48 / 79
47 凱旋の宴 - la louve et le lion -
しおりを挟む
王太子が帰還したアストレンヌでは、昼から宴が開かれた。オルフィニナの装いは、ルースを発つ前に誂えたドレスのうち、最も仕立ての巧緻なものだ。
白を基調とした絹と木綿の生地で仕立てたドレスで、高めのウエストラインから軽やかな襞が美しく流れるように広がり、スカートの裾には、足元に広がる花畑のようにヤグルマギクやギンバイカなどの花が淡い色調で縫い取られて、袖は贅沢にも緻密な花模様のレースで作られ、オルフィニナの細い腕に沿うように作られている。
スリーズがレグルス城の女中たちと一緒にオルフィニナの髪を結い終わった頃、続き部屋の扉からルキウスが顔を出した。互いの寝室が部屋の奥にある扉で繋がっているから、ルキウスはまるで窓を開けるくらいの気軽さで、こうしてオルフィニナの部屋にちょくちょく現れる。最初は咎めていたものの、一日のうちに何度も繰り返されるので逐一小言を言うのも馬鹿馬鹿しくなり、もう諦めてしまった。
正装のルキウスが戸口に立つと、スリーズがピッと背筋を伸ばし、他の女中たちを伴ってサアッとその場を去った。ルキウスがオルフィニナの元に現れると、決まってとても慎ましやかとはいえない口付けが始まり、「何を見ている」と言わんばかりにルキウスが視線で追い出そうとしてくるからだ。初めこそ顔を真っ赤にして狼狽えていたスリーズも、その頻度の多さにすっかり慣れてしまった。
今もそうだ。ルキウスは鏡の前に立つオルフィニナの腰を抱いて頬にキスをし、唇を触れ合わせようとした。
が、この時ばかりはオルフィニナはルキウスの口をグイと手のひらで押さえ、拒んだ。
「化粧が落ちる」
ルキウスはむっつりと唇を結び、無言でオルフィニナをまじまじと見つめている。居心地の悪さに、オルフィニナは堪らなくなった。
「なに?」
「きれいだ」
「そ――」
不意打ちだ。てっきりキスを拒んだことに対して文句を言われると思っていた。
「そうか」
顔が熱い。
「あなたも、素敵だ」
ルキウスは、雪のように真っ白なシャツに金の飾緒が付いた銀灰色の上衣を着、脚の長さが際立つ細身のズボンと獅子の紋章が装飾された黒い革のブーツを履いて、その男振りを上げている。
「知ってる。でも君の方がずっと…」
ルキウスの柔らかい髪が首をくすぐり、広く開いた襟から覗く肩に唇が触れた。ルキウスがはぁ、と溜め息をついた。
「…このまま君を閉じ込めておきたい。君を不埒な目で見る奴がたくさんいると思うと、むかつくな」
「あなたが最たるものだろう」
「俺はいいだろ。夫なんだから」
不満そうに言いながら、ルキウスの口元は笑っている。
「まだ違う」
オルフィニナは性懲りも無く頬に触れようとしたルキウスの唇を手のひらで覆い隠し、その頭を後ろへ押し戻した。不満そうに目を細めたルキウスをおかしく思って手を離したとき、後ろに撫でつけていた髪が乱れ、鈍い金色の髪がはらりと落ち、孔雀色の目を隠した。
ルキウスは、この時のオルフィニナの挙動を微動だにせず目に焼き付けた。オルフィニナが爪先で立ち、たった今キスを拒んだばかりの男の髪に触れ、整えている。
髪を直すだけ直して手を引っ込めようとしたオルフィニナの手を、ルキウスは掴んだ。ほとんど条件反射だ。
「君、ずるいよな。突き放すようなことを言って、そうやって自分から近づいてくる。俺をどうしたいんだ」
オルフィニナは目を丸くして、珍しく困惑をその顔に表した。
「髪を直しただけだよ」
「それでも、俺には耐え難い。それくらい君が可愛くて仕方ないんだ」
重なってくる唇を、オルフィニナは今度は拒まなかった。唇が優しく触れ合い、すぐに離れた。ルキウスの視線は、どこか憂鬱そうだ。
「君の髪を解く役目は、俺にくれ」
あまりに真剣な声色だ。オルフィニナはおかしくなって笑い声を上げた。
「お遊びはそれくらいにして、ほら」
オルフィニナはルキウスに右手を差し出した。親指に、狼の指輪が輝いている。
ルキウスはその手を取ると、甲にキスをし、指環にもキスをした。
「俺の女王陛下」
誘惑するようにルキウスが見上げてくる。オルフィニナは急に襲ってくる胸の閉塞感を無視し、鷹揚に笑んだ。
「ヴァレル・アストル大公がどんな顔をしているか、見てやろうじゃないか。王太子どの」
ふ、とルキウスが愉しそうに笑い、オルフィニナの唇にもう一度羽が触れるようなキスをした。
「君のそう言うところ、好きだ」
オルフィニナは顔が熱くなるのを堪えるように唇を結び、ルキウスの唇についた紅を指で拭ってやった。
アミラから狼の女公がアストレンヌにやって来た。――という一報は、センセーショナルな物事に目がないアストレンヌの諸侯の好奇心を大いに刺激した。
それも、ルドヴァンからの道中でルキウスが女公をあちこちの集まりに同伴し、婚約者として紹介して回り、更にはオルフィニナ自身がその見識の深さと才覚、そしてその美貌を知らしめたことで、今やギエリを陥落させた英雄ヴァレル・アストル大公の王都凱旋よりも大きな話題となっている。
「出鼻を挫かれた大公が女公殿下を潰そうと躍起になっていますよ」
主人達に先立って大広間の後方に控えるバルタザルがクインに小さく耳打ちした。
「‘女王’だ」
クインが言った。今夜、この場で、オルフィニナは自身がアミラ王であることを、そしてルキウスとオルフィニナが正式な婚約を交わしていることを臣下たちの前で宣言する手筈になっている。
「はっ。そうですよね。オルフィニナ女王陛下、オルフィニナ女王陛下…」
スリーズは呪文を唱えるように繰り返し呟いて公的な呼び名を練習した。
「あなたも堂々としてください。女王陛下の侍女なのですよ」
バルタザルが穏やかに言うと、素直なスリーズは顔を赤くしてシャキッと背筋を伸ばした。
今夜は、側近達も正装だ。金銀の飾緒を胸に飾り、クインは黒、バルタザルはエマンシュナ伝統の深緋色の軍装で、腰に騎士の剣を差している。彼らの圧に負けないようにと思って、オルフィニナが一緒に選んでくれたコバルトブルーのドレスを着てきたが、気合いを入れて普段使わないコルセットをきつく締め上げてしまったために、ひどく息苦しい。だんだん緊張が激しくなり、胃も痛くなってきた。
「うう…お二人ともさすがに場慣れしていらっしゃいますね。わたし、ものすごく緊張しています。間違えないようにしないと…。オルフィニナ女王陛下、オルフィニナ女王陛下…」
クインは胃のあたりをさすりながら呪文を繰り返すスリーズの姿がおかしくて、ニヤリと唇を吊り上げた。
「ああ、ほら」
バルタザルが大広間の大きく開かれた扉を視線で示した。
「‘英雄’ヴァレル・アストル大公のお出ましですよ」
深い緋色の軍服に多くの勲章を飾り、後方には四人の屈強な騎士を従えている。歩き方からして、いかにもこの場が自分のために設けられたと主張しているようだ。が、クインが注目したのは別のことだ。
「髪が黒い」
それも、漆黒。――クインの知る黒髪のエマンシュナ人は、他にルドヴァン公爵アルヴィーゼ・コルネールただ一人だ。
「ルミエッタ王妃から続くイノイルの王家の血が強く出ているんでしょう。それを誇りに思ってもいらっしゃる」
バルタザルの言葉には、どことなく批判的な含みがある。エマンシュナ人であるならば、いくらその血を引いていようと、イノイルの王家の血よりもアストル家の血を誇るべきだと思っているのだろう。主君に骨の髄まで忠実な男だ。
クインはヴァレルの堂々たる姿を遠くから観察した。
「確かにそのようだ」
そうでなければ軍人らしく髪を短く切り揃えているだろう。ヴァレル・アストルは波打つ黒髪を肩より長く伸ばし、アストル家の旗標と同じ緋色の紐でひとつに束ね、誇らしげに靡かせている。
「威風堂々としたお姿、格好良いです。さすがは王太子殿下の宿敵ですね」
スリーズが目を輝かせて言った。
「呑気だな」
「でもどっちかというと、ルミエッタ王妃よりもオーレン王を意識してらっしゃる感じがします」
無邪気なスリーズの一言で、クインとバルタザルが密かに視線を交わし合った。
この娘の感覚は鋭い。
オーレン王は、百年以上前、エマンシュナと戦争していた時代のイノイルの国王で、ルミエッタ妃の父親だ。伝記や絵画の中のオーレン王は、ちょうど今のヴァレルのように波打つ黒髪を一つに束ねた軍人の姿で描かれる。獅子王レオネの舅であり、イノイルの英雄である一方で、主君を弑して自らが国王になった叛逆の武人でもある。
イノイルの姫を娶り和平を成し遂げた調和の象徴と、自らの軍才でもって国王に成り上がった叛骨の象徴。――もしもヴァレル・アストルがレオネ王よりもオーレン王を崇拝しているとなれば、その精神にあるものが何であるか、想像は容易だ。
この場を、ヴァレル・アストルは雄々しく泰然とした姿で自分のものにした。集まった人々は恭しくアミラの王都を降伏させた英雄に膝を折り、その戦功を讃えた。
(フン、英雄ね)
クインは誇らしげに称賛の声に手を挙げて応えるヴァレルの姿を蔑んだ。
あれはただの売国奴だ。フレデガルと同じく、戦の悲劇を私利私欲のために利用しようとしているに過ぎない。
(戦で死んだ命をなんだと思ってやがる)
叶うなら今すぐあの首を落としてやりたいところだ。
「僕はあの方が嫌いです。あなたが彼を嫌う以上に」
心中を見透かしたように、バルタザルが声を潜めてクインに暗く笑いかけた。
そして、次に姿を現したものに大広間の諸侯がどよめいた。
エデンだ。
大きな白いオオカミが悠然と中央の床に描かれた有翼の獅子の上を闊歩している。王都周辺の諸侯がこれほど大きな白い獣を見たのは、おそらく初めてだったろう。
それほど間を置かずに、王太子ルキウスと、その手にエスコートされる婚約者オルフィニナが現れた。
ヴァレルとは、諸侯の反応が違う。歓声や賛美の言葉が出ないのは、彼らが二人の姿に声をなくすほど見惚れているからだ。王太子と次のアミラ王として噂されている貴婦人は、若く、目の覚めるような美男美女で、二人を包む空気までもが輝くほどの神々しさに満ちている。
‘神獣’エデンがオルフィニナの足元で腰を下ろすと、それを合図と受け取ったのか、次々に諸侯が挨拶のために周囲に集まった。
ルキウスとオルフィニナは笑顔で応じ、これまでの彼らの協力と宴の出席への感謝を述べた。
そして――
「大公」
ルキウスが完璧な王太子の笑顔を浮かべ、ヴァレル・アストルに声をかけた。
白を基調とした絹と木綿の生地で仕立てたドレスで、高めのウエストラインから軽やかな襞が美しく流れるように広がり、スカートの裾には、足元に広がる花畑のようにヤグルマギクやギンバイカなどの花が淡い色調で縫い取られて、袖は贅沢にも緻密な花模様のレースで作られ、オルフィニナの細い腕に沿うように作られている。
スリーズがレグルス城の女中たちと一緒にオルフィニナの髪を結い終わった頃、続き部屋の扉からルキウスが顔を出した。互いの寝室が部屋の奥にある扉で繋がっているから、ルキウスはまるで窓を開けるくらいの気軽さで、こうしてオルフィニナの部屋にちょくちょく現れる。最初は咎めていたものの、一日のうちに何度も繰り返されるので逐一小言を言うのも馬鹿馬鹿しくなり、もう諦めてしまった。
正装のルキウスが戸口に立つと、スリーズがピッと背筋を伸ばし、他の女中たちを伴ってサアッとその場を去った。ルキウスがオルフィニナの元に現れると、決まってとても慎ましやかとはいえない口付けが始まり、「何を見ている」と言わんばかりにルキウスが視線で追い出そうとしてくるからだ。初めこそ顔を真っ赤にして狼狽えていたスリーズも、その頻度の多さにすっかり慣れてしまった。
今もそうだ。ルキウスは鏡の前に立つオルフィニナの腰を抱いて頬にキスをし、唇を触れ合わせようとした。
が、この時ばかりはオルフィニナはルキウスの口をグイと手のひらで押さえ、拒んだ。
「化粧が落ちる」
ルキウスはむっつりと唇を結び、無言でオルフィニナをまじまじと見つめている。居心地の悪さに、オルフィニナは堪らなくなった。
「なに?」
「きれいだ」
「そ――」
不意打ちだ。てっきりキスを拒んだことに対して文句を言われると思っていた。
「そうか」
顔が熱い。
「あなたも、素敵だ」
ルキウスは、雪のように真っ白なシャツに金の飾緒が付いた銀灰色の上衣を着、脚の長さが際立つ細身のズボンと獅子の紋章が装飾された黒い革のブーツを履いて、その男振りを上げている。
「知ってる。でも君の方がずっと…」
ルキウスの柔らかい髪が首をくすぐり、広く開いた襟から覗く肩に唇が触れた。ルキウスがはぁ、と溜め息をついた。
「…このまま君を閉じ込めておきたい。君を不埒な目で見る奴がたくさんいると思うと、むかつくな」
「あなたが最たるものだろう」
「俺はいいだろ。夫なんだから」
不満そうに言いながら、ルキウスの口元は笑っている。
「まだ違う」
オルフィニナは性懲りも無く頬に触れようとしたルキウスの唇を手のひらで覆い隠し、その頭を後ろへ押し戻した。不満そうに目を細めたルキウスをおかしく思って手を離したとき、後ろに撫でつけていた髪が乱れ、鈍い金色の髪がはらりと落ち、孔雀色の目を隠した。
ルキウスは、この時のオルフィニナの挙動を微動だにせず目に焼き付けた。オルフィニナが爪先で立ち、たった今キスを拒んだばかりの男の髪に触れ、整えている。
髪を直すだけ直して手を引っ込めようとしたオルフィニナの手を、ルキウスは掴んだ。ほとんど条件反射だ。
「君、ずるいよな。突き放すようなことを言って、そうやって自分から近づいてくる。俺をどうしたいんだ」
オルフィニナは目を丸くして、珍しく困惑をその顔に表した。
「髪を直しただけだよ」
「それでも、俺には耐え難い。それくらい君が可愛くて仕方ないんだ」
重なってくる唇を、オルフィニナは今度は拒まなかった。唇が優しく触れ合い、すぐに離れた。ルキウスの視線は、どこか憂鬱そうだ。
「君の髪を解く役目は、俺にくれ」
あまりに真剣な声色だ。オルフィニナはおかしくなって笑い声を上げた。
「お遊びはそれくらいにして、ほら」
オルフィニナはルキウスに右手を差し出した。親指に、狼の指輪が輝いている。
ルキウスはその手を取ると、甲にキスをし、指環にもキスをした。
「俺の女王陛下」
誘惑するようにルキウスが見上げてくる。オルフィニナは急に襲ってくる胸の閉塞感を無視し、鷹揚に笑んだ。
「ヴァレル・アストル大公がどんな顔をしているか、見てやろうじゃないか。王太子どの」
ふ、とルキウスが愉しそうに笑い、オルフィニナの唇にもう一度羽が触れるようなキスをした。
「君のそう言うところ、好きだ」
オルフィニナは顔が熱くなるのを堪えるように唇を結び、ルキウスの唇についた紅を指で拭ってやった。
アミラから狼の女公がアストレンヌにやって来た。――という一報は、センセーショナルな物事に目がないアストレンヌの諸侯の好奇心を大いに刺激した。
それも、ルドヴァンからの道中でルキウスが女公をあちこちの集まりに同伴し、婚約者として紹介して回り、更にはオルフィニナ自身がその見識の深さと才覚、そしてその美貌を知らしめたことで、今やギエリを陥落させた英雄ヴァレル・アストル大公の王都凱旋よりも大きな話題となっている。
「出鼻を挫かれた大公が女公殿下を潰そうと躍起になっていますよ」
主人達に先立って大広間の後方に控えるバルタザルがクインに小さく耳打ちした。
「‘女王’だ」
クインが言った。今夜、この場で、オルフィニナは自身がアミラ王であることを、そしてルキウスとオルフィニナが正式な婚約を交わしていることを臣下たちの前で宣言する手筈になっている。
「はっ。そうですよね。オルフィニナ女王陛下、オルフィニナ女王陛下…」
スリーズは呪文を唱えるように繰り返し呟いて公的な呼び名を練習した。
「あなたも堂々としてください。女王陛下の侍女なのですよ」
バルタザルが穏やかに言うと、素直なスリーズは顔を赤くしてシャキッと背筋を伸ばした。
今夜は、側近達も正装だ。金銀の飾緒を胸に飾り、クインは黒、バルタザルはエマンシュナ伝統の深緋色の軍装で、腰に騎士の剣を差している。彼らの圧に負けないようにと思って、オルフィニナが一緒に選んでくれたコバルトブルーのドレスを着てきたが、気合いを入れて普段使わないコルセットをきつく締め上げてしまったために、ひどく息苦しい。だんだん緊張が激しくなり、胃も痛くなってきた。
「うう…お二人ともさすがに場慣れしていらっしゃいますね。わたし、ものすごく緊張しています。間違えないようにしないと…。オルフィニナ女王陛下、オルフィニナ女王陛下…」
クインは胃のあたりをさすりながら呪文を繰り返すスリーズの姿がおかしくて、ニヤリと唇を吊り上げた。
「ああ、ほら」
バルタザルが大広間の大きく開かれた扉を視線で示した。
「‘英雄’ヴァレル・アストル大公のお出ましですよ」
深い緋色の軍服に多くの勲章を飾り、後方には四人の屈強な騎士を従えている。歩き方からして、いかにもこの場が自分のために設けられたと主張しているようだ。が、クインが注目したのは別のことだ。
「髪が黒い」
それも、漆黒。――クインの知る黒髪のエマンシュナ人は、他にルドヴァン公爵アルヴィーゼ・コルネールただ一人だ。
「ルミエッタ王妃から続くイノイルの王家の血が強く出ているんでしょう。それを誇りに思ってもいらっしゃる」
バルタザルの言葉には、どことなく批判的な含みがある。エマンシュナ人であるならば、いくらその血を引いていようと、イノイルの王家の血よりもアストル家の血を誇るべきだと思っているのだろう。主君に骨の髄まで忠実な男だ。
クインはヴァレルの堂々たる姿を遠くから観察した。
「確かにそのようだ」
そうでなければ軍人らしく髪を短く切り揃えているだろう。ヴァレル・アストルは波打つ黒髪を肩より長く伸ばし、アストル家の旗標と同じ緋色の紐でひとつに束ね、誇らしげに靡かせている。
「威風堂々としたお姿、格好良いです。さすがは王太子殿下の宿敵ですね」
スリーズが目を輝かせて言った。
「呑気だな」
「でもどっちかというと、ルミエッタ王妃よりもオーレン王を意識してらっしゃる感じがします」
無邪気なスリーズの一言で、クインとバルタザルが密かに視線を交わし合った。
この娘の感覚は鋭い。
オーレン王は、百年以上前、エマンシュナと戦争していた時代のイノイルの国王で、ルミエッタ妃の父親だ。伝記や絵画の中のオーレン王は、ちょうど今のヴァレルのように波打つ黒髪を一つに束ねた軍人の姿で描かれる。獅子王レオネの舅であり、イノイルの英雄である一方で、主君を弑して自らが国王になった叛逆の武人でもある。
イノイルの姫を娶り和平を成し遂げた調和の象徴と、自らの軍才でもって国王に成り上がった叛骨の象徴。――もしもヴァレル・アストルがレオネ王よりもオーレン王を崇拝しているとなれば、その精神にあるものが何であるか、想像は容易だ。
この場を、ヴァレル・アストルは雄々しく泰然とした姿で自分のものにした。集まった人々は恭しくアミラの王都を降伏させた英雄に膝を折り、その戦功を讃えた。
(フン、英雄ね)
クインは誇らしげに称賛の声に手を挙げて応えるヴァレルの姿を蔑んだ。
あれはただの売国奴だ。フレデガルと同じく、戦の悲劇を私利私欲のために利用しようとしているに過ぎない。
(戦で死んだ命をなんだと思ってやがる)
叶うなら今すぐあの首を落としてやりたいところだ。
「僕はあの方が嫌いです。あなたが彼を嫌う以上に」
心中を見透かしたように、バルタザルが声を潜めてクインに暗く笑いかけた。
そして、次に姿を現したものに大広間の諸侯がどよめいた。
エデンだ。
大きな白いオオカミが悠然と中央の床に描かれた有翼の獅子の上を闊歩している。王都周辺の諸侯がこれほど大きな白い獣を見たのは、おそらく初めてだったろう。
それほど間を置かずに、王太子ルキウスと、その手にエスコートされる婚約者オルフィニナが現れた。
ヴァレルとは、諸侯の反応が違う。歓声や賛美の言葉が出ないのは、彼らが二人の姿に声をなくすほど見惚れているからだ。王太子と次のアミラ王として噂されている貴婦人は、若く、目の覚めるような美男美女で、二人を包む空気までもが輝くほどの神々しさに満ちている。
‘神獣’エデンがオルフィニナの足元で腰を下ろすと、それを合図と受け取ったのか、次々に諸侯が挨拶のために周囲に集まった。
ルキウスとオルフィニナは笑顔で応じ、これまでの彼らの協力と宴の出席への感謝を述べた。
そして――
「大公」
ルキウスが完璧な王太子の笑顔を浮かべ、ヴァレル・アストルに声をかけた。
0
あなたにおすすめの小説
俺様上司に今宵も激しく求められる。
美凪ましろ
恋愛
鉄面皮。無表情。一ミリも笑わない男。
蒔田一臣、あたしのひとつうえの上司。
ことあるごとに厳しくあたしを指導する、目の上のたんこぶみたいな男――だったはずが。
「おまえの顔、えっろい」
神様仏様どうしてあたしはこの男に今宵も激しく愛しこまれているのでしょう。
――2000年代初頭、IT系企業で懸命に働く新卒女子×厳しめの俺様男子との恋物語。
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
兄様達の愛が止まりません!
桜
恋愛
五歳の時、私と兄は父の兄である叔父に助けられた。
そう、私達の両親がニ歳の時事故で亡くなった途端、親類に屋敷を乗っ取られて、離れに閉じ込められた。
屋敷に勤めてくれていた者達はほぼ全員解雇され、一部残された者が密かに私達を庇ってくれていたのだ。
やがて、領内や屋敷周辺に魔物や魔獣被害が出だし、私と兄、そして唯一の保護をしてくれた侍女のみとなり、死の危険性があると心配した者が叔父に助けを求めてくれた。
無事に保護された私達は、叔父が全力で守るからと連れ出し、養子にしてくれたのだ。
叔父の家には二人の兄がいた。
そこで、私は思い出したんだ。双子の兄が時折話していた不思議な話と、何故か自分に映像に流れて来た不思議な世界を、そして、私は…
王宮地味女官、只者じゃねぇ
宵森みなと
恋愛
地味で目立たず、ただ真面目に働く王宮の女官・エミリア。
しかし彼女の正体は――剣術・魔法・語学すべてに長けた首席卒業の才女にして、実はとんでもない美貌と魔性を秘めた、“自覚なしギャップ系”最強女官だった!?
王女付き女官に任命されたその日から、運命が少しずつ動き出す。
訛りだらけのマーレン語で王女に爆笑を起こし、夜会では仮面を外した瞬間、貴族たちを騒然とさせ――
さらには北方マーレン国から訪れた黒髪の第二王子をも、一瞬で虜にしてしまう。
「おら、案内させてもらいますけんの」
その一言が、国を揺らすとは、誰が想像しただろうか。
王女リリアは言う。「エミリアがいなければ、私は生きていけぬ」
副長カイルは焦る。「このまま、他国に連れて行かれてたまるか」
ジークは葛藤する。「自分だけを見てほしいのに、届かない」
そしてレオンハルト王子は心を決める。「妻に望むなら、彼女以外はいない」
けれど――当の本人は今日も地味眼鏡で事務作業中。
王族たちの心を翻弄するのは、無自覚最強の“訛り女官”。
訛って笑いを取り、仮面で魅了し、剣で守る――
これは、彼女の“本当の顔”が王宮を変えていく、壮麗な恋と成長の物語。
★この物語は、「枯れ専モブ令嬢」の5年前のお話です。クラリスが活躍する前で、少し若いイザークとライナルトがちょっと出ます。
4番目の許婚候補
富樫 聖夜
恋愛
愛美は家出をした従姉妹の舞の代わりに結婚することになるかも、と突然告げられた。どうも昔からの約束で従姉妹の中から誰かが嫁に行かないといけないらしい。順番からいえば4番目の許婚候補なので、よもや自分に回ってくることはないと安堵した愛美だったが、偶然にも就職先は例の許婚がいる会社。所属部署も同じになってしまい、何だかいろいろバレないようにヒヤヒヤする日々を送るハメになる。おまけに関わらないように距離を置いて接していたのに例の許婚――佐伯彰人――がどういうわけか愛美に大接近。4番目の許婚候補だってバレた!? それとも――? ラブコメです。――――アルファポリス様より書籍化されました。本編削除済みです。
苦手な冷徹専務が義兄になったかと思ったら極あま顔で迫ってくるんですが、なんででしょう?~偽家族恋愛~
霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
「こちら、再婚相手の息子の仁さん」
母に紹介され、なにかの間違いだと思った。
だってそこにいたのは、私が敵視している専務だったから。
それだけでもかなりな不安案件なのに。
私の住んでいるマンションに下着泥が出た話題から、さらに。
「そうだ、仁のマンションに引っ越せばいい」
なーんて義父になる人が言い出して。
結局、反対できないまま専務と同居する羽目に。
前途多難な同居生活。
相変わらず専務はなに考えているかわからない。
……かと思えば。
「兄妹ならするだろ、これくらい」
当たり前のように落とされる、額へのキス。
いったい、どうなってんのー!?
三ツ森涼夏
24歳
大手菓子メーカー『おろち製菓』営業戦略部勤務
背が低く、振り返ったら忘れられるくらい、特徴のない顔がコンプレックス。
小1の時に両親が離婚して以来、母親を支えてきた頑張り屋さん。
たまにその頑張りが空回りすることも?
恋愛、苦手というより、嫌い。
淋しい、をちゃんと言えずにきた人。
×
八雲仁
30歳
大手菓子メーカー『おろち製菓』専務
背が高く、眼鏡のイケメン。
ただし、いつも無表情。
集中すると周りが見えなくなる。
そのことで周囲には誤解を与えがちだが、弁明する気はない。
小さい頃に母親が他界し、それ以来、ひとりで淋しさを抱えてきた人。
ふたりはちゃんと義兄妹になれるのか、それとも……!?
*****
千里専務のその後→『絶対零度の、ハーフ御曹司の愛ブルーの瞳をゲーヲタの私に溶かせとか言っています?……』
*****
表紙画像 湯弐様 pixiv ID3989101
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる