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43 火の番の女 - la femme qui éteint le feu -
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ルドヴァンの港は大きい。多くの船が停泊し、荷を運ぶ人夫で辺りはごった返し、様々な地域の方言を含んだマルス語があちこちに飛び交う中に、よくわからない言語が混じっている。
オルフィニナは人々の喧噪と潮の匂いが漂う中、一際大きな船の前に立った。目の前には、トランクを持ったエミリアがいる。
「楽しかったわ。こんなにたくさんの時間をニナと過ごしたのは本当に久しぶり」
エミリアは穏やかに目を細めた。
「本当に一人でいいのか。公爵も誰かイェリネクまで供を付けると言っていたのに、断ったんだろう。今からでも――」
「いらないわよ。わたしを誰だと思ってるの?」
エミリアが権高な調子で言うので、オルフィニナはつい苦笑した。
確かに、エミリアはアドラー家で護身術を叩き込まれている。十代で始めたにしてはかなり筋がいい方で、十五の頃には襲ってきた暴漢を一人で撃退したこともある。
「次に会うときは女王陛下ね」
エミリアは誇らしげに言った。
「イゾルフに王位を譲った後かも」
オルフィニナが笑うと、エミリアはなんとも複雑な表情で妹を見つめた。薄茶色の目に揺蕩うような光が浮かんでいる。
「あんた、母さんに似てきたわ」
慈しむように頬を撫でる姉の手は、泣きたくなるほど温かかった。声が震えそうになるのを堪え、オルフィニナは奥歯を噛んだ。
「そうかな。…父親似だと思ってた」
「陛下は確かに年の割にはイケてたけど、こんなに美形じゃなかったわよ。あんたとわたしが美人なのは母さんの血」
エミリアがピシャリと言い放った。オルフィニナは少女のようにくすくす笑って、姉を抱きしめた。
「覚えていないけど、母さんから受け継いだものがあると知れて嬉しいよ」
「顔以外にも、特に気性がね。母さんもあんたみたいに自分以外の誰かのことばかり考えていたわ。あんたも、もっと自分のために生きる道を選んだってよかったのに――」
エミリアは妹の頬を両手で挟み、愛でいっぱいの目を潤ませて精一杯に笑って見せた。
「受け継いだものを誇って。あんたの選択はいつだって正しいわ。わたしはあんたが妹で誇らしい。母さんもそう思ってる。絶対よ。だから、自分を信じて、しっかりやりなさい」
「わかった」
オルフィニナはエミリアとしばらくのあいだ抱擁を交わし、離れた。エミリアは後ろに控えていたクインに向かって両腕を広げると、その腕の中に飛び込んできた大きな義弟を抱き締めた。
「頼んだわよ、クイン」
「わかってる」
「あんたのこともすごく心配してるのよ。無茶しないでよね」
「それもわかってる」
しかし約束する気はない顔だ。エミリアは諦めたように浅い溜め息をつき、小柄な自分を抱き締めるために深く曲げた大きな背中をポンポンと叩いた。
「愛してるわ、わたしの弟」
「俺もだ、姉さん」
エミリアは今にも泣き出しそうな顔で笑った。
そして、一番最後にルキウスと握手を交わした。エミリアは、拙いマルス語でこう言った。
「アミラより西は、わたしたちに任せてください」
ルキウスは頷き、同じく拙いアミラ語で応えた。
「頼りにしている」
エミリアはニッコリ笑って大きく手を振り、船の甲板へ上がる階段を上っていった。
波の向こうへ遠ざかっていく船を言葉なく見つめ続けるオルフィニナの肩を、ルキウスは抱いた。
言葉はかけなかった。
ルキウスとオルフィニナが複数回の会合を終え、コルネール夫妻と確かな友誼を結んでルドヴァンを発ったのと同じ頃、クインの短剣は兄の元へ届けられた。
このことにイェルク本人よりも先に気付いたのは、ビルギッテだった。
ビルギッテは、既にひと月ほど前から下働きの女中としてギエリ城に潜り込んでいる。
毎朝まだ陽も昇らない早朝に城内の火を見廻り、間もなくやって来る日昇に備えて燃え尽きずに残っている火を消して回るという誰もやりたがらない当番を不承不承と見せかけて自分の受け持ちとすることに成功し、毎朝人知れず城内を窺っているのだ。自由に城の中を探るには、最適な役目だ。お陰で、城の構造や人員の配置、使われていない通路などをある程度把握することができた。
そしてこの朝、イェルク・ゾルガの間諜と思わしき男が駆けて行くのを見た。
ビルギッテもクインと同じく幼少期からベルンシュタインの訓練を受けている。足運びを見れば、同門とわかる。
男は動揺しているようだった。遠目で見たところ怪我はなさそうだが、黒い外套の裾はぼろぼろに破け、なぜか短剣を抜き身のまま手に持っている。刀身はよく磨かれて、夜明けを待つ月の鈍い光をその刃に映し、柄に結ばれた小さな石が微かに青白く発光している。――クインの剣だ。
ビルギッテの胸に小さな失望が満ちた。これが何を意味するかビルギッテはわかっている。兄に対するクインの宣戦布告だ。
(本当に裏切ったんだ)
ビルギッテが感じる怒りは、裏切りへのそれとは少し違っている。
(ニナさまの信頼を、踏みにじった)
それが全てだ。
ビルギッテは、イェルクとはほとんど関わりがない。イェルクがまだベルンシュタインとして任務に就いていた頃に数回顔を見たことがある程度で、直接の会話をしたことは皆無だ。恐らく彼はビルギッテの顔も知らないだろう。しかし、ビルギッテは、オルフィニナがイェルクを師と仰ぎ、心からの信頼を寄せて慕っていたことを知っている。
(絶対に許さない)
この瞬間、ビルギッテは明確な殺意を持った。同時に、感覚が研ぎ澄まされていく。
イェルクの裏切りがはっきりした以上は、イゾルフ王太子とミリセント王妃が危険だ。イェルク・ゾルガは現在、妻の生家の権力によってイゾルフの護衛兵長として彼らの側に仕えている。
互いの決別が明らかになった以上、時間がない。速やかに王太子と王妃に接触する必要がある。それも、一日中側についているあの狡猾な暗殺者の目を盗んで。――
「ふふ」
これはキツい任務になった。
興奮とも恐怖とも言える胸のざわつきに笑みをこぼしながら、ビルギッテは朝を迎えようとしている王宮の火を消して歩いた。
ビルギッテの決断は早い。
(今だ)
と思ったら、すぐに行動に移す。イェルクの元に間諜が戻ったのであれば、イェルクが城内にいたとしても、その報告を聞くためにイゾルフとは別の場所にいるはずだ。
イゾルフが居室として使用を許されているのは、最上階の格式高い部屋だ。王宮での優遇の代わりに、自由に城の外へは出られず、常にフレデガルの配下の目が光っている。
今も廊下と部屋の燭台に火を入れて歩くビルギッテの前に、護衛兵という名の監視役が槍を手に直立している。場所は、最上階の一際大きな扉の前――この奥に、イゾルフ王太子がいる。
「お疲れさまです」
ビルギッテが愛想良く言って眠たそうにあくびをすると、護衛兵は小さく顎を引いて自分もあくびをした。顔見知りの男だ。毎朝早朝に火の番をしているから、自然と見回り役や護衛兵と面識ができる。
「やめてくれ。あくびがうつったじゃないか」
護衛兵は苦笑しながらビルギッテに文句をつけた。
「ふふ、だって眠たいんですもの。みんな寝ている時間に仕事なんて、本当に大変」
「ああ、お互いさまだな。また押し付けられたのか」
「新参者ですし、断るのが苦手で…。これ、小腹が空いたらどうぞ」
ビルギッテはポケットから紙の包みを取り出した。情報収集のために仲良くなった厨房の料理番からもらったチョコレートが入っている。護衛兵はを告げて包みを受け取ると、今朝は特別な指示があって王太子殿下の部屋に早朝の読書用の火を入れるために来たというビルギッテの言葉を疑いなく信じて通し、扉を閉めた。
ビルギッテの才能は、これだ。地味すぎず美人過ぎない平凡な顔立ちと、どこにでもいるようなつまらない女の仮面を利用して、相手から警戒心を失わせる。
暗く広い居室の中を進み、ビルギッテは天蓋のカーテンが閉じられた寝台へ近付いた。サイドテーブルに置かれた夜の読書用の燭台の横に手燭を置き、音も無くカーテンを開け、眠っている少年の方へ身を乗り出した。
「殿下、…イゾルフ殿下」
声を掛けた瞬間、少年は弾けるように身を起こし、口を開けようとした。声を出される前にビルギッテは腕で口を押さえ、暴れ出さないようにその身体をベッドへ強く押し付けた。
「その反応、感心しました。ですが危害は加えませんのでどうか安心してください。わたしはビルギッテ。オルフィニナさまの命で動いています。声を出さないでください。…いいですね?離れますよ」
少年は目を大きく開いてこくこく頷き、ビルギッテが離れると大きく息をついてベッドに腰掛けた。
サイドテーブルに置かれた燭台の灯りがその白い頬を柔らかく照らし出した。
王太子の姿を近くで見るのは初めてだ。波打つ赤い髪はオルフィニナや亡きエギノルフ王と同じで、灰色の瞳は恐らく母方の血だろう。まだ十三歳という年齢ながら、目はどこか大人びている。
「ビルギッテ、君が姉さまの配下という証拠がある?」
ビルギッテは口元を綻ばせた。なんと、話し方が敬愛してやまないオルフィニナに似ている。離れて育ったはずなのに、意外な共通点だ。
「これのことはご存じですか?」
ビルギッテがドレスの白い裾をたくし上げ始めたので、イゾルフはギョッとした。年頃の少年らしく顔を真っ赤にしている。が、左腿の外側に彫られた咆哮する狼の刺青を見ると、その目から恥じらいが消えた。
「ベルンシュタイン――狼の目。…王の目となり、手となる存在。って、父上が話してくれたことがある」
「その通りです、殿下。わたしはニナさまのベルンシュタイン。あなたを守るためにここにいます」
「ベルンシュタインは王に仕えるんでしょ?姉さまが次の国王になるの?」
「それとこれとは別の話です。他の方がアミラの国王になったとしても、わたしの王はニナさまだけ。そういう話です」
「そうなんだね」
イゾルフは微かに笑って見せた。オルフィニナを慕う者の気持ちの強さを、この少年もなんとなく知っているのだ。
「でも、僕の側にはイェルクがいるよ」
「ですがイェルクはあなたではなくフレデガルのために動いています。これがどういう意味かおわかりですね?」
イゾルフは小さく頷いた。瞳にじわじわと失望が広がっていくのがわかる。言うべきか、と躊躇したが、ビルギッテはできるだけ無感情に口を開いた。
「お気持ちはわかりますが、そのように感情を露わにしてはいけません、殿下。御身のために」
ビルギッテの忠告は、イゾルフの王族としての自尊心を刺激した。イゾルフは唇を引き結んで強い視線をビルギッテに向けた。
(ああ、この目――)
今度はビルギッテが泣きたくなった。身を投げ出して膝をつき、その手に忠誠の口付けをしたい衝動に駆られるほどの、鮮烈な啓示だ。
ビルギッテにとって唯一の主君オルフィニナと同じ目をしている。
だが、今はそんなことに気を取られてはいられない。あまり長くかかるとあの呑気な護衛兵でも不審に思うだろう。
「あなたとお母上が危険です。ニナさまからは何かあればあなたと王妃殿下を西へ逃がせと命令を受けています。折を見て、連れ出します。それまでどうか、イェルク・ゾルガには気をつけてください。わたしが殿下を近くでお守りするには、限界がありますから、お願いです。ご自分の身を守ることを第一に考えてください」
「…確かなの?」
まだ疑っている。が、混乱はしていない。利発な少年だ。ビルギッテは正直もっと取り乱すか、全く信じないと思っていた。
「確かです。ニナさまへ放った間諜が返り討ちに遭って戻ってきました。フレデガルがあなたを安全に手元に置いておく時期は間もなく終わります。どうか王妃殿下にも内密にお伝えを」
イゾルフは頷いた。この少年は、既に自分の身に何が降りかかっているか正しく理解している。
「姉さまは無事なの?エマンシュナの王太子に連れて行かれたって聞いた」
「ええ。エマンシュナの王太子は信頼できる人物だと聞いています」
「…姉さまがそう言うなら、信じる」
イゾルフは言った。
「君は僕と母をここから出せる?」
「命に替えても。お約束します」
「じゃあ作戦を練ろう。君とはどうやって連絡を取ったらいい?」
ビルギッテは胸の内を何かがざわざわと騒ぐのを感じた。今までオルフィニナにしか感じたことのない、興奮にも似た何かだ。この少年は間違いなく聡明だ。心に、オルフィニナと同じものを持っている。
「毎朝火の番で見回りに来ます。そのたびに本を所望してください。直接的な手紙を挟むとかはダメです」
「それくらいわかるよ。馬鹿じゃない」
イゾルフが頬を膨らませた。
「ただの目線合わせです、殿下」
ビルギッテがくすくす笑って言った。
「僕、姉さまに会いたい」
「わたしもです」
ビルギッテは微笑した。
同じ頃、同じ城の一つ下の階で、間諜から短剣を受け取った男がいる。
「わたしに届けるよう言われたか。暗い髪の男に」
男は明るい栗色の髪を軍人らしく短く切り揃え、この早朝から一分の隙もないような堂々たる軍装で窓際に立ち、短剣を燭台の灯りに照らしている。
「は、はい、閣下」
間諜は細い声で答えた。
「報告を聞く」
黒服の従者が鞘と柄に美しい竜の装飾が施された長い剣を持ってくると、男――イェルク・ゾルガ将軍は短剣を執務机に無造作に置き、自分の剣を受け取って腰に差した。
淡い灰色の瞳が、蝋燭の火を映して獣のように光った。
オルフィニナは人々の喧噪と潮の匂いが漂う中、一際大きな船の前に立った。目の前には、トランクを持ったエミリアがいる。
「楽しかったわ。こんなにたくさんの時間をニナと過ごしたのは本当に久しぶり」
エミリアは穏やかに目を細めた。
「本当に一人でいいのか。公爵も誰かイェリネクまで供を付けると言っていたのに、断ったんだろう。今からでも――」
「いらないわよ。わたしを誰だと思ってるの?」
エミリアが権高な調子で言うので、オルフィニナはつい苦笑した。
確かに、エミリアはアドラー家で護身術を叩き込まれている。十代で始めたにしてはかなり筋がいい方で、十五の頃には襲ってきた暴漢を一人で撃退したこともある。
「次に会うときは女王陛下ね」
エミリアは誇らしげに言った。
「イゾルフに王位を譲った後かも」
オルフィニナが笑うと、エミリアはなんとも複雑な表情で妹を見つめた。薄茶色の目に揺蕩うような光が浮かんでいる。
「あんた、母さんに似てきたわ」
慈しむように頬を撫でる姉の手は、泣きたくなるほど温かかった。声が震えそうになるのを堪え、オルフィニナは奥歯を噛んだ。
「そうかな。…父親似だと思ってた」
「陛下は確かに年の割にはイケてたけど、こんなに美形じゃなかったわよ。あんたとわたしが美人なのは母さんの血」
エミリアがピシャリと言い放った。オルフィニナは少女のようにくすくす笑って、姉を抱きしめた。
「覚えていないけど、母さんから受け継いだものがあると知れて嬉しいよ」
「顔以外にも、特に気性がね。母さんもあんたみたいに自分以外の誰かのことばかり考えていたわ。あんたも、もっと自分のために生きる道を選んだってよかったのに――」
エミリアは妹の頬を両手で挟み、愛でいっぱいの目を潤ませて精一杯に笑って見せた。
「受け継いだものを誇って。あんたの選択はいつだって正しいわ。わたしはあんたが妹で誇らしい。母さんもそう思ってる。絶対よ。だから、自分を信じて、しっかりやりなさい」
「わかった」
オルフィニナはエミリアとしばらくのあいだ抱擁を交わし、離れた。エミリアは後ろに控えていたクインに向かって両腕を広げると、その腕の中に飛び込んできた大きな義弟を抱き締めた。
「頼んだわよ、クイン」
「わかってる」
「あんたのこともすごく心配してるのよ。無茶しないでよね」
「それもわかってる」
しかし約束する気はない顔だ。エミリアは諦めたように浅い溜め息をつき、小柄な自分を抱き締めるために深く曲げた大きな背中をポンポンと叩いた。
「愛してるわ、わたしの弟」
「俺もだ、姉さん」
エミリアは今にも泣き出しそうな顔で笑った。
そして、一番最後にルキウスと握手を交わした。エミリアは、拙いマルス語でこう言った。
「アミラより西は、わたしたちに任せてください」
ルキウスは頷き、同じく拙いアミラ語で応えた。
「頼りにしている」
エミリアはニッコリ笑って大きく手を振り、船の甲板へ上がる階段を上っていった。
波の向こうへ遠ざかっていく船を言葉なく見つめ続けるオルフィニナの肩を、ルキウスは抱いた。
言葉はかけなかった。
ルキウスとオルフィニナが複数回の会合を終え、コルネール夫妻と確かな友誼を結んでルドヴァンを発ったのと同じ頃、クインの短剣は兄の元へ届けられた。
このことにイェルク本人よりも先に気付いたのは、ビルギッテだった。
ビルギッテは、既にひと月ほど前から下働きの女中としてギエリ城に潜り込んでいる。
毎朝まだ陽も昇らない早朝に城内の火を見廻り、間もなくやって来る日昇に備えて燃え尽きずに残っている火を消して回るという誰もやりたがらない当番を不承不承と見せかけて自分の受け持ちとすることに成功し、毎朝人知れず城内を窺っているのだ。自由に城の中を探るには、最適な役目だ。お陰で、城の構造や人員の配置、使われていない通路などをある程度把握することができた。
そしてこの朝、イェルク・ゾルガの間諜と思わしき男が駆けて行くのを見た。
ビルギッテもクインと同じく幼少期からベルンシュタインの訓練を受けている。足運びを見れば、同門とわかる。
男は動揺しているようだった。遠目で見たところ怪我はなさそうだが、黒い外套の裾はぼろぼろに破け、なぜか短剣を抜き身のまま手に持っている。刀身はよく磨かれて、夜明けを待つ月の鈍い光をその刃に映し、柄に結ばれた小さな石が微かに青白く発光している。――クインの剣だ。
ビルギッテの胸に小さな失望が満ちた。これが何を意味するかビルギッテはわかっている。兄に対するクインの宣戦布告だ。
(本当に裏切ったんだ)
ビルギッテが感じる怒りは、裏切りへのそれとは少し違っている。
(ニナさまの信頼を、踏みにじった)
それが全てだ。
ビルギッテは、イェルクとはほとんど関わりがない。イェルクがまだベルンシュタインとして任務に就いていた頃に数回顔を見たことがある程度で、直接の会話をしたことは皆無だ。恐らく彼はビルギッテの顔も知らないだろう。しかし、ビルギッテは、オルフィニナがイェルクを師と仰ぎ、心からの信頼を寄せて慕っていたことを知っている。
(絶対に許さない)
この瞬間、ビルギッテは明確な殺意を持った。同時に、感覚が研ぎ澄まされていく。
イェルクの裏切りがはっきりした以上は、イゾルフ王太子とミリセント王妃が危険だ。イェルク・ゾルガは現在、妻の生家の権力によってイゾルフの護衛兵長として彼らの側に仕えている。
互いの決別が明らかになった以上、時間がない。速やかに王太子と王妃に接触する必要がある。それも、一日中側についているあの狡猾な暗殺者の目を盗んで。――
「ふふ」
これはキツい任務になった。
興奮とも恐怖とも言える胸のざわつきに笑みをこぼしながら、ビルギッテは朝を迎えようとしている王宮の火を消して歩いた。
ビルギッテの決断は早い。
(今だ)
と思ったら、すぐに行動に移す。イェルクの元に間諜が戻ったのであれば、イェルクが城内にいたとしても、その報告を聞くためにイゾルフとは別の場所にいるはずだ。
イゾルフが居室として使用を許されているのは、最上階の格式高い部屋だ。王宮での優遇の代わりに、自由に城の外へは出られず、常にフレデガルの配下の目が光っている。
今も廊下と部屋の燭台に火を入れて歩くビルギッテの前に、護衛兵という名の監視役が槍を手に直立している。場所は、最上階の一際大きな扉の前――この奥に、イゾルフ王太子がいる。
「お疲れさまです」
ビルギッテが愛想良く言って眠たそうにあくびをすると、護衛兵は小さく顎を引いて自分もあくびをした。顔見知りの男だ。毎朝早朝に火の番をしているから、自然と見回り役や護衛兵と面識ができる。
「やめてくれ。あくびがうつったじゃないか」
護衛兵は苦笑しながらビルギッテに文句をつけた。
「ふふ、だって眠たいんですもの。みんな寝ている時間に仕事なんて、本当に大変」
「ああ、お互いさまだな。また押し付けられたのか」
「新参者ですし、断るのが苦手で…。これ、小腹が空いたらどうぞ」
ビルギッテはポケットから紙の包みを取り出した。情報収集のために仲良くなった厨房の料理番からもらったチョコレートが入っている。護衛兵はを告げて包みを受け取ると、今朝は特別な指示があって王太子殿下の部屋に早朝の読書用の火を入れるために来たというビルギッテの言葉を疑いなく信じて通し、扉を閉めた。
ビルギッテの才能は、これだ。地味すぎず美人過ぎない平凡な顔立ちと、どこにでもいるようなつまらない女の仮面を利用して、相手から警戒心を失わせる。
暗く広い居室の中を進み、ビルギッテは天蓋のカーテンが閉じられた寝台へ近付いた。サイドテーブルに置かれた夜の読書用の燭台の横に手燭を置き、音も無くカーテンを開け、眠っている少年の方へ身を乗り出した。
「殿下、…イゾルフ殿下」
声を掛けた瞬間、少年は弾けるように身を起こし、口を開けようとした。声を出される前にビルギッテは腕で口を押さえ、暴れ出さないようにその身体をベッドへ強く押し付けた。
「その反応、感心しました。ですが危害は加えませんのでどうか安心してください。わたしはビルギッテ。オルフィニナさまの命で動いています。声を出さないでください。…いいですね?離れますよ」
少年は目を大きく開いてこくこく頷き、ビルギッテが離れると大きく息をついてベッドに腰掛けた。
サイドテーブルに置かれた燭台の灯りがその白い頬を柔らかく照らし出した。
王太子の姿を近くで見るのは初めてだ。波打つ赤い髪はオルフィニナや亡きエギノルフ王と同じで、灰色の瞳は恐らく母方の血だろう。まだ十三歳という年齢ながら、目はどこか大人びている。
「ビルギッテ、君が姉さまの配下という証拠がある?」
ビルギッテは口元を綻ばせた。なんと、話し方が敬愛してやまないオルフィニナに似ている。離れて育ったはずなのに、意外な共通点だ。
「これのことはご存じですか?」
ビルギッテがドレスの白い裾をたくし上げ始めたので、イゾルフはギョッとした。年頃の少年らしく顔を真っ赤にしている。が、左腿の外側に彫られた咆哮する狼の刺青を見ると、その目から恥じらいが消えた。
「ベルンシュタイン――狼の目。…王の目となり、手となる存在。って、父上が話してくれたことがある」
「その通りです、殿下。わたしはニナさまのベルンシュタイン。あなたを守るためにここにいます」
「ベルンシュタインは王に仕えるんでしょ?姉さまが次の国王になるの?」
「それとこれとは別の話です。他の方がアミラの国王になったとしても、わたしの王はニナさまだけ。そういう話です」
「そうなんだね」
イゾルフは微かに笑って見せた。オルフィニナを慕う者の気持ちの強さを、この少年もなんとなく知っているのだ。
「でも、僕の側にはイェルクがいるよ」
「ですがイェルクはあなたではなくフレデガルのために動いています。これがどういう意味かおわかりですね?」
イゾルフは小さく頷いた。瞳にじわじわと失望が広がっていくのがわかる。言うべきか、と躊躇したが、ビルギッテはできるだけ無感情に口を開いた。
「お気持ちはわかりますが、そのように感情を露わにしてはいけません、殿下。御身のために」
ビルギッテの忠告は、イゾルフの王族としての自尊心を刺激した。イゾルフは唇を引き結んで強い視線をビルギッテに向けた。
(ああ、この目――)
今度はビルギッテが泣きたくなった。身を投げ出して膝をつき、その手に忠誠の口付けをしたい衝動に駆られるほどの、鮮烈な啓示だ。
ビルギッテにとって唯一の主君オルフィニナと同じ目をしている。
だが、今はそんなことに気を取られてはいられない。あまり長くかかるとあの呑気な護衛兵でも不審に思うだろう。
「あなたとお母上が危険です。ニナさまからは何かあればあなたと王妃殿下を西へ逃がせと命令を受けています。折を見て、連れ出します。それまでどうか、イェルク・ゾルガには気をつけてください。わたしが殿下を近くでお守りするには、限界がありますから、お願いです。ご自分の身を守ることを第一に考えてください」
「…確かなの?」
まだ疑っている。が、混乱はしていない。利発な少年だ。ビルギッテは正直もっと取り乱すか、全く信じないと思っていた。
「確かです。ニナさまへ放った間諜が返り討ちに遭って戻ってきました。フレデガルがあなたを安全に手元に置いておく時期は間もなく終わります。どうか王妃殿下にも内密にお伝えを」
イゾルフは頷いた。この少年は、既に自分の身に何が降りかかっているか正しく理解している。
「姉さまは無事なの?エマンシュナの王太子に連れて行かれたって聞いた」
「ええ。エマンシュナの王太子は信頼できる人物だと聞いています」
「…姉さまがそう言うなら、信じる」
イゾルフは言った。
「君は僕と母をここから出せる?」
「命に替えても。お約束します」
「じゃあ作戦を練ろう。君とはどうやって連絡を取ったらいい?」
ビルギッテは胸の内を何かがざわざわと騒ぐのを感じた。今までオルフィニナにしか感じたことのない、興奮にも似た何かだ。この少年は間違いなく聡明だ。心に、オルフィニナと同じものを持っている。
「毎朝火の番で見回りに来ます。そのたびに本を所望してください。直接的な手紙を挟むとかはダメです」
「それくらいわかるよ。馬鹿じゃない」
イゾルフが頬を膨らませた。
「ただの目線合わせです、殿下」
ビルギッテがくすくす笑って言った。
「僕、姉さまに会いたい」
「わたしもです」
ビルギッテは微笑した。
同じ頃、同じ城の一つ下の階で、間諜から短剣を受け取った男がいる。
「わたしに届けるよう言われたか。暗い髪の男に」
男は明るい栗色の髪を軍人らしく短く切り揃え、この早朝から一分の隙もないような堂々たる軍装で窓際に立ち、短剣を燭台の灯りに照らしている。
「は、はい、閣下」
間諜は細い声で答えた。
「報告を聞く」
黒服の従者が鞘と柄に美しい竜の装飾が施された長い剣を持ってくると、男――イェルク・ゾルガ将軍は短剣を執務机に無造作に置き、自分の剣を受け取って腰に差した。
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副長カイルは焦る。「このまま、他国に連れて行かれてたまるか」
ジークは葛藤する。「自分だけを見てほしいのに、届かない」
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