿をゆっくりと開いてその間に吸い付いた。
 濡れている。昨日この奥に放ったものが残っているのだ。オルフィニナの匂いの中に、自分の匂いが混じっている。下劣な情欲だ。血流の中を沸くような興奮が駆け抜けていく。中心の突起を舌でつつくと、オルフィニナが身悶えするように身を捩った。
 頭上で聞こえるゆっくりとした息遣いが、熱を帯びていく。
「ん…、う」
 閉じようとした脚を、ルキウスはこじ開け、蜜の滴るそこを強く吸った。
 びく!と腰が跳ねた瞬間、オルフィニナの手が頭へ伸びてきた。
「んぁっ…!あ、ちょっと、何してる――」
「ふ。起きた」
 ルキウスは閉じようとした脚を強く開いて舌を捩じ込み、収縮を始めた内部に指を挿し入れた。
「んんっ」
 容易く昇り詰めたオルフィニナが身体を起こすよりも速く、ルキウスは両腕をベッドに押し付けて唇を塞ぎ、もはや自制もできなくなった肉体を、彼女の中心に擦り付けた。
「ねえ、入れさせて。我慢できなくなった」
「…っ、どうかしてる」
 夜が明けるまで散々したくせに。と続くのだろう。そしてこれは、拒絶の言葉ではない。
 ルキウスはいつものように笑みを浮かべる余裕もなく、どうしようもなく熱く立ち上がった自分の一部を、オルフィニナの奥深くに突き立てた。
「あ――!」
「起きてくれてよかったよ。もう少し遅かったら意識の無い相手に下劣な真似をするところだった」
「何を言って――んぅ!」
 いとも簡単に奥を突かれて、オルフィニナは悲鳴を飲み込んだ。突然のことにまだ頭が混乱しているにもかかわらず、身体はルキウスの律動に快楽を得、もっと奥へと誘うように収縮を始めている。
「はっ、は…、あっ――、この…けだもの」
「君に言われると興奮する」
 オルフィニナは激しくなる衝撃に悲鳴を上げ、身体の内側から湧き上がる衝動に意識を奪われ始めた。ルキウスの腕にしがみついた指が皮膚に食い込んで、ルキウスの肌に傷を作る。
 歓喜の頂点に向けてオルフィニナの身体が緊張を始めた時、ルキウスは呼吸を荒くしながら身体を離した。無自覚だろう。オルフィニナが睨めつけるように熱に蕩けた蜜色の目を向けてくる。
「かわいいな。そんなに物欲しそうにされるとひどくしそうだ」
「…っ、してない」
 ルキウスは吐息で笑い、力の抜けたオルフィニナの肩にキスをして身体をくるりと俯せにし、背後からその裸体を腕に閉じ込めて熱く濡れた中心部に指を這わせ、耐えかねたように甘い声を上げたオルフィニナの内部に押し入った。
「あぁっ…!」
「は…ッ、ああ。ニナ」
 気持ちいい。彼女の中が熱く潤って強い力を持ち、ルキウスの全てを奪うように誘惑してくる。理性も思考も溶け、もはや王国のことなど頭から消えてしまう。
(だめだ。知られては)
 これこそオルフィニナの忌避する事象だ。彼女の中では、常に二人のあいだに二つの王国がある。だが、自分はどうだ。最初から密約など関係なく、ただオルフィニナを手に入れたかっただけではないのか。オルフィニナを心が欲していると自覚するたび、この問答を心の中で繰り返している。
「くそ…」
 ルキウスは凶暴な焦燥感に任せてオルフィニナの白い背に吸い付き、いくつも自分の痕跡を残して、彼女の深いところに衝撃を与え続けた。
 今は身体を自分のものにするだけで満足するほかない。だが、いつかオルフィニナが他の男と恋に落ち、愛を捧げるようなことがあったとしたら。――
 ルキウスは最悪の考えを振り払うようにオルフィニナの膝を立たせて奥を攻め立て、甘美な悲鳴に耳をくすぐられながら、激しく収縮する彼女の中に欲望を解き放った。
 オルフィニナが膝から崩れ落ちるようにベッドに突っ伏した後、ルキウスは優しく汗の浮いた背中に啄むようなキスを何度もした。
「寝込みを襲うなんて」
 息を荒くしたオルフィニナが、恨めしそうにルキウスを振り返った。目にはまだ熱が残っている。
「よく言うよ。俺に好き勝手されてめちゃくちゃになってたくせに」
 ルキウスは殊更意地の悪い顔でにやりと笑い、悔しそうに眉を寄せたオルフィニナの髪をよけて、首の後ろにキスをした。
 そうだ。乱れればいい。他の誰でもなく、自分にだけその姿を見せてくれれば、それでいい。今はそれで満足すべきなのだ。

 ルキウスの得体の知れない焦燥は、数日後に悪い予感として現実となる。
 ルースに駐屯していたルキウスの軍がジギ率いるベルンシュタインと合流し、ギエリへ発したと報告を受けた日のことだ。
 ‘ヴァレル・アストル大公の賓客’をもてなすために、王国屈指の歌劇団が王立劇場で公演を行うことになった。政敵とは言え、大公が国賓として招いたからには、観劇に王太子とその妃が出席しないわけにはいかない。
 当然、ルキウスとオルフィニナもアストレンヌの中心地にある王立劇場へと足を運んだ。護衛は多い。警備兵はバルタザルとクインが取り仕切り、常に三十人ほどが周囲を固めている。
 ところが、警備兵は劇場内に入ることができない。また、騎士と従者の同伴は許されているものの、客席への立ち入りは許されず、主人の枡席の扉の外に控えることになっている。
「何かあったらすぐに呼べ」
 クインは厳しい顔でオルフィニナに耳打ちした。
 当初若い王太子夫妻のために用意されたのは、舞台から真正面に位置する王家の大きな枡席だったが、ルキウスが新妻と二人きりでゆっくり見たいと申し出たために、その右隣の二番目に格式高い席へ変更された。王家の枡席には国王レオニードと婚家から里帰りしている二人の娘たちが座り、その左隣の枡席にヴァレル・アストル大公とその賓客が着座している。
 演目は、古代エメネケア帝国の時代に実在した英雄ウゼルの伝説を戯曲化したものだ。ただの羊飼いだった青年ウゼルが泉の怪物の巣から王妃と王女を救い出して王の右腕となり、怪物たちを従えて侵攻してきた蛮族を撃退して帝国一の英雄と崇められるようになり、王女を妻に迎え、やがてその栄光に満ちた天寿を全うするという、典型的な昔話と言っていい。
 ルキウスの見たところ、オルフィニナは意外にも観劇をそれなりに楽しんでいるようだった。
「はは、今の歌詞はよかった。皮肉が効いてる」
 などと感想を言って、しばしばルキウスに笑いかけた。
 このまま何事もなく観劇を終え、最後にヴァレル・アストルとその客人に型通りの挨拶をして、あわよくば探りを入れられるだろうと思っていた。
 ――が、それは幕間に起きた。
 オルフィニナは扉の外に控えていたクインとスリーズを伴って化粧室へ移動した。王国一の大劇場ともなればその設備も素晴らしいもので、王族の暮らす城と同程度の排水設備が備わっている。タイル張りのトイレの下には常に付近の川から引いた水が循環して流れており、地下深くに掘られた汚水用の排水管へと流れていく。
 エマンシュナに来た当初オルフィニナが感銘を受けたのは、こうした衛生的な設備の水準の高さだ。アミラではトイレの下に深く掘った穴に汚物を溜め、定期的に人がやってきて肥やしとして活用するべく穴を掃除していく以上の手段がない。
 常々この水道技術をアミラにも導入したいと考えているオルフィニナは、手水場の陶製のカランから出て流れていった水の行く先を追って、壁に這わされた陶の水管がどこに続いているのか観察するために、化粧室の奥にある従業員用の小さな扉を開き、そこにあった狭い階段から下の階まで下りた。
 化粧室の前で主人を待つスリーズとクインは、化粧室の天井にある仰々しいシャンデリアでも、エマンシュナ中部の名産である最高級のガラスタイルが一面に張られた見事な壁でもなく、排水管を追ってオルフィニナが階下へ下りてしまったことなど、知る由もない。
 幕が再び開くまでまだ三十分ほどはあるし、水管の形状や構造がなんとなく分かればすぐに戻るつもりだから、まあ大丈夫だろう。と言うのがオルフィニナの考えだった。
 小さな扉から外へ出、壁伝いに水管が地面に埋まったのを見届けたところで、水管を巡るオルフィニナの短い旅は終わった。
(なるほど。この下に下水道があるんだな)
 ふむ。とひとまず満足して、オルフィニナが足を再び劇場の扉へ向けた時だった。
 目の前に、知った男がいる。
「ニナ」
 長らく兄と慕っていた男が、目の前で微笑んだ。記憶に残っている顔と変わらない、優しく厳しい兄の笑顔だった。
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