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50 狩るもの、狩られるもの - des chasseurs, des proies -

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 この夜襲ってきた刺客は幸いにも、ベルンシュタインの同胞ではなかった。
 ベルンシュタインが真っ先に使われなかったのは、彼らがフレデガルを王として認めていないからだろう。もっとも、長であるルッツがオルフィニナを女王と認知している限りは、組織がオルフィニナの命を狙う可能性は低い。
 とは言え、ベルンシュタインだけが脅威たり得るわけではない。敵方についたイェルクの軍がどの程度訓練されているかわからないのだ。
 アストレンヌでの最初の夜にクインがしたことは、侵入経路の下見だった。城の構造に詳しくないフレデガルの配下が侵入に使うであろう場所と、土地勘のあるヴァレルの配下が使うであろう経路をそれぞれ想定し、毎夜欠かさず見回りをしていたのだ。そして今夜、現れた。
 暗闇の中、エデンが唸った。この瞬間にクインは地を蹴って後方へ飛び退き、目の前を横切った小さな閃光を躱した。襲撃者の剣がもう一度こちらを狙って来る。クインはこれも左へ避け、後退した。
 襲撃者の顔は見えない。同じように黒い布で顔を隠している。この襲撃者は、先に倒した二人よりは幾分か使えるようだ。だが、動きからしてこの男もベルンシュタイン、或いはイェルクが教育した暗殺者ではない。クインにとっては練習相手にもならない。
 クインは軽々と身を翻して剣をもう一度避け、更に後ろへ跳んだ。次の瞬間、襲撃者の剣が止まった。すぐ後ろの木に刺さったのだ。誘導されたことに気付かず、反射的に剣を抜こうとしたのが、襲撃者の過ちだった。既にクインの姿は目の前にない。襲撃者が次に対象の位置を把握するのは、上方からの激しい衝撃を顔面に受けた時だ。いつの間にこの男が木の上から降ってきたのか、見当もつかない。
 襲撃者が地面に崩れ落ちると同時にエデンが疾風のように跳躍して首元に噛み付いた。襲撃者は声にならない悲鳴を上げた。牙は皮膚を裂く寸前で止まっている。
「‘何人で来た’」
 クインはしゃがみ込んでその目を覗き込み、アミラ語で訊いた。
「‘三人’…」
 クインがエデンに目配せすると、エデンが牙を立て、皮膚を小さく裂いた。血が滲み、襲撃者が醜い声で叫ぶ。
「‘本当だ!三人で来た!他に仲間はいない!’」
 クインはしばらく沈黙し、エデンの背を撫でた。今度の敵は生け捕りにしなければならない。
「‘悪いな、エデン。そいつの肉はお預けだ’」
 エデンが喉を離した瞬間、クインは襲撃者の喉を絞めた。襲撃者は昏倒した。

「バルタザル!」
 怒声で呼ばれ、バルタザルは飛び起きた。
 戸口には燭台も持たずに真っ黒な男が立っている。が、顔が見えずとも誰かは明白だ。こんな夜半に、王太子の側近であるバルタザル・ベルトレを無礼にも大声で呼びつける者など、一人しかいない。
「今日は別の者が巡回を…」
「足りない。警備を増やせ。アミラからネズミが三匹忍び込んだぞ」
「は…まじか」
 暗闇に話しかけている気分だ。バルタザルはベッドから起き上がって衣服を整え、部屋の隅のワードローブから上衣を取って羽織った。
「あれは」
 クインが訊いたのは、ベッドの上のもう一つの影だ。女が白い背を向けて寝息を立てている。
「女中の…えーと、マリアンヌ…いや、確かマリアンジュだったかな。とにかく愛称はマリーです。無害なので、安心してください」
 この時、エデンがしゃなしゃなと闊歩して現れた。燭台を持ったスリーズがパタパタとその後を追いかけている。薄着の寝衣姿のまま、慌てている様子だ。
「な、なんだかよく分からないのですがエデンが迎えに来て…何かあったんですよね?あれっ、アドラーさん?」
 スリーズが真っ黒な装束に身を包んだクインとバルタザルの顔を交互に見回し、最後に暗い部屋の奥に女が寝ているのを認識すると、軽蔑に満ちた顔をバルタザルに向けた。
「うわ、最低。こんな時に…」
「お誘いをいただいたからには期待に応えないと」
 バルタザルは白々と言った。
 クインは二人を無視してさっさと廊下を進んでいる。
「今後の警備について話す必要がある。キルシェも来い」
「はい!」
「おい、バルタザル」
 スリーズが後に続こうとしたとき、クインは後方を振り返ってバルタザルに呼びかけた。
「キルシェに上着を貸してやれ。俺のは汚れてる」
「あ」
 と、恐縮したのはスリーズだ。
「ありがとうございます…」
「あんたを寝衣姿で歩かせたら、俺がニナにどやされる」
 スリーズにとっては、暗いのが幸いだ。顔が赤くなったのを見られなくて済む。バルタザルがワードローブから引っ張り出して肩に掛けてくれた上等な上着をもぞもぞ着込みながら、スリーズは廊下を進んだ。
「あの…、アドラーさん」
 スリーズが必死で追いつこうとパタパタ駆け、クインにそっと言った。クインは目線だけをスリーズに向けた。
「あとで温かいお茶を用意しますね。オトギリソウの入ったお茶は苦手じゃないですか?ミルクよりリキュールを混ぜるほうがお好きですか?」
 オトギリソウの茶の効果を、クインは知っている。姉たちが喧嘩したり落ち込んだりしたときに、よく母が淹れていた。
「ガキが余計な気を回すんじゃねえよ」
 クインは苦笑してスリーズの頭をぐしゃっと撫でた。
「ガキじゃないですよ」
 スリーズの抗議には耳を貸さず、クインは寝癖の付いたスリーズの頭をもう一度ぐしゃっとした。
 こんな子供にまで感情を読まれてしまうとは、まったく情けないことだ。
「普通の紅茶でいい。ミルクも酒もいらない」
「はい」
 スリーズはくしゃくしゃにされた頭を手で整えながらにっこり笑った。

 城内の妙な空気が、オルフィニナの目を覚まさせた。
 まだ日は昇らず、ルキウスは長い睫毛をしっかり伏せて穏やかな寝息を立てている。オルフィニナは身体を起こし、ベッドの下に追い出されたルキウスの寝衣のシャツを手に取って頭から被った。
「痛…」
 腰のあたりがひどく怠い。手荒に抱かれたのだから、当然と言えば当然だ。しかし、それを悦びのうちに享受していた自覚はある。ルキウスとの情事に、すっかり身体が狎れてしまっている。ことの間の自分の嬌態など、恥ずかしくて思い出すこともできない。
 胸がザワザワする。不吉な予感とは違う。隣にルキウスが当たり前のようにいるこの状況に、感情が忙しなく働いているのだ。左手の薬指に嵌められた指環に触れると、もっと落ち着かなくなった。鳩尾が病を得たように痛くなり、鼓動が速くなる。身体の奥まで触れるルキウスの熱と忘我に意識を委ねるときの甘い声が、まだ肌に残っている。
 身体の内側の燻りを振り払うようにベッドを降り、裸のまま寝入っているルキウスに肩まで毛布を掛け直してやってから、裸足のまま水差しのあるテーブルへ向かおうとしたときだった。
 扉の外に、知った気配がある。
 オルフィニナは扉を静かに開いて外に出た。
「チッ、靴を履けよ。服も着ろ」
 オルフィニナは騎士の軍装に身を包んだクインを見上げた。身に付けているのは、指環の他はルキウスの薄いシャツ一枚だけだ。腿の半分ほどしか隠せていない。どちらも燭台を持っていないから、はっきりとそのあられもない姿を晒さずに済むのが幸いだ。
 クインは意識的に真っ暗な虚空に視線を移した。この姿を明るいところで見ていたら、ルキウス・アストルへの殺意が抑えきれないほどに大きくなっていたかもしれない。
 一方で、オルフィニナは事も無げに肩を竦めた。
「着るものを取りに行ったら起こしてしまう」
 だから、ベッドで寝入っているルキウスに気を遣ってそっと出て来たというのだ。
 クインはもう一度舌を打って軍服の上衣を脱ぎ、オルフィニナの肩に掛けた。オルフィニナが着ると、辛うじて膝上まで脚が隠れるものの、このまま城内を出歩くには着ているものが少なすぎる。
「それで、誰が寄越した」
 オルフィニナはクインの気配を感じ取ったときから、今夜何が起きたのかを察している。暗闇の中に微かな血のにおいが混ざっている理由もだ。
「フレデガル」
「予想より早かったな。それで?」
 詳細の報告を促しているのだ。オルフィニナは腕を組んで君主の目をした。
「三人だ。全員男。二人は殺した。一人は地下牢にいる。あんたたちの警備を今から増やす。どこにいても人の目があるぞ」
「任せる」
 オルフィニナは頷いて、扉へ足を向けた。
「尋問はルキウスも立ち会うだろうから、そのつもりで。生かしておいて」
「――ニナ」
 オルフィニナは振り返って騎士の顔を見た。表情はわからない。
「惚れたな。あいつに」
 オルフィニナは首を傾げた。
「そう見える?」
 辛うじてクインの唇が吊り上がったのはわかった。しかし、暗い色の目が何を言っているのかはわからない。
「…さっき、言うのを忘れてた」
 クインはそう言って、オルフィニナの左手を掴み、薬指に口付けをし、額に唇で触れた。こういう接触は、いつ以来だったか――幼い頃の誕生日の祝福が最後だったかもしれない。
「結婚おめでとう。今まででいちばんきれいだった」
 意外な言動だ。オルフィニナは目をぱちくりさせて唇を吊り上げた。
「驚いた」
「驚くことがあるか。家族の結婚を祝っただけだ」
「ずっと反対してただろ」
「今もだ。だが今、あんたを一番守れるのはルキウス・アストルだと理解してる。殺したいくらい気に入らないのは変わらないが」
 オルフィニナは苦笑した。
「守って欲しいわけじゃない。戦う力が欲しいんだ」
「知ってる。だがあんたを手に入れる男は、両方できなければ価値がない」
 その価値がなければ、俺が殺す。とまでは言わなかった。妹の結婚した日に相応しい言葉ではない。しかし、オルフィニナも何となくその続きを理解している。ちょっとおかしそうに喉の奥で笑い、暗闇の中でも輝くような屈託ない笑顔を見せた。
「ありがとう」
 ふ。と、クインが小さく笑ったのが聞こえた。
「愛してる、ニナ」
 左手の指に触れていたクインの手が、オルフィニナの手を覆った。オルフィニナが微かな動揺を覚えたのは、初めて言われたように感じたからだ。家族の挨拶として交わしてきた言葉が、この時ばかりは違って聞こえた。
「ずっと変わらない。あんたが何者になろうとも」
「ふふ。まったく、勿体ないな。お前のそういう家族思いで愛情深いところを、みんなにも知って欲しいよ」
「あんただけ知ってればいい」
 オルフィニナはヤレヤレと首を振って、義兄を抱き締めた。
 これは、救済だ。一人でも家族としてこの結婚を祝福してくれる存在がいることは、オルフィニナにとって救いになった。ちくちくと刺さる小さな罪悪感も、微かに覚えた違和感も、この大きな安堵によって浄化された気がする。
 最後にもう一度クインをぎゅっと抱き締めて、オルフィニナは子供の頃と同じように笑った。
「ふふ、大好きだ。兄弟」
「知ってる」
 クインが優しく目を細めた。

 ベッドに戻ると、ルキウスが目を開けた。
「…気に入らない匂いだ」
 半分寝ぼけたような声で言うと、腕を伸ばしてオルフィニナの肩からクインの上衣を滑り落とし、他の男のにおいを消すように自分の胸へ抱き寄せた。
「鼻が利くな」
 オルフィニナは吐息だけで笑った。
「二人で何を話してた」
 不機嫌な声色だ。
「アミラからネズミが潜り込んだ。明日尋問だ」
「他には何の話をしてた?」
「あとは、結婚の祝いと、家族の会話を」
「家族、ね」
 思案するように言いながら、ルキウスはオルフィニナのシャツを開いて肌を暴いた。
「こんな格好で――」
 手がシャツの裾から這い、何も身に付けていない下腹部に触れる。熱の残る肌が、ひくりと疼いた。
「下着も着けずに他の男の前に出るなんて、よほど俺の悋気を煽りたいらしいな」
「そんなつもりはないよ。よく寝ていたから起こしたくなかっただけだ」
「フン」
 ルキウスは不機嫌に息を吐き、オルフィニナをその精悍な身体の下に組み敷いた。
「じゃあニナ、俺とは夫婦の会話をしよう」
 指が中心に入ってくる。オルフィニナは小さく喘いでルキウスの腕にしがみついた。
「…っ !これは、会話とは言わない」
「会話だよ。身体と、魂の会話だ」
 ルキウスは甘い声で妻となった女を誘惑し、啄むように唇に吸い付いて、その甘美な身体をもう一度自分のものにした。
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