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34 伸るか反るか - courir ou mourir -
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アルヴィーゼ・コルネールは思案している。
ルキウスの王位継承を後押しするのはいい。もとより狡猾なヴァレル・アストルなどに戴冠させる気など微塵もない。
これまで積極的に国王になる道を進もうとする気配のなかったルキウスが、ようやくその気になったのだ。コルネールの総力を持って彼を擁立する準備はできている。
問題は、オルフィニナ・ドレクセンだ。
果たして彼女がアミラの女王たる器か、更には未来の王妃としてコルネールが命運を共にすべき相手か、アルヴィーゼは知らない。なるほどオルフィニナは間違いなくルキウスの人生を変えようとしている。が、それは国王の器とはまた別の問題だ。
かと言って、日和見にばかり時間を無駄にするのはコルネールの流儀ではない。
(まあ、いい)
アルヴィーゼは琥珀色のグラスの中の蒸留酒を飲み干し、ソファから立ち上がって寝衣の上に羽織っていたローブを脱いだ。
(知らねば測ればよいことだ)
足を向けた先のベッドで、イオネがすやすやと眠っている。
燭台の火を吹き消し、ベッドを小さく軋ませてアルヴィーゼが腰掛けた時、イオネが小さく唸って長い睫毛を震わせ、目蓋を開いた。
「起こしたか」
アルヴィーゼは妻の頬にそっと触れた。半分眠っているはずの顔が、あまつさえ暗がりにあってこれほど美しいとは、夫婦となって七年経つというのに、この女がますます不思議な存在に思える。
「…考えごと?」
眠たそうな声でイオネが訊ねた。
「寝ていたのに分かるのか?」
アルヴィーゼは布団に潜り込み、イオネの温かい身体を腕に包んだ。イオネが心地よさそうに目を細める。
「音がしていたわ。あなたが考える音」
「なんだそれは」
アルヴィーゼは柔らかく笑った。
「聞こえるものよ。ずっとそばにいると」
すり、とイオネがアルヴィーゼの胸に頬を寄せた。人前でキスをすると怒るくせに、二人きりの時だけはこういうふうにしどけけなく甘えてくる。
愛おしい。
夜闇の中にあっても、イオネの全てが光に満ちている。汚泥に塗れた政争などに、この愛しい女と子供たちを触れさせたくはない。
アルヴィーゼはスミレのような柔らかな香りを放つ妻の髪にキスをし、胎の子まで包み込むようにイオネの身体を抱きしめた。イオネもその広い背に腕を回し、いつになく憂鬱そうな夫をきつく抱きしめた。
「大丈夫よ、アルヴィーゼ。わたしたちはコルネールのなすべきことをしましょう」
「お見通しか」
「音が聞こえていたって言ったでしょう」
イオネはくすくす笑った。
「それにわたし、ニナがとっても好きになったの。聡明で高潔な女性だわ。公平な考え方を知っているし、それを実行しようと常に考えてる。わたしたちの命運を預ける価値があると思っているわ」
アルヴィーゼはイオネのキラキラ光る目を覗き込んだ。イオネが言うなら、すべてうまく行く気がしてくる。
イオネは柔らかく笑んで、ふっくらした官能的な唇でアルヴィーゼの唇に触れた。
「でもこれはわたしの意見。あなた自身の目で見極めて。わたしが大丈夫だと思って、あなたも大丈夫だと思ったら、もうそれでじゅうぶんよ」
アルヴィーゼはいつものように不遜な笑いを見せた。
「だな」
「ね。じゃあ、おやすみなさい」
イオネが腕の中で再び目を閉じようとしたのを、アルヴィーゼは許さなかった。
顎を掴んで上を向かせ、唇を奪った。それも、ひどく淫らなキスだ。舌が口の中の快感を探すように這い、否応なしにイオネの呼吸が熱くなる。
「ん、ん…。もう、アルヴィーゼ」
「身体に障らないようにゆっくりするから、許せ」
と言い終わったときには、アルヴィーゼの指は既にイオネの寝衣の下を這っている。
「もう眠いのに…」
「誘惑したのはお前だ」
「あっ…、ちょっと――」
イオネの弱々しい抗議はアルヴィーゼの唇に飲み込まれ、やがて密やかな笑い声と甘い吐息に変わった。
翌朝、朝食会が開かれた。
王太子側近のバルタザルをはじめ、女公の騎士クインと侍女のスリーズも同席を許された。同じく、アルヴィーゼの側近ドミニク、イオネの侍女ソニアも同席している。「せっかくだからみんなで親睦を深めましょう」という女主人イオネの計らいだ。
コルネール夫妻、公爵の弟と子供たち、更にその世話係の侍女たちに加えて、家族同然に過ごしている側近たちが食卓を共にすることになったので、賑やかな食事会となった。
オルフィニナの両隣はスリーズとクイン、その対面に、コルネールの子供たちに挟まれたルキウスが座り、更にその隣に公爵夫妻が席を連ねている。ルキウスがクインとスリーズにオルフィニナの隣を奪われたのは、コルネールの公子たちが王太子殿下と一緒に座りたいとキラキラした目でせがんだためだ。
スリーズはオルフィニナの身支度を張り切ってしていたが、まさか自分もこの場に同席することになるとは思ってもいなかったのだろう。手足が見えない糸に吊られているように挙動が不自然だ。オルフィニナがテーブルの下でそっと手をぽんぽんと叩いてやると、ようやく背筋を伸ばして呼吸を落ち着かせた。
バルタザルは、隣のクインとはずっと目を合わせようとしない。クインがオルデンに発つ前は多少互いへの警戒心が解けていたように見えたのに、今はルースへ来た当初に戻ってしまったように二人の空気はピリピリとしている。
「お前、何かした?」
オルフィニナは香ばしいパンを一切れ手に取りながら、隣に行儀良く座るクインに向かって声を潜めた。
「あんた、俺を何だと思ってるんだ」
クインは文句を言いながらオルフィニナに瓶に入った桃のジャムを取ってやった。用意されたもののうち、オルフィニナがどれを最初に選ぶか、クインは息をするような自然さで理解している。
「お前は昔から身の回りで争いが起きやすいから」
オルフィニナは十年くらい前に女性同士がクインを取り合ってつかみ合いの喧嘩をしていたことを思い出したが、あれは思春期の頃の話だし、スリーズとバルタザルがクインを取り合う構図は無理がある。クインとバルタザルがスリーズを取り合う構図も、やはり想像できない。
「何を思い出してるか知りたくもないが、俺は‘キルシェ’とバルタザルにこれから起こることを話しただけだ」
「‘スリーズ’だよ」
「あんたが最初にキルシェと呼んだんだぞ。それに‘スリーズ’も‘ピュジェ’も言いにくい」
オルフィニナは「わかった」と言わんばかりに両手を上げてくすくす笑った。確かに‘スリーズ・ピュジェ’はアミラ人には発音しづらい名前だ。
それにしても、バルタザルも知らなかったとは、少々意外だ。
「ルキウスは腹心にもなかなか腹の内を明かさないんだな。疲れそうだ」
が、それもルキウスらしい。
オルフィニナは向かいの席で子供たちに囲まれているルキウスをチラリと見た。どうやら二人から別々の質問をあれこれとされているようだ。
「あんたがそんなふうにルキウス・アストルを気遣うとは、仲良くなったもんだな」
クインは揶揄するような調子で言った。ルキウスのことを話す時のオルフィニナの顔は、明らかに以前とは違う。
「そう妬くな。お前のことは一番に信頼してるよ」
オルフィニナは桃のジャムを塗ったパンを口に運びながら、クインの脇を肘で小突いて屈託なく笑った。まったく、無邪気なものだ。この言葉の残酷さに気づいていない。
「仲がいいのね」
二人の様子を見ていたイオネが朗らかに笑った。
「クインとは兄妹も同然に育ったんだ。今も兄と思ってる」
オルフィニナは機嫌良くクインの無愛想な顔に笑いかけた。
「ほう。道理で気心が知れているわけだな」
アルヴィーゼが唇を吊り上げてルキウスを見た。先ほどからオクタヴィンやニケがオオカミと遊んだことや最近のお気に入りの本について話しかけても気もそぞろに生返事をして、クインと楽しげに話すオルフィニナにばかり神経を割いている。
「そうだ。ニナとアドラーは家族だからな」
ルキウスが殊更に「家族」という部分を強調して言うと、アルヴィーゼは不遜に目を細めた。
「それで、女公殿下――いや、女王陛下と呼ぶべきか」
このアルヴィーゼの一言で、この場に緊張が走った。
オルフィニナはアルヴィーゼの刺すような視線を受け止め、穏やかに目を細めた。
(この目…)
笑いが込み上げてくる。
ツークリエン山の陣幕で初めて対峙したときのルキウスの目と、そっくり同じだ。
オルフィニナは静かに口を開いた。
「そう呼ばれる覚悟はできている。だがあなたがたはどうだ」
コルネールが自分をアミラ女王と認める覚悟ができているのか。と、挑発しているのだ。危険な賭けであることに変わりはない。
「自分にその価値があると思っているか」
アルヴィーゼは答えず、重ねて訊いた。
ふ、とオルフィニナが笑った。
「わたしの価値を決めるのはあなたがただ。わたしにとってはそれほど重要じゃない」
‘西方の王’アルヴィーゼは、依然として鋭い視線をオルフィニナに送っている。
ルキウスはこの様子を寛いだ様子で見守っている。アルヴィーゼがこんなことを聞くのは、計画に乗るつもりがあるからだ。
「だが、やると決めたからにはやる。祖先が始め、叔父が再燃させたこの戦を、わたしたちの代で永遠に終わらせる。そのためには、叔父に王冠を被せるわけにはいかない。そちらの身内に対して悪いが、レオニード王の従弟殿も簒奪に加担している限り容赦はしない。ルキウスとのことも、もうやめるつもりはない。この男を――」
オルフィニナはルキウスの目を見た。こちらを見つめ返す緑色の目は、愉しそうだ。
「――わたしの夫にすると決めた」
「で、失敗したらみな道連れか」
アルヴィーゼは冷たい声色で言った。オルフィニナは傲岸にも顎を上げ、嘲弄するような目で公爵を見た。
「ルドヴァン公爵ともあろうものが、失敗を恐れるとはね。案外肝が小さいのだな」
くっ、とルキウスが失笑した。この国で王族の次に権威を持つルドヴァン公爵にそんなことを言えるのは、オルフィニナくらいのものだ。
「家族と家臣の命がかかっている。勝算もない賭けに身を投じるほど愚鈍ではない」
「‘中立’を言い訳に正しい行いを為す機を逃すのと、どちらが愚鈍かな。わたしとは判断基準が違うのだろうが、それがコルネールの流儀なら、それまでの家ということだろう」
オルフィニナはアルヴィーゼよりも不遜な笑みを浮かべて、椅子の背もたれにゆったりと背を預けた。
「だがわたしはあなたがたに損はさせないと約束する。人の面も、金の面もね。生産性のないことは嫌いだ」
「ふ」
アルヴィーゼが笑った。
「生産性」
「あなたの好きな言葉ね」
イオネが夫の腕に触れて嫣然と笑った。
「…まあ、いいだろう」
アルヴィーゼがオルフィニナとルキウスの顔を交互に眺めて言った。
「使われてやる。後悔させるな」
オルフィニナはニヤリと笑ってコーヒーの入ったカップを掲げた。朝食の席に酒はないから、酒杯の代わりだ。次に、ルキウスの顔を見た時、心に小さな動揺が生まれた。その目の奥に、何かが見えたからだ。
「ニナ、ニナ。ニケのパンにもモモのジャムぬって」
と、この幼女の一言で場の空気が一変した。
ニケがふくふくした指で差した先に、オルフィニナが先ほど桃のジャムを塗ったパンが置いてある。
ルキウスとアルヴィーゼがくつくつと笑い出し、イオネも「こら」などと言いながらおかしそうに唇に弧を描かせた。
「ニケ。ニナはソニアじゃないのよ」
イオネが幼い娘を窘めると、ニケはくりくりした緑の目を母親に向け、可愛らしい声で反駁した。
「そうだよ。ニナだよ」
そんなことはわかっている。と言うのだ。
「ニナのぬったジャムがおいしそうなの」
周囲で気を利かせたイオネの侍女のソニアとアルヴィーゼの側近ドミニクとスリーズが一斉に立ち上がろうとしたが、オルフィニナが手を上げて彼らを制し、快活に笑って自らパンを取った。
「いいよ、ニケ。かわいらしい友達の手伝いは嬉しい」
ニケは脚をパタパタさせてにこにこ笑った。
オルフィニナがパンにジャムを塗ってやり、それを乗せた皿を手に席を立って、向かいの席のルキウスの後ろを通り、その隣のニケのそばまでやってきた。
「ありがと、ニナ。ニケ、ニナだいすき」
「ふふ。ありがとう。わたしもあなたが好きだよ」
オルフィニナは胸のくすぐったさに破顔してニケの頭をくりくりとこねくり回した。
「ニナ、あのね…」
「うん?」
ニケが声を小さくしたので、オルフィニナは腰を屈めて耳を小さな公女に近付けた。
「リュカでんかも、ニナのことだいすきなんだって。だからでんかともなかよくしてあげてね。ニケが好きな子にはやさしくするといいのよっておしえてあげたから、ニナにもやさしくしてくれるよ」
オルフィニナは目を丸くして、柄にもなく反応に困ってしまった。
しかも、とてもヒソヒソ話とは言えない声量だ。みな笑いを堪えきれていない。スリーズなどは笑いを噛み殺すこともなく、ころころと笑い声をあげている。
それとなく隣に視線を移すと、ルキウスが何とも言えずバツが悪そうな顔をしていた。
「…ニケ、それ、全部聞こえてる」
ルキウスは唇を歪にひくりとさせて幼い公女の頬をつつき、オルフィニナの背を流れる赤い髪にそっと触れた。
オルフィニナは、手を握られたように錯覚した。触れられたはずもないのに、手が熱い。
この日、ルドヴァンに珍客が現れた。
鳶色の髪にハシバミ色の目をした婦人だ。上流階級の貴婦人のようなのに、供を付けず、一人でコルネール城の門前に佇んでいる。
そして、奇妙なことに、公用語のマルス語が話せない。
ルキウスの王位継承を後押しするのはいい。もとより狡猾なヴァレル・アストルなどに戴冠させる気など微塵もない。
これまで積極的に国王になる道を進もうとする気配のなかったルキウスが、ようやくその気になったのだ。コルネールの総力を持って彼を擁立する準備はできている。
問題は、オルフィニナ・ドレクセンだ。
果たして彼女がアミラの女王たる器か、更には未来の王妃としてコルネールが命運を共にすべき相手か、アルヴィーゼは知らない。なるほどオルフィニナは間違いなくルキウスの人生を変えようとしている。が、それは国王の器とはまた別の問題だ。
かと言って、日和見にばかり時間を無駄にするのはコルネールの流儀ではない。
(まあ、いい)
アルヴィーゼは琥珀色のグラスの中の蒸留酒を飲み干し、ソファから立ち上がって寝衣の上に羽織っていたローブを脱いだ。
(知らねば測ればよいことだ)
足を向けた先のベッドで、イオネがすやすやと眠っている。
燭台の火を吹き消し、ベッドを小さく軋ませてアルヴィーゼが腰掛けた時、イオネが小さく唸って長い睫毛を震わせ、目蓋を開いた。
「起こしたか」
アルヴィーゼは妻の頬にそっと触れた。半分眠っているはずの顔が、あまつさえ暗がりにあってこれほど美しいとは、夫婦となって七年経つというのに、この女がますます不思議な存在に思える。
「…考えごと?」
眠たそうな声でイオネが訊ねた。
「寝ていたのに分かるのか?」
アルヴィーゼは布団に潜り込み、イオネの温かい身体を腕に包んだ。イオネが心地よさそうに目を細める。
「音がしていたわ。あなたが考える音」
「なんだそれは」
アルヴィーゼは柔らかく笑った。
「聞こえるものよ。ずっとそばにいると」
すり、とイオネがアルヴィーゼの胸に頬を寄せた。人前でキスをすると怒るくせに、二人きりの時だけはこういうふうにしどけけなく甘えてくる。
愛おしい。
夜闇の中にあっても、イオネの全てが光に満ちている。汚泥に塗れた政争などに、この愛しい女と子供たちを触れさせたくはない。
アルヴィーゼはスミレのような柔らかな香りを放つ妻の髪にキスをし、胎の子まで包み込むようにイオネの身体を抱きしめた。イオネもその広い背に腕を回し、いつになく憂鬱そうな夫をきつく抱きしめた。
「大丈夫よ、アルヴィーゼ。わたしたちはコルネールのなすべきことをしましょう」
「お見通しか」
「音が聞こえていたって言ったでしょう」
イオネはくすくす笑った。
「それにわたし、ニナがとっても好きになったの。聡明で高潔な女性だわ。公平な考え方を知っているし、それを実行しようと常に考えてる。わたしたちの命運を預ける価値があると思っているわ」
アルヴィーゼはイオネのキラキラ光る目を覗き込んだ。イオネが言うなら、すべてうまく行く気がしてくる。
イオネは柔らかく笑んで、ふっくらした官能的な唇でアルヴィーゼの唇に触れた。
「でもこれはわたしの意見。あなた自身の目で見極めて。わたしが大丈夫だと思って、あなたも大丈夫だと思ったら、もうそれでじゅうぶんよ」
アルヴィーゼはいつものように不遜な笑いを見せた。
「だな」
「ね。じゃあ、おやすみなさい」
イオネが腕の中で再び目を閉じようとしたのを、アルヴィーゼは許さなかった。
顎を掴んで上を向かせ、唇を奪った。それも、ひどく淫らなキスだ。舌が口の中の快感を探すように這い、否応なしにイオネの呼吸が熱くなる。
「ん、ん…。もう、アルヴィーゼ」
「身体に障らないようにゆっくりするから、許せ」
と言い終わったときには、アルヴィーゼの指は既にイオネの寝衣の下を這っている。
「もう眠いのに…」
「誘惑したのはお前だ」
「あっ…、ちょっと――」
イオネの弱々しい抗議はアルヴィーゼの唇に飲み込まれ、やがて密やかな笑い声と甘い吐息に変わった。
翌朝、朝食会が開かれた。
王太子側近のバルタザルをはじめ、女公の騎士クインと侍女のスリーズも同席を許された。同じく、アルヴィーゼの側近ドミニク、イオネの侍女ソニアも同席している。「せっかくだからみんなで親睦を深めましょう」という女主人イオネの計らいだ。
コルネール夫妻、公爵の弟と子供たち、更にその世話係の侍女たちに加えて、家族同然に過ごしている側近たちが食卓を共にすることになったので、賑やかな食事会となった。
オルフィニナの両隣はスリーズとクイン、その対面に、コルネールの子供たちに挟まれたルキウスが座り、更にその隣に公爵夫妻が席を連ねている。ルキウスがクインとスリーズにオルフィニナの隣を奪われたのは、コルネールの公子たちが王太子殿下と一緒に座りたいとキラキラした目でせがんだためだ。
スリーズはオルフィニナの身支度を張り切ってしていたが、まさか自分もこの場に同席することになるとは思ってもいなかったのだろう。手足が見えない糸に吊られているように挙動が不自然だ。オルフィニナがテーブルの下でそっと手をぽんぽんと叩いてやると、ようやく背筋を伸ばして呼吸を落ち着かせた。
バルタザルは、隣のクインとはずっと目を合わせようとしない。クインがオルデンに発つ前は多少互いへの警戒心が解けていたように見えたのに、今はルースへ来た当初に戻ってしまったように二人の空気はピリピリとしている。
「お前、何かした?」
オルフィニナは香ばしいパンを一切れ手に取りながら、隣に行儀良く座るクインに向かって声を潜めた。
「あんた、俺を何だと思ってるんだ」
クインは文句を言いながらオルフィニナに瓶に入った桃のジャムを取ってやった。用意されたもののうち、オルフィニナがどれを最初に選ぶか、クインは息をするような自然さで理解している。
「お前は昔から身の回りで争いが起きやすいから」
オルフィニナは十年くらい前に女性同士がクインを取り合ってつかみ合いの喧嘩をしていたことを思い出したが、あれは思春期の頃の話だし、スリーズとバルタザルがクインを取り合う構図は無理がある。クインとバルタザルがスリーズを取り合う構図も、やはり想像できない。
「何を思い出してるか知りたくもないが、俺は‘キルシェ’とバルタザルにこれから起こることを話しただけだ」
「‘スリーズ’だよ」
「あんたが最初にキルシェと呼んだんだぞ。それに‘スリーズ’も‘ピュジェ’も言いにくい」
オルフィニナは「わかった」と言わんばかりに両手を上げてくすくす笑った。確かに‘スリーズ・ピュジェ’はアミラ人には発音しづらい名前だ。
それにしても、バルタザルも知らなかったとは、少々意外だ。
「ルキウスは腹心にもなかなか腹の内を明かさないんだな。疲れそうだ」
が、それもルキウスらしい。
オルフィニナは向かいの席で子供たちに囲まれているルキウスをチラリと見た。どうやら二人から別々の質問をあれこれとされているようだ。
「あんたがそんなふうにルキウス・アストルを気遣うとは、仲良くなったもんだな」
クインは揶揄するような調子で言った。ルキウスのことを話す時のオルフィニナの顔は、明らかに以前とは違う。
「そう妬くな。お前のことは一番に信頼してるよ」
オルフィニナは桃のジャムを塗ったパンを口に運びながら、クインの脇を肘で小突いて屈託なく笑った。まったく、無邪気なものだ。この言葉の残酷さに気づいていない。
「仲がいいのね」
二人の様子を見ていたイオネが朗らかに笑った。
「クインとは兄妹も同然に育ったんだ。今も兄と思ってる」
オルフィニナは機嫌良くクインの無愛想な顔に笑いかけた。
「ほう。道理で気心が知れているわけだな」
アルヴィーゼが唇を吊り上げてルキウスを見た。先ほどからオクタヴィンやニケがオオカミと遊んだことや最近のお気に入りの本について話しかけても気もそぞろに生返事をして、クインと楽しげに話すオルフィニナにばかり神経を割いている。
「そうだ。ニナとアドラーは家族だからな」
ルキウスが殊更に「家族」という部分を強調して言うと、アルヴィーゼは不遜に目を細めた。
「それで、女公殿下――いや、女王陛下と呼ぶべきか」
このアルヴィーゼの一言で、この場に緊張が走った。
オルフィニナはアルヴィーゼの刺すような視線を受け止め、穏やかに目を細めた。
(この目…)
笑いが込み上げてくる。
ツークリエン山の陣幕で初めて対峙したときのルキウスの目と、そっくり同じだ。
オルフィニナは静かに口を開いた。
「そう呼ばれる覚悟はできている。だがあなたがたはどうだ」
コルネールが自分をアミラ女王と認める覚悟ができているのか。と、挑発しているのだ。危険な賭けであることに変わりはない。
「自分にその価値があると思っているか」
アルヴィーゼは答えず、重ねて訊いた。
ふ、とオルフィニナが笑った。
「わたしの価値を決めるのはあなたがただ。わたしにとってはそれほど重要じゃない」
‘西方の王’アルヴィーゼは、依然として鋭い視線をオルフィニナに送っている。
ルキウスはこの様子を寛いだ様子で見守っている。アルヴィーゼがこんなことを聞くのは、計画に乗るつもりがあるからだ。
「だが、やると決めたからにはやる。祖先が始め、叔父が再燃させたこの戦を、わたしたちの代で永遠に終わらせる。そのためには、叔父に王冠を被せるわけにはいかない。そちらの身内に対して悪いが、レオニード王の従弟殿も簒奪に加担している限り容赦はしない。ルキウスとのことも、もうやめるつもりはない。この男を――」
オルフィニナはルキウスの目を見た。こちらを見つめ返す緑色の目は、愉しそうだ。
「――わたしの夫にすると決めた」
「で、失敗したらみな道連れか」
アルヴィーゼは冷たい声色で言った。オルフィニナは傲岸にも顎を上げ、嘲弄するような目で公爵を見た。
「ルドヴァン公爵ともあろうものが、失敗を恐れるとはね。案外肝が小さいのだな」
くっ、とルキウスが失笑した。この国で王族の次に権威を持つルドヴァン公爵にそんなことを言えるのは、オルフィニナくらいのものだ。
「家族と家臣の命がかかっている。勝算もない賭けに身を投じるほど愚鈍ではない」
「‘中立’を言い訳に正しい行いを為す機を逃すのと、どちらが愚鈍かな。わたしとは判断基準が違うのだろうが、それがコルネールの流儀なら、それまでの家ということだろう」
オルフィニナはアルヴィーゼよりも不遜な笑みを浮かべて、椅子の背もたれにゆったりと背を預けた。
「だがわたしはあなたがたに損はさせないと約束する。人の面も、金の面もね。生産性のないことは嫌いだ」
「ふ」
アルヴィーゼが笑った。
「生産性」
「あなたの好きな言葉ね」
イオネが夫の腕に触れて嫣然と笑った。
「…まあ、いいだろう」
アルヴィーゼがオルフィニナとルキウスの顔を交互に眺めて言った。
「使われてやる。後悔させるな」
オルフィニナはニヤリと笑ってコーヒーの入ったカップを掲げた。朝食の席に酒はないから、酒杯の代わりだ。次に、ルキウスの顔を見た時、心に小さな動揺が生まれた。その目の奥に、何かが見えたからだ。
「ニナ、ニナ。ニケのパンにもモモのジャムぬって」
と、この幼女の一言で場の空気が一変した。
ニケがふくふくした指で差した先に、オルフィニナが先ほど桃のジャムを塗ったパンが置いてある。
ルキウスとアルヴィーゼがくつくつと笑い出し、イオネも「こら」などと言いながらおかしそうに唇に弧を描かせた。
「ニケ。ニナはソニアじゃないのよ」
イオネが幼い娘を窘めると、ニケはくりくりした緑の目を母親に向け、可愛らしい声で反駁した。
「そうだよ。ニナだよ」
そんなことはわかっている。と言うのだ。
「ニナのぬったジャムがおいしそうなの」
周囲で気を利かせたイオネの侍女のソニアとアルヴィーゼの側近ドミニクとスリーズが一斉に立ち上がろうとしたが、オルフィニナが手を上げて彼らを制し、快活に笑って自らパンを取った。
「いいよ、ニケ。かわいらしい友達の手伝いは嬉しい」
ニケは脚をパタパタさせてにこにこ笑った。
オルフィニナがパンにジャムを塗ってやり、それを乗せた皿を手に席を立って、向かいの席のルキウスの後ろを通り、その隣のニケのそばまでやってきた。
「ありがと、ニナ。ニケ、ニナだいすき」
「ふふ。ありがとう。わたしもあなたが好きだよ」
オルフィニナは胸のくすぐったさに破顔してニケの頭をくりくりとこねくり回した。
「ニナ、あのね…」
「うん?」
ニケが声を小さくしたので、オルフィニナは腰を屈めて耳を小さな公女に近付けた。
「リュカでんかも、ニナのことだいすきなんだって。だからでんかともなかよくしてあげてね。ニケが好きな子にはやさしくするといいのよっておしえてあげたから、ニナにもやさしくしてくれるよ」
オルフィニナは目を丸くして、柄にもなく反応に困ってしまった。
しかも、とてもヒソヒソ話とは言えない声量だ。みな笑いを堪えきれていない。スリーズなどは笑いを噛み殺すこともなく、ころころと笑い声をあげている。
それとなく隣に視線を移すと、ルキウスが何とも言えずバツが悪そうな顔をしていた。
「…ニケ、それ、全部聞こえてる」
ルキウスは唇を歪にひくりとさせて幼い公女の頬をつつき、オルフィニナの背を流れる赤い髪にそっと触れた。
オルフィニナは、手を握られたように錯覚した。触れられたはずもないのに、手が熱い。
この日、ルドヴァンに珍客が現れた。
鳶色の髪にハシバミ色の目をした婦人だ。上流階級の貴婦人のようなのに、供を付けず、一人でコルネール城の門前に佇んでいる。
そして、奇妙なことに、公用語のマルス語が話せない。
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