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49 心は沈黙のうち - le cœur de silence -

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 この日、オルフィニナとルキウスは正式に夫婦となった。
 あまりに現実味がない。まだ何かの余興だったのではないかとも思う。しかし、宴の終わりに結婚証明書の上にガラスのペンを走らせた感覚を、手が記憶している。
「じょこ…女王陛下」
 湯気の向こうの扉から、スリーズがおずおずと顔を出した。
 オルフィニナは温くなった湯のなかで、ふやけた指を見た。どうも物思いに耽るうちにかなり時間が経ってしまったようだ。熱い湯で洗った髪も、ひんやりとし始めている。
「御髪に香油をお付けしてもよろしいですか」
 スリーズの顔が赤い。この後何が起きるか理解しているのだ。
「頼む」
 オルフィニナが浴槽の縁に首を乗せて微笑むと、スリーズはいつになく緊張した様子で浴室へ入ってきた。髪を梳く手も、いつものような手際の良さがない。
「…スリーズ、念願の王都に来られたわけだし、あなたの目的はもう達成されただろう。だから、あなたに暇を出そうと思っている。ルキウスのつてで、他の王族の城を紹介できそうなんだ」
 言い終わる頃には、スリーズの手はオルフィニナの髪を梳くのを完全にやめていた。
「い、いやです」
 オルフィニナは声を震わせた若い侍女を振り返り、浴槽の縁に肘を乗せて、丸い頬を伝う涙を拭ってやった。
「予定よりも早く王太子妃になってしまった。あまつさえアミラ王を自称した今、わたしたちは狩り場に放たれた野ウサギのように狙われる。侍女も同じだ。わたしは着替えや朝の支度は自分でできるし、もし手伝いが必要ならルキウスが喜んでやってくれるだろう。それが鬱陶しいときはクインもいるしな」
 オルフィニナは冗談めかして片目を瞑って見せたが、スリーズはますます目を赤くした。
「わたし、役に立たないですか?」
 オルフィニナは首を振った。スリーズが別離を泣いて嫌がるほどオルフィニナの侍女であることに誇りを持っているとは、知らなかった。
「とてもよくやってくれているよ。ドレスを選ぶ美的感覚も優れているし、読書のための本を選ぶのも、わたしのチェスの相手もできる。わたしの侍女としてあなたほどの適任はいない。ルースでの出会いにいつも感謝している」
「それだけじゃありません。馬の速駆けも得意です。何かあったらすぐに逃げられます。それに、情報収集だって。アドラーさんだけじゃ力不足ですよ。あの方と違ってわたしは女の目で情報を集められます。た、例えば、周りの違和感を見つけるのは普通の生活を知ってるわたしの方が役に立つと思います。それに、わたし別に、王都に来たいからって理由だけで女王陛下について来たんじゃありません…!」
「スリーズ…」
「追い出さないでください。侍女としてお仕えするならあなただけって決めたんです。だいたい、王太子妃に侍女がいないなんて有り得ないですよ。わたしを追い出したらもっと身分の高い方が侍女に推薦されますよ。この国の重臣の面目を潰す気ですか?そんなことしたら、味方が減ると思います。わたしがいた方が、絶対いいに決まってます」
 スリーズがぽろぽろ涙をこぼしながら一生懸命に言うので、彼女には悪いがなんだか可笑しくなってしまった。
 確かに、スリーズは正しい。
 エマンシュナの王太子妃でありアミラ女王でもあるオルフィニナの侍女という好機に満ちた立場を狙って、高位貴族の令嬢たちがオルフィニナのもとに殺到するに違いない。その上、彼女たちを推薦する重臣達の体裁もあるから、理由もはっきりとせず断れば遺恨を残すだろう。
 一方でスリーズがいれば、お気に入りの侍女より仕事ができてチェスの強いものでなければ必要ないなどと言って、その類の申し出をやんわりと断る口実にもできる。
 おまけに事情を知らぬ部外者をそばに置いては、結局身を危険に晒すものが増えるだけだ。しかも、それがスリーズほど利口である可能性は低い。
 オルフィニナは一瞬のうちに思案を終わらせ、顎を引いた。
「道理だ、スリーズ。わかった」
 オルフィニナは優しく言ってスリーズの頬を撫でた。スリーズはぱあっと顔を明るくして、勢いよく礼を告げた。
「だが、条件がある。身の危険を感じたら誰かを守ろうとせずにその身一つでも必ず逃げると、今誓いなさい。わたしはあなたに命を賭すことまでは求めない。だから、自分の身を自分で守る努力を最大限にすること。それが条件だ」
「…わかりました。誓います」
「それから、もう一つ。わたしのことはニナと呼んでいい。厄介な肩書きが増えてしまったから、そちらの方がしっくりくる」
 スリーズは首がちぎれるくらいにこくこくと頷いて、喜びを表した。主君の名を呼ぶ許可は、特別なものだ。
 オルフィニナがにっこり笑ってスリーズの頬をつついたとき、浴室の扉が開いた。
「話は終わったか」
 まだ髪が濡れたままのルキウスが、気怠げに肩を扉に預けている。それも、シャツの前を開けたままだ。
 憐れにもスリーズは顔を真っ赤にしてヒャッと目を覆ったが、口だけは「お召し替えがまだです」と、毅然と言い放った。
「そのままでいい」
 ルキウスはつかつかと浴室のタイルの床を遠慮なく進み、オルフィニナのいる浴槽までやってきて、壁のフックにかかっていた浴用の綿布を取ると、オルフィニナに手を差し出した。
 ざわざわとオルフィニナの胸が騒ぎ出し、意思とは関係なく腹の奥が熱くなる。
 この時、はっ!とスリーズが香油の瓶に蓋をして立ち上がった。このままここにいたら、もっと気まずいことが起きることを知っている。
「ででででは、わたくしはこれで、失礼します!」
 スリーズが跳ぶように去った後、オルフィニナはルキウスの手を取った。グイ、と強い力で引き上げられ、立ち上がった瞬間には身体を布で包まれて、ルキウスの腕の中にいた。
「いい匂いがする」
 ルキウスの髪と高い鼻が首をくすぐる。
 まったく憎らしい。拒む気さえ失わせるのは、この男の得意技だ。
「香油を塗ってくれたんだよ」
「君の匂いだ」
 じくじくと腹の奥から熱が広がった。この声のせいだ。それから、この男の麝香に似た匂いが、身体の奥にしまってある性的な衝動を呼び覚ます。
 肌に走った柔らかな刺激で、肌がピクリと跳ねた。
 ルキウスの唇が首筋に触れ、舌が這っている。舌が這うところに熱が生まれ、濡れたままの髪が肌を撫でると、その冷たさが別の感覚をもたらした。
「ん、待って」
「もう待てない。さっき髪を解いた時に始めたかったのに、君が風呂に入るというから、もう一時間も待ったんだ」
「ふ」
 おかしくなってきた。まるで駄々をこねる子供だ。
「ここではだめ。初夜で夫に風邪を引かせられないよ」
 ルキウスはやや不満げに顔を上げると、オルフィニナの唇にキスをして、ニッと唇を吊り上げた。「夫」と呼ばれたことには、満足しているらしい。
「じゃあ、寝室に行こう」
 言うなり、オルフィニナの身体を軽々と横向きに抱き上げ、足を踏み出して扉を蹴った。
 その先には、ルキウスの寝室がある。
 大股で暗い寝室の奥へ運ばれた後、オルフィニナはいつもより優しくベッドに下ろされた。雲が太陽を隠すようにルキウスが覆い被さってくる。
 オルフィニナがルキウスの首の後ろに腕を回したとき、夕立のようにキスが降ってきた。いつもよりも余裕がない。口付けの合間に交わる視線が、燃えるようだ。
 ルキウスが宝物を取り出すような手つきでオルフィニナの身体を包む綿布を開き、露わになった白い胸に触れて、首に吸い付き、耳に舌を這わせた。
 肌が一斉に粟立った。同時に熱く甘い細胞の叫びが肌を走ってゆく。
「誓ってしまったな、ニナ。俺への愛を」
 吐息が耳を湿らせ、同時に胸に与えられる柔らかな刺激がオルフィニナの息遣いを熱くした。
「…っ、それは、あなたが言わせたんだ。あの場ではああ言うしかなかった」
「それでも、誓いは誓いだ」
「不可抗力だ。婚約の発表をするはずが、あの場で結婚してしまうなんて考えもしなかった。強硬すぎだ」
「そんなことを言って――」
 ルキウスはニヤリと笑ってオルフィニナの頬に触れ、火がついたようにキスをした。
 オルフィニナは息苦しさに呻き、ルキウスの舌が官能を呼び覚ますように口の中に触れるのに、自分も舌を伸ばして応じた。
「あの誓いは全くの嘘じゃないだろ?」
「あ…!」
 強烈な刺激を受けたのは、脚の間だ。ルキウスの長い指がその濡れた谷間をなぞるようにくすぐっている。
「ほら、俺が触れるとすぐに熱くなる」
 オルフィニナは唇を噛んで喉の奥で小さな悲鳴を上げた。
 考えるだけ無駄なことだ。ルキウスの誓いの言葉にどれほどの真実が隠れていようが、自分が誓わされた言葉の中に本心があろうがなかろうが、この婚姻は二人のあいだの密約でしかない。そうあるべきなのだ。
「ああ。また、余計なことを考えてる」
 ルキウスが暗い笑みを浮かべた。捕食者の顔だ。そしてその目の中に、純粋な欲望が見える。
「…あなたといると考えごとが尽きない」
「じゃあ、何も考えないようにさせないといけないな」

 ルキウスは初夜の床で、妻となったオルフィニナの肌を残さず食すような丁寧さで味わった。オルフィニナの密やかな声が耳をくすぐり、淫蕩な血を身体中に巡らせる。秘所から溢れて舌を湿らせる蜜が、ルキウスの背筋をぞくぞくと粟立たせ、身体中を興奮が駆けていく。
 指を絡めると、快楽に喘ぐオルフィニナがその手をきつく握り返し、指環の冷たい感触が肌に触れた。
 不思議だ。この女の前では、全てを曝け出したくなる。自分の心の最も脆い部分を一度晒してしまったせいかもしれない。
 跪き、首を垂れて無様に愛を乞い、肉体も、魂をも捧げてくれと、縋りつきたい衝動に駆られる時がある。
 今まさに、熱に溶けた蜜蝋のように甘美な移ろいを遂げたオルフィニナの中心に自分自身を繋げようとする瞬間さえ、その情動から逃れられない。
 だがこの感情に勘付かれてはだめだ。もしオルフィニナが知れば、きっと離れて行くだろう。
「――君はきっと、目的に支障をきたすとか言って…」
「え?」
 オルフィニナが甘い息継ぎの合間に聞き返したとき、ルキウスは考えを声に出していたことに気付いた。
「ふ、なんでもない」
「あっ!」
 一際強く奥を突くと、オルフィニナが蜜色の目を蕩けさせて内部を締め付けた。
「君は、もう俺の妻だ」
「んっ、ああ…そうだ」
「君の内側に触れていいのは、夫の俺だけ。そうだろ」
 オルフィニナが懊悩するように声を上げた。身体の奥が悦びに熱を増していくのを、残された理性が耐えているように見える。
「…っ、そうだ」
「じゃあ今は、それでいい」
 ルキウスは歯の間から言って、オルフィニナの腰を掴んだ。
「――!ルキウス」
 狭く収縮するオルフィニナの熱源が、ルキウスから一切の思考を剥ぎ取っていく。夫婦としての初夜だから、丁寧に抱こうと思っていたが、無理だ。オルフィニナの声と香りは、ルキウスから分別をなくしてしまう。
「ニナ…、ニナ。俺を――」
 ルキウスは言葉を飲み込んだ。何を口にしようとしているのか自覚もなかった。オルフィニナが違和感に気付く前にその唇を覆い、熱い口の中へ舌を挿し入れて、オルフィニナの身体を内側から蕩かすように絡めた。
 手のひらで覆った乳房の中心で、先端が愛らしく立ち上がっている。指先でそこをなぞり、同時に腰を押し付けて深い部分を攻めると、オルフィニナが一際高い声で鳴いた。
 絶頂に向かってその身体が緊張を始めている。
 自分が与える刺激によって甘く変化するオルフィニナの身体が、悦びを生み、胸を熱くする。理性が剥がされたあと精神に残るものは、この底知れぬ悦びだ。
「んぁっ…!」
 膝を担ぎ上げて更に奥へ入った時、びくびくとオルフィニナがルキウスを締め付けてしがみ付いた腕に爪痕を残した。散々に奥を突いてオルフィニナの内側が自分の形に沿うのを肌で感じた後、ルキウスは思考など何も残らないほどに獣のようになってオルフィニナを抱き締め、またしても二人の肌が曖昧になるほどに口付けをして、彼女の中を自分の獣じみた欲で満たした。
「はっ、はあ…。ニナ」
 ルキウスは激しく昇り詰めて苦しそうに眉を寄せたオルフィニナの額から髪をよけ、浮いた汗を拭うと、呼吸も整わない口を自分の唇で塞いで身体中を優しく撫でた。
「まだ考えごとをしてる?」
 オルフィニナは今気付いたというように濡れた琥珀色の目を開いてルキウスの顔を見上げ、悔しそうに長い睫毛を伏せた。
「今は、していない」
 自然と頬が緩む。
「はは。俺の妻は素直で可愛いな」
「うるさい。もう寝る」
 さっさと離れて行くオルフィニナの身体を追いかけて腕に包み、ルキウスはその肌の匂いで全身を満たした。

 この時、クインは黒装束に身を包み、エデンを伴ってレグルス城の周囲を警戒していた。
 既に二人の暗殺者を倒し、川に棄てている。
 ヴァレルが早速無謀な手を打ったわけではない。ギエリから放たれた暗殺者たちだ。
(クソ。返り血を浴びすぎた)
 心の内で毒吐いた。必要以上に手荒にしてしまった自覚はある。しかし、敵を目の前にすると加減ができなかった。あの、大広間での喜劇を目の当たりにしてからずっと感情が落ち着かない。激しい怒りが血の中を巡っている感覚だ。
 フンフンとエデンが鼻を鳴らしてクインの前に出た。心の内を見透かされているようだ。言葉を持たない分、人間の感情に人間よりも敏感になれるのかも知れない。
「…わかってる」
 クインは小さく言った。
 分かっていたことだ。オルフィニナがルキウスの妻となり、女王となり、エマンシュナの王妃になるのは、もう止められない。他でもない、オルフィニナが決めたのだから。
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